彷徨えるマネキン人形(2/9)
平井は自転車にまたがると、一息ついてから勢いよくこぎ始めた。
空の色は青から淡いオレンジに染まり始めている。おそらく向うに着く頃はすっかり真っ赤になっているはずだ。
正直あまり気は進まないが、用事を済ませなければ実験に戻れない。それならのろのろ行くよりもさっさと行って早く帰ってくるに限る。
平井は少しでも早く辿り着こうとやや強めにペダルを踏み込んだ。
高瀬博士に呼ばれたら、何があろうと速やかに話を聞きに行くこと。それが十三番研究室に配属された平井に割り当てられた謎の仕事だった。
何故大勢配属された学生の中から平井が選ばれたのか、それはよく分らなかった。
仲間に言わせると「お前は人がいいから」らしいが、自分では全くそんな自覚はない。どちらかといえば悪いほうだろうと思っていた。だが、どちらにしろその仕事を言いつけたのが研究室の教授なのだから断れるはずもなかった。
高瀬博士というのは、街外れに屋敷を構えた一人暮らしの老人で、教授とは古くからの知り合いらしい。
一度会ったことのある人ならわかるだろが、かなりの変人……もとい、個性的な人物である。
時々他の人が到底思い付かないような突飛なことを閃いては誰彼構わず捕まえて話して聞かせるという少々困った癖があったのだが、それが元であの有名なQ理論を発見した。そのため教授のほうも博士がいつまた大理論を閃かないとも限らないと考えて、連絡があった時は学生を一人聞き手として向かわせている――というのが学生の間の噂だった。
だがあいにく、今のところ平井は大理論どころかまともな話さえ聞いたことがない。
とりあえず今日は戻ってから実験の残りをやらなければならない。
高瀬博士のことは別に嫌いではないし理論や発想自体も面白いと思う。だがあの長話にだけは閉口してしまっていた。
いつも通りだとすればたっぷり五時間は付き合わされる。研究室に戻れるのは夜中か下手をすれば明け方。
日が沈むまでにとは言わないが、できれば二、三時間くらいで済めばいいのだが……。
平井は淡い希望と大きな絶望を抱きながらただ無言でペダルをこぎ続けていた。
どこからか、烏の鳴き声が聞こえていた。
平井の想像通り、屋敷に着いた時は既に日が沈みかけていた。
「いや、すまんな。休日だというのに呼び出して」
いつものように平井を居間へ招き入れると、高瀬博士はコーヒーの入った湯飲み茶碗を出しながら全くすまなくなさそうに言った。
「いえ、それは別にいいんですけど……」
椅子に座った平井はためらいがちに湯飲みに手を伸ばしながら、「今日はどういう用件で僕を呼んだんです? ひょっとしてまた何か発見なさったんですか?」
高瀬博士は得意げににやりと笑うと持っていたパイプを燻らせた。
「ああ、その通りだ。今度のは実に素晴らしい歴史的発見でな」
……やっぱりそうか。
そうだろう、というかそれしかないとは思っていたものの、実際そう言われると少なからず気が滅入る。
平井はかすかに溜息をついてコーヒーを一口飲んだが、途端に顔をしかめた。
……苦過ぎる。適量の倍以上入ってないかこれ。
高瀬博士は恐らく七〇歳前後。ほっそりとした長身の体型で、たっぷり残った髪の毛は灰色に染まっている。整った、どこか少し気の弱そうな顔立ちだが、その目からは未だ衰えない情熱が光っていた。
着ている服は上等品でセンスも良く、こうしてパイプを燻らせている様はどこか威厳のような風格さえ感じさせる。 あとは黙ってさえいてくれれば十分立派な老紳士として通用するのだが……。
「それで博士、今回はどんな発見をなさったんですか?」
と、平井は訊いた。
「ああ、それなんだが」
高瀬博士は頷いて、「先日、久しぶりにテレビを点けたら見知らぬ男が顔で分厚いセロハンの板を破ろうともがいていてな。それを見て閃いたのだ」
セロハンの板を顔で破るって何だろう、と平井は内心首を傾げた。バラエティ番組で芸人か何かがやったんだろうか。
まあその辺は深く考える必要はなさそうだ。
平井は余計な考えを脇に追いやり博士に続きを促した。
「何を閃いたんです?」
「あのセロハンは宇宙を表しているのだよ」
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