さまよえるマネキン人形

鈴木空論

彷徨えるマネキン人形(1/9)

「それじゃ頼んだよ、平井君」

「は、はあ……」

 平井慎が頷くと、浅丘教授はさっさと研究室から出て行った。

「………」

 平井はしばらくその場を動かず、教授が出て行ったドアを見つめていた。

 そりゃ、それが自分の役目だ。呼ばれたら行くしかない。

 しかし――。

「よりによって、こんな時に呼ばれるなんてね」

と、二本の試験管を見比べていた田崎晴美はくすくす笑いながら言った。

 平井は憮然として、

「他人事だと思って……」

「嫌なら行かなきゃいいじゃない」

「そういうわけにもいかないよ。わかってるだろ?」

 平井は肩をすくめると自分の実験机に目をやった。

 机の上には様々な試料が入った瓶やらビーカーやら、ごちゃごちゃと実験器具が並べられている。

 課題の実験もようやく終わりそうだったのに。これでまた徹夜決定か。

 平井はもう一度、今度はさらに深い溜息をついた。

 R大学工学部練、十三番研究室。平井と晴美はここに所属する学生である。

 この研究室の学生はこの二人だけではないのだが、今日は休日で時刻も既に午後の五時。他に来ていた数人の学生はもう用事を済ませてさっさと帰ってしまい、いつものようにこの二人だけが残って実験を続けていたのだった。

 もっとも、居残っている理由は全く違う。教授に指示された実験をとっくに済ませ、趣味で進めているほうの実験に取り掛かっている晴美(平井には信じ難かったが、実際本人がそう言ってやっているのだ)に対し、平井のほうはただ作業に手間取って昨日の課題を未だに終わらせていないだけ、という情けなさ。……まあ、平井がここまで手際が悪くなったのも、今の教授に頼まれた『仕事』の影響が少なからずあるのだから多少は同情すべきかもしれない。

「――それにしても、あの博士があのQ理論を発見したなんて、やっぱりちょっと信じられないわよね」

 試験管に試薬を一滴加えながら、晴美が独り言のように言った。

 Q理論というのは、数十年前に発表されノーベル物理学賞候補に挙がったほどの大理論のことだ。

 もっとも、あくまで候補なので世間的にはほとんど知られていないのだが。

 平井は自分のロッカーにまわって白衣の肘のボタンに手を掛けた。

「確かにね。この間のなんか酷かったもんなあ……」

「それとも、あんな風に想像豊かじゃないと大発見なんてできないのかしら」

 晴美は防護眼鏡を上げると、ケースに立てた試験管の反応と手元の資料とを見比べる。

「さあ、それはどうだか……」

 平井はあいまいに言った。

 確かに高瀬博士は「想像豊か」には違いない。

 というより、ひたすら想像だけで突き進むから手がつけられないというか。

 それにしても……。

 平井はやたら穴の小さい襟のボタンを外すのに苦戦しながら、ちらりと晴美のほうを盗み見た。

 晴美は相変わらず試験管を凝視している。

 化粧っ気はほとんど無く、艶のある長い黒髪は無造作に後ろで束ねている。地味な服装の上に実験用の白衣を羽織り、両手にはゴム手袋、顎にはマスクを付け、おでこに防護眼鏡を乗っけていた。――そんな格好にもかかわらず、晴美は十分に魅力的だった。

 多分、今よりほんの少し着飾っただけでも相当なものになるんじゃないか、と平井は常々思っていた。

 だが、晴美はいわば実験が恋人という研究者肌の人間なのだ。

 もったいないなとは思うものの、そんなことは他人が口を出すようなことでもない。

 平井は脱いだ白衣を適当に丸めててロッカーへ放り込むと、

「それじゃあ行ってくるよ」

「ああ、がんばってね」

 晴美は試験管のほうが気になるのか、それを覗きながら取って付けたように言った。

 平井は背を向けたまま軽く手を上げると研究室を出て行った。

 バタン、と扉が閉まった。


 扉が閉まると、晴美はついと顔を上げた。

 廊下の足音がだんだん遠退いて行き、やがて聞こえなくなる。

 ……晴美は途端に肘をつき、つまらなそうに試験管を眺めた。

 はぁ、と溜息をつく。

 本当は、実験なんて別に趣味でもなんでもない。晴美は平井が居残りの時だけ『趣味の実験』と称して実験室に残っているのである。

 だが、鈍感な平井はそんなことには全く気付く気配もない。

 いつになったら気付いてくれるんだろう? もちろん、気付かれたからどうなる、というようなものでもないんだろうけれど……。

 晴美は試験管を小刻みに振った。――ポン、と小さなきのこ雲が飛び出した。

「あーあ、また失敗だわ……」

 晴美はもう一度、今度はさらに深い溜息をついた。

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