第8話 少しの期待
白い湯気の立ち昇る風呂場。
湯船いっぱいに張った湯の中に体を沈める。
「……はぁ、疲れた。」
体が温もりに包まれ、深く息を吐き出して脱力の声が漏れる。
……足腰が痛い。
久々の外出で、随分と体力も持っていかれてしまったようだ。
四肢が上げる悲鳴を聞き流しながら、僕は蓄積された疲労に目を瞑った。
……こんなんで、明日からの学校は大丈夫なのだろうか。
少々不安になってしまう。
それもそうだ。
たった一駅行った先で買い物をしに出掛けた程度。
それだけで体に負荷が掛かっているのを感じる。
こんなことで、明日から毎日続く学校の日々に耐えられるのだろうか。
……学生って案外凄いんだな。
毎日規則正しく起床して、朝早くに家を出て、帰りの夕方まで外で過ごす。
慣れてしまえば当たり前のことなのかもしれないが、正直に言って、今の僕にそれが出来る自信は無い。
数ヶ月前までは、自分自身もその学生であったことなど忘れ、僕は素直に感心の念を抱く。
……でも、それは社会人になっても同じことなんだよな。
いや、もしかすると社会人になってからの方が、より時間に余裕が無くなったり、忙しくなったりするのかもしれない。
そう考えると、今みたいな学生の時間なんてものは、これからの人生に比べると圧倒的に楽な時間なのだろう。
「……なんだか、人生って大変だなぁ。」
漠然と、これから先の自身の未来を想像し、そんな感想を呟く。
「……何かお悩みですか義兄さん?」
「……うーん、何で当然のように入って来ちゃったの?」
そんな彼女の声が聞こえた時には既に、浴室の扉は開け放たれていた。
突如、白い湯けむりの向こうから現れたのは真っ白の影。
さも当然ことのように、平気な面して覗く碧色の視線。
身体に巻き付いた純白のタオルは、彼女の線の細さを際立たせるように柔らかそうな肌を包んでおり、男に非常に危ない思考を抱かせる。
今その格好であることが、何らおかしなことではないと、そう思わせてしまうほどに彼女―――アキラは景色に溶け込んでいた。
「……冷静に考えて、兄の入浴タイムにタオル巻いて入ってくるのはおかしいけどな?」
いや、逆にスッポンポンでなかったことを不思議に感じてしまう僕は、もう随分と彼女に毒されてしまっているのだろうか。
「……すみません。義兄さんが何か悩んでいたようだったので、入ってきちゃいました。」
「……あんまり理由になってない気もするけど。」
とは言いつつも、なんだか彼女を追い出す気にもなれず、僕は静かに息を零す。
「……悩みって程のことでもないよ。ただ……生きるのって疲れるんだなってそう思っただけ。」
そして風呂場の天井を、その向こう側を見上げ、僕はそう言葉を呟いた。
別に、何かを期待した訳じゃない。
誰もが感じるような人生の憂鬱を吐き出して、慰めが欲しかった訳じゃない。
……ただやはり、目の前の彼女は、どんな時も僕に寄り添ってくれるのだろう。
「……義兄さん、辛いことは、いくら考えても辛いことです。」
優しく穏やかな声音で、彼女は言葉を続ける。
「なので、ハッピーなことを考えましょう。例えば……私が義兄さんのお背中を流すとか♡」
頬に手を当て、恥ずかしそうに乙女な顔を見せるアキラ。
「……それはハッピーなことなのか?」
しかしどうやら、僕には乙女心というものが分からないらしい。
「…………嬉しくないですか?」
真顔だった。
恐ろしい程に素の表情だった。
いっそ、恐怖すら感じてしまうくらいに無色すぎる目の色が、目の前に浮かんでいた。
「……ん、んーと、嬉しいかも、しれない。」
「ですよねですよね♪」
しかし、それも束の間。
僕の喉から絞り出た声に、彼女は再び仔猫のような可愛らしい表情を見せた。
……あ、危ない。一瞬、空気が凍りついた。
お風呂の温度が急激に下がっていくような感覚が残っている。
アキラが家に来てまだ二日目。
未だ彼女との距離感は掴めない。
……これからは発言にも気を付けないとな。
いつ彼女の地雷を踏んでしまうか、慎重に彼女と接していく中で、見極めていかなければならないのだろう。
……人付き合いって面倒くせぇ。
頬の引き攣るような思いを抱き、思わず胸中で呟きを漏らしながら、僕はその場をやり過ごすのだった。
「――今日こそは一緒に寝ましょ、義兄さん♡」
「……あー、そんな約束したっけなー。」
「シラを切るのはやめてください。昨日は許してあげましたよね?今日からは、ずっと私が添い寝するんですよ。」
「……冗談じゃなかったんだな。」
「誕生日プレゼントですから。マジですよ。」
言いながら、彼女は僕のベッドの上にダイブ。
布団の柔らかさを堪能するように転がり、毛布で丸く包まる。
現在、風呂上がりの僕らは、来る明日の為に早めの就寝を迎えようとしていた。
……明日はとうとう学校に行く日だからな。万全を期して早く寝た方が良いだろう。
そう考えて自室に戻ってきた手前だ、アキラが自分の枕だけを持って僕の部屋を訪れたのは。
「スンスン、これが義兄さんの
「言い直すな。臭くねぇわ。」
「ふふっ、冗談です。」
破顔する彼女の頬は、溶け落ちてしまいそうな程に綻びに満ちている。
あまりにも幸せそうな表情を前に、今更『やっぱり一緒に寝るのはやめよう』だなんて言葉、僕には言い出せなかった。
「―――義兄さん、こっちに来てください♡」
両手を広げ、その胸の中に
「…………。」
薄紅色した可憐な寝巻きを身に纏う彼女の、雪のように白い長髪がベッド一面に広がっている。
その艶っぽい輝きに、見惚れるような感覚を抱いてしまいながらも、僕は彼女のすぐ横に寝そべった。
「……どうして正面じゃないんですか?」
「……逆になぜ正面だと思った?」
すぐ真横で構えるハグ待ちポーズのアキラに背を向けて、僕は短く嘆息する。
いくら妹と言えど、昨日出会ったほぼ赤の他人である女の子にここまで好感を寄せられると、いつ僕の理性が弾け飛ぶか、分かったものじゃない。
たとえ兄という存在であったとしても、僕も一人の思春期男子だということを、アキラにはもっと理解してもらいたいところである。
「…………。」
「…………。」
数秒の間、無言の時がベッドの上に訪れる。
背中に彼女の視線を感じながら、僕は眠りに着こうと瞼を閉じた。
「……義兄さんって、童貞さんですか?」
「…………いきなりなんだよ。」
暫くの静寂の後、突然口を開いたかと思えば、アキラは僕にそう問い掛けてきた。
「……いえ、ちょっと気になっただけです。童貞さんなら、別に良いんです。」
「……?」
何やら意味深な態度でそう言葉を零すアキラに、僕は疑問符を浮かべるが、その後に彼女の言葉が続くことはなかった。
「…………。」
気が付けば、隣ですぅすぅと可愛らしい寝息の音が聞こえ始める。
……不思議な子だな。
そんな感想を抱くとともに、僕は彼女に向き直る。
「…………。」
人形のように端麗な表情。
儚い雪のように真っ白な髪が、まるで冬の精霊を想起させる。
しかし、彼女が身に纏うピンクのパジャマは、彼女もただの人であるという現実を思い出させた。
「……明日から学校か。」
天井を見上げ、静かに呟く。
……何も不安がないと言えば嘘になる。
しかし、ここで恐怖し、停滞を選ぶことは僕にはもう出来ない。
……だからこそ、頑張るしかない。
「…………。」
目を閉じる。
待ち受ける明日を、ただ待つことにする。
これまでは、ただ繰り返されるような毎日に、飽き飽きするような夜を過ごしていた。
……でも今は、少し明日が楽しみでもあるんだ。
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