第3話 愛しさの証
「―――義兄さんに、キスして欲しいです♡」
彼女の唇は、確かにそのように発音した。
「…………はぇ?」
その言葉の意味を理解するのに数秒、そしてその言葉を呑み込む為に数十秒の時間を要した。
「…………え?え?」
長い沈黙の後、僕は困惑の声を上げる。
……えっ?キスってあのキス?あの、所謂『口付け』所謂『接吻』と呼ばれる類の、あれのこと?
それとも魚?僕に魚のモノマネをして欲しいと、そういうこと?
いやしかし、自分の誕生日プレゼントとして、兄が魚みたいに口をパクパクさせるだけの画を望むだなんて、アキラがとんでもない変態でなければ、有り得るはずがない。
……でも、そうなってくると、いよいよ訳が分からないぞ。
まさか、本当にキスすることを指しているのか?
いや、そんなまさか。
多分あれだ。
「……あー、あれだよな、あれ、ほら、あのー、最近は特にキスいよな?」
「…………何を言ってるんですか、義兄さん。」
本気で心配するような目で見られてしまった。
……違った。最近はよく『エモい』だとか『ナウい』だとか、よく分からない単語が流行っているから、そういう系だと思ったのに。
「…………『ナウい』はちょっと古くないですか。」
思案気に呟くアキラをよそに、僕はとうとう音を上げる。
「……キスっていったい何なんだ!?」
キスキスキスキス頭の中で言い過ぎて、『キス』という単語がゲシュタルト崩壊を起こしそうな勢いである。
「……何をそんなに難しく捉えているのか分かりませんが、読んでそのまま字のごとくですよ?」
言いながら、アキラはペロッと舌を出して、僕に向かって可愛らしくウインクを飛ばす。
「…………ウッ。」
それを直視してしまった僕は、不覚にも一瞬、恋情にも似た胸の高鳴りを感じてしまった。
……【
特徴的なのは、腰まで伸ばした美しい銀髪に、透き通るような綺麗な碧眼。
長い睫毛が妙に色気を演出して見え、整った顔立ちなのは言わずもがな、彼女の顔には年相応の幼さと、儚い雪のような美しさが、絶妙なバランスで同居している。
全人類を探しても、きっと彼女以上に容姿の整った人間は存在しないのではないだろうか。
『まるで造り物のようだ』と、漫画の世界から飛び出してきたのかと疑ってしまうほどに、彼女は限りなく完璧に近かった。
そんな少女を目の前にして、弱者男性であるこの僕がクールに振る舞えるわけがない。
たとえそれが妹であったとしても、もとは他人なのだから。
どうしても意識してしまう。
……僕ってロリコンなのかな。
考えてみると、アキラはたった二ヶ月前までランドセルを背負っていたような子供なんだ。
愛くるしさは感じても、そんな子にドキマギさせられるだなんて、どう考えても僕の方が異常なのだろう。
「……と言うか、一つ気になったんだけど。」
そこで、突如降って湧くかのように、一つの疑問が脳内に浮かび上がってくる。
「……?なんですか?」
彼女は首を小さく傾げ、僕の次の言葉を待つ。
僕の感じたこの疑問。
これは誰もが抱くであろう当然の疑問だ。
ただ、今の今までそのことを忘れていたのはきっと、あまりにもアキラが僕のことを知り過ぎていたから。
まるで、初対面だとは思えないほど、彼女は僕との接し方を理解していたから。
だからきっと―――
「……どうして僕のことが『好き』だなんて言ってたんだ?」
―――この問いを口にすることは、至って普通の思考である。
だって、どう考えても僕とアキラは初対面だ。
こんな容姿的にも特徴のある子、一度会っていたら忘れるわけがないだろう。
でも、いくら僕の記憶の中を探しても、そこにアキラの姿は無い。
つまり、彼女とは今日初めて会ったはずなんだ。
聞いた時にはサラッと流したけど、彼女は確かにこう言っていた。
『好きなものは義兄さんで、大好きなものも義兄さんです♡』と。
……何故?
何故こんなにも好かれている?
初対面で会って僕のどこに惹かれる?
僕なんかのどこに魅力がある?
不登校で、もやしみたいにガリガリで、勉強も出来なくて、スポーツなんかも全然で、友達甲斐もなくて親不孝者のこんな自分の、どこに好かれる要素がある?
分からない。
分からないから怖い。
その好意を、僕は素直に受け取れない。
相手の望むもの、相手が自分に見出してくれた価値を失ってしまったら、僕はきっと見捨てられる。
―――また裏切られてしまう。
それだけはダメだ。
そんなのはもう耐えられない。
だから必死になって守らないと。
僕の価値を、自分自身の意義を、己の存在そのものを―――
「…………。」
彼女はただ、僕のことをじっと見ている。
大きな丸い硝子細工のような透明な瞳で―――僕を見つめている。
それは、僕の心の内側を見透かさんとするかのようで。
彼女の瞳はまるで、僕の心情を映し出したかのように憂いの色を帯びていた。
「…………義兄さん。」
彼女が静かに僕を呼ぶ。
僕は黙って彼女を見る。
すると彼女は、その目の色に慈しみを宿し、こう言葉を零した。
「……私は、義兄さんの全部が好きです。」
僕のすぐ傍まで寄り、彼女は両の手で僕の頬に触れる。
愛おしいものにそうするように、彼女は優しく微笑んでいる。
「……義兄さんのことを愛しています。」
少しひんやりとした彼女の手のひらは、僕の心を落ち着かせてくれる。
「…………でも、なんで。」
しかし、だからこそより一層、疑問が深まってしまう。
アキラは、どうして僕なんかのことを、こんなにも想っているのか。
その答えを知りたい。
その一心だった。
けれども―――
「……義兄さんが好きだから。それだけじゃあダメですか?ちゃんとした理由がなければ、愛することも許されませんか?」
少しだけ困ったような表情で、彼女はそう呟いた。
「……好きなんです、義兄さんのことが。どうしようもないくらいに愛しているんです。」
目を伏せ小さく肩を震わして、彼女は言葉を続ける。
「理屈じゃありません。言わば本能のような、私の心の奥底からくる想いなんです……!」
…………でも、それじゃあ。
しかし、僕の胸に燻る想いは、未だ晴れない。
怖いから。
すぐ近くに居たはずの存在が、気付いた時には手遅れなほど、離れてしまっているのは恐ろしいから。
だから知りたい。
僕自身の価値を。
僕が必要とされる理由を。
僕の―――
「……義兄さんは、優しい人なんですね。」
「―――え?」
彼女の声が聞こえた、その瞬間。
―――僕は温もりに包まれた。
「…………。」
先程よりも強く、そして長く、彼女の胸に抱き寄せられる。
ドクン、ドクンと脈打つ穏やかな心音が、僕の内側まで伝ってくる。
彼女による力いっぱいの抱擁が、僕の意識を集中させる中、彼女は優しい手付きで僕の頭を撫で始めた。
「……義兄さんは、他人から勝手に向けられる好意に頑張って応えようとする。だから自分が苦しくなってしまう。」
……だって、義兄さん自身が、自分の価値に気付いていないから。
そう話す彼女の声音は優しくて、思わず僕は聞き入ってしまう。
「……でもね義兄さん。私にはそんなことを思わなくても良いんですよ?」
そして彼女はこう言葉を続けた。
「……先程も言いましたが、義兄さんが私のことを気にする必要はありません。これは私が好きで勝手にやっていることなんですから。義兄さんが私を愛してくれる必要はないんです。」
「…………。」
「……信じて欲しいとは言いません。ただ、これだけは覚えておいてください。私は―――絶対に義兄さんを裏切ったりなんてしません。」
正面に見つめ合った彼女の表情は、真剣そのものだった。
自分の気持ちをどうにかして僕に伝えようと―――僕の心に響かせようと、そう思ったのだろう。
「…………そっ、か。」
それに対し僕は、たったそれだけの反応しか返せなかった。
「……ところで義兄さん、キスはどうなったんですか。」
「え?」
そんな呟きが部屋に落とされたのは、先の会話から僅か数秒後のことであった。
「私が、義兄さんと熱くてトロけちゃうようなキスをしたい理由は、先程納得してくれましたよね?」
「……理解はしたけど納得はしてないからな。」
「細かい言葉のニュアンスは気にしません♡」
ウキウキとした面持ちで、僕の膝の上に馬乗りになるアキラ。
「……ほ、本当にするのか?」
「本当にします♡」
頬の色を紅潮させ、彼女は熱っぽい視線を僕に向ける。
……参ったな。めっちゃ可愛い。
少しの隙間もないほどに互いの体を密着させ、柔らかい肌の感触が服越しにも伝わってくる。
「……義兄さん♡」
彼女の甘い淡色の声が、僕の耳朶を撫でてくる。
……あ、やばい。
近くに彼女を感じれば感じるほど、その猫なで声が刺激になって思わず体が反応してしまう。
もう全てがどうでもよくなってしまうほど、僕の理性メーターは限界付近へと達していた。
「……ねぇ、アキラ。」
「どうかしましたか、義兄さん♡」
「…………やっぱりキスはやめとこう。」
「……へ?」
それでも、吹き飛びそうな理性が押し勝ったのは、ひとえに彼女が妹だということを思い出したからである。
……いくら義理だからって、アキラが『妹』であることに変わりはない。
世の中に、自分の妹に手を出すような兄はいるか?
断じて否である。
もし本当にそんなのが存在するなら、そいつは兄の風上にも置けない野郎だ。
だから……
「……誕生日プレゼント、別のにしよう。」
後ろ髪を引かれる思いを蹴飛ばしながら、震える声で僕はそう言い放った。
「…………わかりました。」
そんな僕の心中を察してか、不満げながらも渋々といった様子で頷くアキラ。
……兄の威厳を尊重できる、よく出来た妹だ。
僕はアキラの返答に軽く感動を受けつつ、誕生日プレゼントとしてのキスの代案として、何か欲しい『物』を要望してくれたら嬉しいなぁと考えていると、何かを思い至ったようにアキラは笑みを浮かべ、そして口を開いた。
「……それじゃあ、これから毎日、寝る時は義兄さんと一緒に寝かせてください♡」
「…………んん!??」
「これであとは毎晩義兄さんを誘惑して、襲われるのを待つだけですね♡」
……前言撤回。この妹、兄としての僕の威厳を破壊する気満々である。
「……え、いや、でも。」
「……何も問題は無いはずですよ?私を襲うことを強要しているわけじゃありません。ただ義兄さんが耐えれば良いだけなんですから。」
……なんて無茶なことをこうも平然と。
僕は思わず頭を抱えてしまう。
思春期真っ只中の中学生男子が、美少女同衾のベッドの上で、永遠に悶々としたものを抱き続けなければならないというのか。
僕は神や仏の類じゃないんだぞ……!
人並みに欲はあるし、そういうことにだって興味はある。
しかし、隣にいる美少女が『妹』というだけで、手を出しちゃいけないだなんて、そんなの地獄よりもよっぽど地獄じゃないか……!
その光景を想像しただけで、絶望の表情を隠せない僕は、がっくしとその場で肩を落とす。
そんな僕に、彼女はスリスリと猫のように擦り寄ってき、かと思うと意味ありげに目を伏せて、そして静かに口を開いた。
「……義兄さん私、心配なんです。さっき私がどうやって義兄さんの部屋に入ったか分かりますか?」
突然のその問いかけに、僕は頭に疑問符を浮かべる。
「…………?どうやってって、そりゃ普通に扉から……」
そこまで言って、僕はハッと気付いた。
「…………!?いや、僕の部屋は鍵が掛けてあったはずだぞ!?どうやって侵入したんだ!?」
そう、今朝両親に呼ばれた時は部屋を出る時に鍵を閉めたし、帰ってきた時も部屋の鍵はちゃんと閉めた。
それなのに、アキラはこの部屋の中から現れたのだ。
それも、僕の背後から突然。
そのことを思い出した僕は、忘れていたその事実に恐怖を抱く。
そんな怯える様子を見せる僕をよそに、彼女は表情を変えず、淡々と説明するように話し始めた。
「……義兄さんの部屋の窓、鍵が開いていたので、そこから入りました。」
「……ここ二階ですけど??」
家の壁をよじ登ったとでも言うつもりなのか?
しかし、アキラは僕のツッコミにも反応を示さず、俯いている。
「……あ、あのー、おーい、アキラさーん。」
彼女の目の前で手を振る。
……えぇ、無反応か。
何やらおかしい様子を見せる彼女に、どうしたものかと振っていた腕を戻―――
「―――義兄さん。」
「……いっ!?」
……戻そうとした腕が、アキラによってがっちりと掴まれていた。
「ちょ、ちょっと、……!?」
その手を振り解こうとしたその瞬間、前髪に隠れていた彼女の表情が、とんでもない黒色の瘴気を纏っているのを見てしまった。
綺麗だったはずのアキラの碧色の瞳は、まるで闇の中に落ちてしまったかのように黒く淀んだ色をしている。
そんな彼女を恐れる僕に、虚ろな瞳をしたままアキラは僕に詰め寄ってきた。
「……義兄さん、ダメじゃないですか。窓の鍵を開けておくだなんて不用心しちゃ。今回は私だったから良かったものの、もし私以外の女が入って来ていたらどうするつもりだったんですか?義兄さん筋力ないから、押し倒されたら抵抗出来ないでしょ?そのまま襲われたらどうするんですか?」
「……え、え?」
「私、嫌ですよそんなの。義兄さんが他の誰とも知らない女に奪られたらって考えると、その女のこと許せません。四肢を切り落として八つ裂きにして、内臓を引きずり出してからバラバラにして魚の餌にしたって許せません。頭がどうにかなりそうです。」
……いや、多分もう既に頭がどうかしてる。
僕は頬の引き攣る感覚を覚え、目の前に迫った彼女の表情に身震いする。
「……不安で、不安で仕方ないんです。これからも毎日そんな不安に苛まれるなんて、嫌なんです。だから、私が傍に居れば私は安心できますし、何かあっても義兄さんを守ってあげられる。」
でもそれって、部屋の窓の鍵を閉めれば解決することなんじゃ……
という言葉は、流石にこの雰囲気では言い出せなかった。
「……僕のベッド、シングルサイズなんだけど。」
「密着して寝るので無問題ですね♡」
「…………ちなみに期限は?」
「もちろん無期限です♡」
僕が嘆息しそう言うと、先程までの謎の瘴気は何だったのか、コロッと態度を変えたアキラが甘えるような声で僕に擦り寄ってくる。
「…………はぁ。分かった、それでいこう。」
僕は再度ため息を吐き、そしていよいよ覚悟を決めて僕は彼女の申し入れを了承した。
「やった!義兄さん、ありがとうございます!」
彼女は心底嬉しそうに、満面の笑みで微笑む。
……僕は絶対に妹には手を出さないからな!
その傍ら、妹を持つ全国のお兄ちゃんたちにそう高らかに宣言した僕は、その目に決意を宿し、これからの就寝時間を戦の場だと見据えていた。
「……もし、もし万が一、痴情のもつれがあったとしても、それはただの事故ですから♡」
「…………っ!?」
そんな僕の耳元で、甘い声で囁くアキラに一瞬で堕とされかけながらも、なんとか僕は決意を固めた。
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