Named

かんなり

1. 山本 桜


 高校の頃、山本桜という同級生がいた。頭が良く、賑やかではないがクラスの行事などで活躍するような子だった。高校生というのは不思議なもので、三十人程度のクラスの中にいくつかのグループが生成されて、教室移動や昼食は同じグループの者同士で共にすることがほとんどである。山本さんは三つほどに分かれた女子グループの内、全てを渡り歩いていた。試験前は赤点ギリギリの子達の自主学習に付き合ってあげていたし、理科の先生が休んで自主学習になった時には先の赤点ギリギリグループが騒ぐのを注意していた。

 一方、私は幼馴染みと二人一組で過ごすタイプで、たまに浮いてしまっていた。そんな私が山本さんと言葉を交わしたことは少なく、しかし強烈に記憶に残っている出来事があった。


 三月の中頃だった。桜前線が私たちの街にも到達し、とっくに三年は卒業し、新入生はまだだというのに薄いピンク色の花吹雪舞う真昼のこと。終業式を控えたその日は、校内のあちらこちらを生徒で手分けして大掃除する日だった。私は山本さんと同じく校門から校庭までの自転車置き場付近の担当に回されていた。と、そこで同じクラスの女子が言った。

「桜の髪に、桜がついてるよ」

 顔を見なくともにやにやとした悪戯っぽい目が浮かぶ声色に、私も振り向いた。

「このくだり、去年もやったじゃん」

 山本さんはやんわりと笑いながらそう返し、肩の辺りまで伸びた黒髪をぱっぱっと手で払った。実際に桜の花びらが降りかかっていたのかまでは見えなかったが、そんな彼女と目が合った。すると、その目がかっと見開かれた。彼女はずいずいと自転車数台分の距離を詰め寄ってきた。何事かと思い、竹箒の柄を両手で握り締めると。

「フジ!」

 山本さんが私を呼んだ。私の名字に由来する渾名は中学の頃からそれなりにクラスに浸透しているものだった。

「フジの頭にもついてるよ」

 山本さんはにかりと歯を見せ、自らの側頭部をこつこつと指で突いた。それに従い、右か左かは忘れたが私も自分の頭を触ると、たしかに、しっとりとした手触りの花びらが指に絡まり、落ちていった。

「ありがとう」

 何とか礼を言って、それで終いかと思ったが、山本さんは何故か友人たちの元へ戻らず、私が掃いたばかりの場所を竹箒の先で擦り始めた。つん、と下唇が尖った横顔を見て、私は珍しく閃いた。先ほどの友人とのやり取りを山本さんは笑って流したが、本当は周りが思うよりも面倒に思っているのだ、と。

「……毎年、大変だね」

 わざわざそういう言葉をかけるのも憚られたが、思った時には口に出ていた。幸い、山本さんは「それな」と力なく笑ってくれた。もしかすると、彼女は愚痴とも言えない文句を誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「よくみんな飽きないなーって」

 私にとって、山本さんの新しい一面を見てしまったかのような瞬間だった。彼女の口数は普段より増えた。

「桜の花もいいなとは思うし、自分の名前、嫌いじゃないし、嫌いになりたくないんだけどね」

 それはそうだ。いわゆる、社会問題とも呼べるキラキラネームに「桜」は入らないと私は思う。むしろ、良い響きの名前だ。親御さんが何らかのおもいを込めて付けたのだろう。人にからかわれるせいで、その名に対して嫌悪感を抱いてしまうのは、なんというか、もったいないというか、とにかく悲しい。

 さらに私は、山本さんの一言にひっかかった。桜の花も、と彼女は言った。「も」、と。

「一番好きな花はどれなの?」

 聞けば、山本さんは私の見慣れた表情に戻った。唇の両端が少し持ち上がった、人当たりの良い顔だ。そして、その瞳はどこか輝いているように見えた。

「チューリップが一番かな」

 種類とか詳しくは知らないんだけど、と彼女は続けた。

「保育園とか小学校入った時に、お名前シールってあったじゃない?」

「うん。あの、おはじき一個一個に貼るやつ」

「おはじきのは小さすぎるけど、歯みがき用のコップとかに貼る大きいのとか、手書きしたひらがなの名前の横に、チューリップの絵を描いてくれたの。お母さんが」

「ああ、チューリップって、絵に描きやすいよね」

 私は竹箒でアスファルトをなぞる。円の弧を顔の輪郭のように下半分描き、その上にアルファベットのWのようなギザギザをくっつけた。それこそ保育園児の名前バッジがこんなチューリップの形をしていた気がする。砂埃でははっきりとした絵は描けなかったが、山本さんには伝わったようだ。

「そうそう、それ。だからチューリップが一番好き。名前とセット、ってイメージついちゃって」

 なるほどそういう理由で好きな花が決まっている人もいるのだな、と思うと面白かった。

 山本さんはこの話をほとんど人にしたことがなかったのかもしれない。しかし誰かに話してみたかったのだろうということがうたかがえた。と言うのも、彼女は少し照れ臭そうに話を切り替えてきたからだ。

「フジは?」

「ん?」

「どの花が一番好き?」

「……うーん、特に……。ああ、でも、小学校の校庭の隅に小さい藤棚があって、校長先生が手入れしてたな」

 教頭だったかもしれない、と思いつつ話すと、そこでチャイムが鳴った。ちなみに、私は自分の名字について、先ほどの山本さんのように藤の花がどうと言われたことはない。小学生は下の名前で呼び合うことが常であったし、「藤」の字の入った名字はさほど珍しくもないし、校庭の隅の藤の花は体育館前の桜の花ほどは目立たない存在だったのだ。




 四月下旬。二十年ぶりに訪れた母校の藤棚は枯れずに残っており、その淡い紫の花を豪勢に垂らして私たちを迎えてくれた。ゴールデンウィークに入ったタイミングでの、卒業二十周年を記念した同窓会。正直なところ、幼馴染み以外に私と付き合いの続いている者はいないのだが、もう何を入れたかすら忘れてしまったタイムカプセルの中身を確かめたいがために参加した。お年を召したがご健在の担任教師と当時のクラス委員によると、タイムカプセルを埋めたのは藤棚の近くだそうで、何名かがこの辺りのはずだとシャベルをグラウンドに突き立てている間、手持ちぶさたになったメンバーが藤棚の写真を撮っていた。

 私はと言うと、シャベルを握った幼馴染みを遠くから眺めていただけだ。暑いので早く校舎に入りたいと考えていたところ、不意に懐かしい「アキラっち」という渾名が耳に入ってしまった。

「そこ立ってよ」

 私を呼んだ女性は、記憶が正しければミツキという名前の子で、スマホ片手に私を手招きした。いいけどどうして、と返事しながら立たされたのは藤の花の真横だった。

「だって、アキラっち、藤原じゃん。似合う似合う」

 ミツキはそう言ってスマホで写真を撮った。どうせ紙にプリントされることなく彼女のスマホの画像フォルダに埋もれるであろう画像を、どうにかして消せないだろうかと思いつつ、私は藤の花の甘い香りを生まれて初めて嗅いだ。ああ、山本桜さんは毎年こんな気持ちだったのか、と溜め息を溢してしまった。

 風の報せによると、山本さんは高校卒業後に他県へ引っ越し、既に結婚をして子どももいるらしい。今時、手書きでないお名前シールにチューリップは描かれていないだろう。大袈裟かもしれないが、だがたしかに存在する時代の流れによる変化を思えば、哀愁が私の胸の内にふわりと漂い、そして花弁が水の中に沈みゆくかのように消えていった。



終.

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