辰さん

 一月三十一日(金)

 ・文箱一点(工芸品らしき木彫り。美品)

 ・和紙の切れ端のようなもの。白紙。

 持ち込まれた男性にいわく、かつて親交のあった詩人(故人)の持ちものとその作品だったものとのこと。拭い去りがたい罪悪感から数十年来手元に置いて保管していたが、引き継いでくれる人もいないため預かってもらえないかとのこと。



 キヨシの家の隣には、〈辰さん〉が住んでいた。子ども心に、不思議な人だと思っていた――キヨシの兄たちよりも歳上らしいのに働きに出るでもなく、日がな屋敷の離れの縁側に腰かけて、ぼんやりと空を見上げているような人だった。そうかと思えば、本を何冊もそばに積んでいたり、紙に何かを書きつけては、それをまた直したり。

 辰さんはまったく働きものには見えなかったが、他の大人が知らなそうなことをふいに口にして何度もキヨシを驚かせた。それは、大抵どうでもいいような、忘れても構わないような――雨についた美しい呼び名や、〈青〉の種類や、外国の詩文に登場する花の名の訳し方について、のようなことだった。

 「今日のような天気のことを、〈日照雨そばえ〉というんだよ」

 その日は、天気雨が降っていた。白い光に満ちた空から注ぐ細い銀の雨は、そのものが輝いているようでもあった。

 「〈そばえる〉というのは、ふざけることだ。あべこべの天気が一緒になったもんだから、天の神さまがふざけたんだってことさ」

 辰さんのような人のことを〈詩人〉と呼ぶのだと、つき合いが長くなるにつれてキヨシは知った。時の流れにたゆたうように生き、いつも穏やかな辰さんが書き散らした(と本人は謙遜して言っていた)言葉は、他の言葉とは比べものにならないほど煌めいて見えた。

 キヨシは辰さんのことが好きだったが、彼に対する感情はその時々で気まぐれにキヨシを振り回した。尊敬と友情の間に、突然嫉妬を感じることもあった。いつまで経っても縁側から離れない彼に、もどかしさと、わずかな軽蔑を抱いたこともあった。

 はっきりした正体は分からなかったが、もっと暗い、翳りのような気持ちがうっすらと心の片隅に生まれるのを感じたことも、あった。


 ※


 「本気かい? 」

 航空隊に志願することにした、と意気揚々報告したキヨシに、辰さんは苦い顔をした。キヨシはせっかく高揚していた気分をくじかれて、自分も似たような苦い表情を浮かべずにはいられなかった――だが、どこかで分かっていたような気もしていた。

 辰さんが国民としての務めを放棄して狭い世界に引きこもっているのは、長く胸を病んでいるからだと、そのときのキヨシは知っていた。

 健康な男子として国家の剣となろうとしている自分と、満足に働くこともできず、浮ついた言葉を追ってばかりの詩人。自分たちの関係をそう考え出したのは、いつからだったろう? キヨシは辰さんのいる縁側から遠ざかりはしなかったのに、かつて胸を占めていた友愛や敬愛は、少しずつ憐れみや侮蔑、優越感に姿を変えていた。

 だが辰さんは、そんなことには気がつきもしないようだった。キヨシから目を逸らして、辰さんは言った。

 「君がそうしたいなら、僕は見送るしかない。――無事を祈ることしかできない」

 無事など祈ってもらわなくても結構だ、とキヨシは言った。命など惜しいとは思っていなかった……そんな甘えた気持ちは、ずいぶん前に卒業していた。嘘ではない。だから、こんな呑気な暮らしをしている辰さんに憐れまれている、子どものように恐怖を押し殺している、などと思われるのは屈辱だった。

 公のために成すべきことも成せず、家人に疎まれ、みずから変わろうともしない。恥ずべきことだった。

 「おれがあなただったら、自殺している」

 とキヨシは言った。

 「あなたのような人間でいることは、耐えられない」

 「君だって自殺しにいくようなものじゃないか」

 辰さんは顔色ひとつ変えずにそう言った。羨望も嫉妬も、避難がましい表情すら、その顔には浮かんでいなかった。

 「正直、君が望んでいるような言葉は贈れない。心の中にない言葉は、口に出しても虚ろなものでしかない。――僕は、ただ君の命が惜しいだけだ」

 「おれは、命が惜しいなんて思っていない! 」

 「君はね。でも、僕は君の命を惜しむ。僕自身の命もだ」

 キヨシはうろたえた。なぜ辰さんは、こんなにも平然としているのだろう? 聞くに堪えない侮辱を加えたにも関わらず、なぜ怒りを見せないのだろう? なぜキヨシの決断を称賛してくれないのだろう?

 「今は、国民が一丸となるべきときです。これほどの有事は、他にない」

 「だから、君は決めたんだろ」

 「そうです。この身に代えても――それなのに、あなたはどうして……。〈命を惜しむ〉だなんて、人に聞かれてごらんなさい。憲兵の耳にでも入ったら、ただじゃすみませんよ! 」

 「誰かを迫害したがるのは、そいつが自分に嘘をついているからだ」

 キヨシは耳を疑った。だが、辰さんはさらに言葉を重ねた。

 「そういう嘘は、大抵取り返しのつかないことにならないと気がつかない。個人の意思を踏みつけにして、最低限守るべきものを差し出させるなんて、あまりに途方もない偽りだ。いつか世界中が、大きな代償を払うことになるだろう。今はまだ、それにどんな価値があるのか、僕には分からないな」

 「嘘をついているのはあなたの方だ」

 キヨシは怒りでこぶしが震えるのを感じながら言った。

 「あなたはそんな体だから、誰かのお荷物になるしかない! 自分が惨めだから、都合のいい理屈をこしらえただけだ! 」

 「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 辰さんはキヨシから顔を背けて咳き込んだ。いかにも肺を悪くしていることが分かる、耳障りな咳だった。

 だが、辰さんの心は肉体的な弱さに浸されてはいなかった。

 辰さんはきっぱりと言った。

 「君が何を正しいと思おうと君の自由だ。僕が何を信じようと自由なのと同じように。――そのうち答えが示されるよ」

 キヨシは聞いていなかった。どうしても宗旨替えしない辰さんの頑なさが、胸をむかつかせた。ひどく不愉快だった。

 「非国民め! 」

 吐き捨てて、キヨシはその場を立ち去った。辰さんの反応など、知る由もなかった――幼い時分の一時的なものとはいえ、辰さんに対して抱いていた敬愛が、拭いがたい汚点のように思えた。


 ※


 キヨシが戻ってきたとき、人々の営みが繰り返されているべき郷里の面影は、跡形もなく焦土の中に消えていた。悪夢のような皮肉だった――家族の中で無事だったのは、命を顧みなかったキヨシだけだった。

 かつてあれほど心に燃えていた情熱や信奉るしていた誇り、高揚、結束が占めていた場所を、いまや虚しさだけが辛うじて埋めていた。焼け出され、生き残った近隣の人々とともに毎日瓦礫を掘り起こしながら、ともすると自分も膝からがらがらと崩れ落ちるのではないかというほどの無力感に襲われるのだった。

 その小箱を見つけたのは、そんなときだった。

 どうしてそれまで気づかなかったのだろう! もはや敷地の境目も分からなくなった隣家の、放置された瓦礫の山の上に、木箱がぽつんと乗っていた。周囲の惨状からは信じられないような、傷ひとつない美しい木箱は、一点の星のように輝いて見えた。

 キヨシは箱に近寄り、震える手で取り上げた。細かな彫刻が施された上蓋を、その行いが正しいかどうかを判断するより早く開きながら、朦朧とした一瞬の間に、これは辰さんのものに違いないとキヨシは確かに考えていた――確かに、縁側に座るあの詩人のかたわらに、こんな箱がなかっただろうか? ……

 箱には思ったとおり、何かを書きつけた紙がたくさん入っていた。キヨシは縋るような気持ちで、書きつけられた詩文を読もうとした。

 一番上の紙に手を触れようとした途端、不可視な〈何か〉が外へ噴き出してくるのをキヨシは感じた。圧力も、手ごたえもなかったが、思わず身を引いた――姿なきものたちはキヨシの手を拒むように飛び過ぎ、キヨシの耳元に優しい囁きを残した。


 ――あめつちよ……

 ――こはるびに……

 ――ひさかたの ひかり……


 その合い間に、何の音だろう、小さく弾けるような音が混ざっていた。キヨシは知らず知らず、その小さな音の正体を突き止めようとした。

 ――木の焼ける臭いがする。キヨシはそんな馬鹿なとかぶりを振ったが、パチパチという音は次第に大きくなり、気のせいだと退けられなくなっていった。

 キヨシは今や、見えないものを見、聞こえないものを聞いていた。

 火が燃えている。耳をつんざくような、甲高いサイレン。通りに飛び出た人の悲鳴――自由にならない体を何とか起こそうとすると、胸からせり上がってきた咳とともに熱のこもった血が口からぼたぼたとこぼれた。

 ――おれのむねには かぐつちがすむ

 と囁いた声があった。

 ――それともおれが かぐつちなのか

 別の声が続けた。焦熱が頬を焼くようだ。

 ――ははをあやめた ひのかみよ

    うまれることは つみなのか

 真上の梁が火に包まれるのをキヨシは見た。最後の声が、かたわらを飛び去っていった。

 ――ちちにきられた ひのかみよ

    ひとりたちさる いとしいおまえ

     うまれたことが つみならば

      いっしょにつれていってくれ

       いっしょにつれていってくれ

 「待って! 」

 キヨシは大声で叫び、それから我に返った。

 火事も血も、囁き声も、消えていた。キヨシは瓦礫の中に、見つけた木箱を持って突っ立っていた。

 箱の中には、白紙の束が入っているだけだった。そんな馬鹿な! キヨシは必死に、染みひとつない紙を掴み出し――とうとう最後に、一枚だけ、歌の書きつけられた紙を見つけた。


 日の照らす きよき浄土の まぶしさに

   地獄に憩ふ 天つひとの目


 どこが分岐だったのだろうと、キヨシは思った。

 辰さんを非国民となじったあのときか。

 みずからに詩人としての才がないことを感じ、辰さんに嫉妬したあのときか。

 美しい言葉に魅せられ、ただ憧れていられたあのときか――。

 キヨシは箱を抱いて大声で泣いた。力なくうずくまるその背に、いつからか柔らかな雨が降り注いだが、晴れ間から降るその不思議な雨の名はキヨシの中にはなかった。

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