天使病

 三月二十七日(金)

 ・金の指輪一点。かなり古いものか。見事な天使の彫金。

 ・持ち込まれたのはとある事件? を追う警部さん。事件現場に共通してこの指輪があるので、試しに〈外部委託〉してみたいとのこと。



 桜井氏が最初にその指輪を見たのは、とある主婦がマンションの三階から飛び下りたまさにその現場だった。妻がベランダから飛び下りようとしているという男性の必死の通報を受けて数分、救助も説得も待つことなく、夫の腕を振りほどいて落下した彼女の手――桜井氏が見たのは、ブルーシートからたまたま覗いていた手だけだった――に金色に輝いていたのがそれだった。

 夫は驚きと恐怖に凍りついた表情のまま口も利けないようなありさまで、桜井氏としては、もし夫が妻を故意に突き落としたのだとしたら大した演技力だというほかなかった。

 妻が何を思って突然みずから命を絶つようなことをしたのか夫には心当たりがないということで、真相が分からないままではあったが、とにかくこの一件は事故として滞りなく処理された。桜井氏は慎重に捜査を重ねたが、やはり事件を匂わせる証拠は特に出なかった。

 最初から気に留めていなかったのだから当然だが、ひと目見ただけの指輪のことなど、桜井氏はいつまでも覚えていることはなかった。


 ※


 この金の指輪とふたたび出会ったとき、桜井氏は初めておやと思った。一度見たものだからではなく(桜井氏はこのとき指輪を見るのが二度目だとはまったく気づいていなかった)、指輪をしていたのが若い男性だったからだ。細かな彫金が美しい金の指輪は、どう見ても女性に似合うように作られていた。

 亡くなった男性は、勤め先の屋上から飛び降りて転落死していた。全国的に名のある大企業の社用ビルは周辺企業より頭ひとつ抜けて高く、社名に恥じないその立派な建築が、まさかこんな形で役立とうとは誰も思わなかったに違いなかった。

 一体何が彼をそうさせたのか皆目見当もつかない。

 こちらは、彼が一人前の社会人になれるよう熱心に指導した。

 未来ある命が惜しまれてならない。

 直属の上司だった男が声を震わせながら言った。その目は、一度も桜井氏の目を合わされることはなかった。


 ※


 三度目の悲劇は、桜井氏のまさに目の前で起こりかけた。退勤後にふと立ち寄ったコーヒーショップのガラス越しに、手すりを乗り越えようとしている女性の後ろ姿があった。それは駅ビルの二階から外へ伸びている通路の手すりだったので、もし桜井氏が店員から差し出されたホットコーヒーをうっちゃって女性を後ろから抱き留めていなければ、彼女は数メートル下の道路に叩きつけられるばかりか、絶えずやってくる車両のどれかに跳ね飛ばされていたに違いなかった。

 一体何を考えているんだと安堵感から開口一番に説教を垂れそうになったとき、桜井氏は掴んだままの彼女の左手の指に光る金色の指輪に気がついた。天使がほほえむ、美しい指輪。――待てよ、こいつは前にもどこかで。

 「お嬢さん、……この指輪は? 」

 自分でも妙な質問だと思いながら桜井氏は尋ねた。女性は指輪と桜井氏を交互に眺め、それから初めて見るもののようにしげしげと指輪を見つめた。

 「これ……わたしのじゃありません」

 「なんだって? 」

 「わたしのじゃないんです。……こんなこと言って、変だって分かってるんですけど……でも、今の今まで全然不思議に思わなくて」

 桜井氏は、彼女の話を信じる気になった。彼女は嘘や出まかせを言っているようには思えなかったし、第一、こんなめちゃくちゃな嘘があるだろうか?

 コーヒーショップに戻り、桜井氏の大活躍を目撃した店員がサービスしてくれた温かいココアを飲むうちに、彼女はまともに話ができるようになった。

 彼女には悩みがあったという。なんとか日々を送ってはいたが、重い気分はいつまでも晴れない。そんなとき、左手からいつもこの指輪が励ましてくれている気がした。金色に輝く天使の微笑を見つめていると、自分も軽々と空へはばたけるような気がした。

 どんなしがらみからも自由になれる気がした――。

 「この指輪がいつからわたしのところにあるのか、思い出せないんです。買った覚えも、もらった覚えもないんです」

 色味の戻った頬で彼女は話した。彼女の指から抜かれた指輪は、桜井氏に渡された。

 「差し支えなければ、君の悩みについて教えてもらえないだろうか」

 と桜井氏は聞いてみた。彼女は道路へ飛び下りようとしていたとは到底思えないような笑顔であっけらかんと言った。

 「母が早く結婚しろってうるさくて、勝手にお見合いを約束してきたりして困ってたんです。わたし、そんなつもりないのに……でも、悩んでたのは確かですけど死ぬつもりなんて……。どうしてあんなところから飛び下りようなんて思ったんだろ」

 飛び下りようと思ったわけではないのだろうと桜井氏は思った。彼女は飛べると思ったのだ。本気で、空を飛んで自由になれると――この、金色の天使のように。邪悪さのかけらもない微笑は、善悪を超越した無垢そのものだった。悩める人々のもとへ現れ、願いを聞き届けてくれる――この世に縛られている魂を、肉体の死によって救ってくれるのだ……。


 それからしばらくして、例の大企業でひと騒動持ち上がった。クリーンで優良な印象は表向きのもので、実際は時代錯誤の根性論が幅を利かせており、心身に不調をきたすものが少なくない。それでも、休職も退職させてもらえない。それが実態だった。

 先日みずから命を絶った男性も上司からの暴言と暴力にさらされていたのだ。自殺であることに間違いはないが、彼の転落死と企業体勢とのかかわりが誰かの手によってネット上に暴露され、なまじ企業の規模が大きかったためにこの醜聞は全国的な話題となって連日ワイドショーを賑わせた。

 一方、桜井氏は職場である男の聴取に立ち会った。交際している女性への軟禁、暴行容疑の現行犯で逮捕された男――妻を飛び下りで亡くしたあの男だった。

 彼はナンパで手に入れた新しい恋人が帰宅するのを妨害し、一瞬の隙をついて逃げ出した彼女に激高して後を追って引きずり倒した。皮肉なことに、その現場は近隣の派出所の前だった。

 おれは悪くない。おれは被害者だ。亡くなった妻に対しても似たような虐待行為を繰り返していたのではないかという疑惑の目を向けられた男は、みずからの主張を取り下げなかった。

 妻が夫に尽くすのは当然だし、夫が家計の経済管理をするのは当然だ。おれたちは十分うまくやってきた。

 この間は、専業主婦の分際で見たこともない指輪をしていたから〈注意〉した。本当にダメな女だ。だからおれは間違っていない。

 それなのに、あいつは勝手に飛び下りた。

 言い募る男と呆れて言葉もない担当者とのやり取りを聴取室の窓越しに見ながら、天使の指輪が今自分の手元にあるのが本当に正しいのかどうかを桜井氏は考えた。答えは出なかった。

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