まじないや

ユーレカ書房

バラのマリシュカ

 二月二十二日(土)

 ・油彩画? 一点。画面上にバラらしき花の輪郭が黒ずんだ色で描かれているが、全体に過度の剥落。

 持ち込まれた女性いわく、ハンガリーを旅行された際に画廊の店先に置かれていたもの。署名などはないが、かの国の著名な画家の手による作品らしいとのこと。ただし保存状態が極めて悪いため、タダ同然の価格だったとのこと。

 ・画廊の主人から絵にまつわる噂を聞き、面白半分で購入。しかし帰国後、画面から剥がれ落ちた絵の具に触ったときに違和感を覚える。自分で処分するのも気味が悪く、引き取ってくれる場所を探していたところ当店に行きついたとのこと。


 ※


 マリシュカは、生まれつきの絵描きだった。年中、暇さえあれば絵を描いた――一日の時間は描いている時間とそうでない時間に二分され、描いている時間はそうでない時間よりはるかに長かった。

 紙でも壁でも土でも、余分な模様の入っていないものならなんでもマリシュカの画布になった。絵の具、鉛筆、泥、口紅、汁の出る植物など、ありとあらゆるものが画材になった。人間、動物、風景に家具、庭の石、自分の手、齧りかけのビスケットなどなど、彼女の目に入るすべてのものがひととおり描かれた。この傾向は彼女の一生涯を通して変わらなかった。

 マリシュカには、誰の目から見ても素晴らしい才能があった。マリシュカが題材とするものに特別なものは何ひとつなかったが、どんなにありふれたモチーフであってもマリシュカの手にかかればたちまち彼女の絵にだけ通う特別な〈命〉を吹き込まれた。

 構図、色合い、あるいは筆づかい――マリシュカの作品ではすべて一体となって、抗いがたい迫力を見るものに感じさせた。写真のように緻密なものも、逆に輪郭を色面だけでざっくりと捉えた前衛的なものもあったが、丹念であることが共通していた。どの絵にも、必ずどこかに〈こだわり〉があった。それは睫毛の細さであったり、肌の血管の透け具合であったり、何万枚とある木の葉一枚いちまいの重なりであったり、砂粒ひとつが生み出す陰影であったりした。マリシュカにとっては、これらの〈こだわり〉は絶対だった。その一点が完成しない限り、いつまでも絵は完成しなかった。いつもそうだった。

 マリシュカの才能を愛して称賛を惜しまないものと、彼女の絵に対する執着を見て〈まともじゃない〉と離れてゆくものとで周囲の反応は二分されたが、マリシュカはそのどちらにもさして興味を抱かなかった。家族でも、知人でも、あるいはまったくの他人でも、彼女の関心の対象となるための方法は例外なくただひとつ、マリシュカ風に言うならば、〈キャンバスに入る〉ことだけだった。彼女の称賛者の中にはみずから〈キャンバスに入〉ろうとするものも少なくなかったが、それは絵が完成するまでの自由と人権を放棄するというのと同等の挑戦だった。〈こだわり〉に捕まろうが捕まるまいが、マリシュカは画題となった協力者が思いどおりの働きをしないとたちまち機嫌を損ね、ちょっとしたことで大声を上げて罵り、手を上げ、ものを――大抵彼女の手元にあった水差しやパレットナイフなどを――投げつけたからだ。

 世の芸術家につきまといがちな評判が、マリシュカにも耐えずついてまわった。孤独、孤高、奇天烈、変人、鬼才、奇才、天才――だが、称賛と批判を同列のものとみなすマリシュカにとっては、どんな評判もやはり自分とは関わりのない、外界の喧騒の一種でしかなかった。


 ※


 ある年の初夏のことだった。

 マリシュカは数日前から、庭に咲いたバラの花を画題にしていた。一点の斑もない、ベルベットのような花弁を持った見事な赤バラだ。実物がこれほど美しいのだから、マリシュカが描き上げたらどれほど素晴らしいものができあがるだろう! 花にも虚栄心があるとすれば、彼女のそれをこんなにも満たしてくれる名誉は他にはないに違いなかった!

 だが描きはじめて三日が過ぎたあたりから、マリシュカは焦りを感じはじめていた。時間がかかりすぎていた――マリシュカとしては、長くとも三日以内に完成させたかった。相手は自然の、いつ状態が変わるかも分からない、気まぐれなか弱い花だ。第一印象から受けた瑞々しさを画布の上に永久に凍結するためには、腰を据えてじっくり描き上げるよりも、大きな色面で直感的に表現する方がいい。

 問題は、この絵のもっとも重要な要素であるバラの赤がうまく作れなかったことだった。どんなに絵の具を混ぜ合わせても、マリシュカが納得できるような赤にはならなかった。

 赤! 赤! あの見事なバラにふさわしい、美しい赤が作れたら、半日もかからずに完成するはずなのに! ………

 上の空でナイフを握って鉛筆を削っていたツケはすぐに回ってきて、マリシュカは左手の親指の先を削ぎ落していた。さすがのマリシュカも痛みを無視することはできない――舌打ちしたい気持ちを抑えて、マリシュカはハンカチで指を拭った。

 「……あった……」

 あった、あった、あった!

 マリシュカは呻きのような言葉にならない歓喜の声を上げながら、震える手で血を拭ったハンカチを握りしめた。


 ※


 バラの絵は大きなものではなく、マリシュカの存命中は売りに出されることはなかったが、彼女の手元にあった時代にはすでに彼女の代表作と呼んで差し支えないほどの評判を取った。マリシュカはいつもこの作品をそばに置いていて、モチーフになった赤いバラが散り、木そのものが枯れ、庭の様子がすっかり変わってしまったあとでもときおり筆を入れた。彼女の自宅には画廊の人間や新聞社の記者など来客が多く、彼らは別の絵を目当てに来ても必ずこのバラの絵に見惚れた。

 まるでバラそのものから色を移しとったかのような、いや、バラそのものよりもバラの生命力を感じさせるその色づかいは人々の心を捉え、〈バラのマリシュカロージャ・マリシュカ〉の名は国中に知れわたった。


 ※


 後世、研究者たちによってまとめられたマリシュカの後半生は次のようなものが通説となっている。

 画家として揺るぎない地位を確立したマリシュカだったが、画業以外に対する愛の欠落は親しくすべき人々まで遠ざけ、彼女の私生活は世間的に見てあまり恵まれたものとは言えなかった。

 そもそも、マリシュカの芸術に対する苛烈な情熱は多くの協力者たちを彼女のもとから去らせたのだ。ロージャ・マリシュカとして知られるようになってからはこの傾向に拍車がかかり、彼女の孤独はますます深まることになった――両親、兄弟、姉妹、夫、友人たちなど、マリシュカが生涯のうちで同居した人々はひとり残らず彼女の前から姿を消した。人間でなくても結果は同じだった。マリシュカは主人のいない犬や猫を熱心に保護したが、どれだけ彼女になついたように見えたものでも、その忠誠はひと月ともたなかった。

 マリシュカは死の直前まで孤独の淵にあり、例のバラの絵の前で手首を切って事切れているところを発見された。発見者の画商は、マリシュカが生前決して手放そうとしなかった名高いバラを引き取った。

 描き手を失ったことが分かったのか、あれほど多くの人を魅了した艶やかな赤はすっかり鉄錆色に褪せていたらしい――という嘘のような噂もまことしやかに囁かれた。伝説めいた噂が勝手に作り上げられるのも、名画の宿命といえるだろう。………


 マリシュカは、確かに自分で手首を切ったのだ。マリシュカの死からしばらくして、彼女は死にたかったわけではないのではないかという噂が一部から出たが、彼女の死にまつわる多くの説のひとつという扱いのまま、あとにはただ絵だけが残された。

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