第3話 - 精霊院

 彼女の体には、複数の痣が浮かんでいる。衣類に隠れていない目に見える箇所だけでも、片手の指では数えきれない。彼女は、細く青白い肢体を小さく折りたたみ、部屋の隅に座り込んでいる。輝くように白い髪の毛は、カーテンの隙間から差し込むわずかな陽光を、眩しいくらいに反射していた。静寂の中、ふわふわと浮かぶ小さな埃が、彼女の目の前で光に照らされている。


 大きな音を立てて、部屋のドアが勢いよく開いた。彼女は一切の反応を示さない。ドアを開いたと思われる大柄な男性が、静かな足取りで部屋へ入ってくる。部屋の隅で座り込んでいる彼女を見つけると、舌を鋭く鳴らして苛立ちを示した。


「……陰気臭えなあ」


 大柄な男性は彼女の前にしゃがみ込み、憐れむような表情で彼女の顔を覗き込んだ。彼女は、まるでそこに男が存在していないかのような表情で佇んでいる。


 瞬間、大柄な男性が左手で彼女の髪の毛を掴み、上に引っ張り上げた。


「−−っ!」


 彼女は、痛みに顔に歪める。


「……本当にうざいんだよなあ。お前」


 顔の近くまで彼女を持ち上げると、もう片方の手で煙草を吸い、その煙を彼女の顔に吹きかけた。彼女は煙にむせながら目尻に涙を貯めている。煙草の煙のせいなのか、髪の毛を引っ張り上げられていることの痛みのせいなのか、彼女の表情からは分からない。ただ、大柄な男性の次の行動に怯えていた。声を殺し、じっと痛みに耐えている。


「もうどれくらい経つと思う……?」

「……ぅう……」 

「ほんと……お前の頭の中、どうなってるんだよ。……5年だぜ。……5年。俺がこの精霊院『バルレ』に来てから」

「……いっ……た……ぃ……」

「うるせえ!!!」


 大柄な男性は、彼女を床に叩きつけた。鈍く重い音が、部屋に響く。


「誰が喋っていいといった?」

「はあ……はあ……」


 彼女は床に顔を張り付けたまま、小さな呼吸を繰り返す。その瞳に光はない。


「……今日は覚悟しておけ」



***



「シン、あんたまた遅刻だよ!」


 革製の前掛けを腰に巻いている長身の女性が、建物の外にいるシンに向かって大きな声を出す。下半身を覆っている前掛けには『運送屋 キャルル』という文字が刻印されていた。シンは長身の女性の呼びかけにほとんど応じず、黙ったまま建物の中に入っていく。


「あんたねえ、そう何度も遅刻されたら私の商売あがったりってもんだよ。うちはあんたしか従業員がいないんだから……シン、聞いているのかい?」


 長身の女性は独り言のようにぼやきを続けながら、荷物を荷台に積んでいた。建物の中には人力車が二つあり、長身の女性は右側の人力車の荷台で作業をしている。シンはその横を通り過ぎ、隣にある左側の人力車に近づいた。左側の人力車の荷台には、沢山の荷物が乗っている。その荷物を眺め、シンは長身の女性にこう言った。


「……今日はずいぶんと多い気がするんだが。配送先が増えたのか、トリータ」

「ああ、そうだ。隣町の運送屋が風邪にかかったらしくてね。そこの依頼がこっちへ流れてきてるのさ」


 トリータという長身の女性は、荷積みの作業を止めて返事をした。白く広い額から汗が流れてきている。トリータは首にかかっているタオルでその雫を拭った。


「ふうん……」


 シンは荷台の荷物を眺めている。積まれている荷物の多くは、小麦や果物などの食料品だった。それぞれが長方形の木箱に詰められている。木箱にはグラン帝国の紋章が刻まれていた。


「送り主が帝国軍でね、金になる仕事なんだが場所がちょっと遠いんだ」

「どのへん?」

「南地区」


 トリータの答えに、シンは顔を歪めた。


「南地区? こんな大量の荷物をここから引いてったら半日はかかるだろ。遠すぎる」

「だから金になるって言ったろ? シン、あんたよろしく頼んだよ。給料弾むからさ」


 トリータは楽しそうにそう答えると、シンの目の前に紙切れを突きだした。紙切れには、この荷物の行き先が書いてある。シンは掠め取るように紙切れを受け取った。


「仕方ねーな……。届け先は……精霊院バルレ?」


 紙切れに印字された文字を読み上げる。初めて耳にする単語だったようで、シンは首をわずかに傾げた。


「精霊院ってのは、国が運営している孤児院さ」


 グラン帝国には、隣国との戦争や悪魔の暴走によって身寄りを失くした子供たちを保護する、『精霊院』という名称の孤児院が点在している。精霊院に入れるのは限られた孤児だけであり、親戚や友人など、保護できる人間がいる場合は入院することができない。シンはゲンマに引き取られたため、その存在を知らなかった。


「聞いたことないな……」

「まあ、この辺はウォイールの中でも治安が安定していて孤児院が少ないから、あんたにはなじみが薄い施設だろうね。親を失ったりとかで経済的に自立が難しい子供たちは、だいたい精霊院に送られるもんだ」

「……そうなのか」


 シンは、木箱に刻まれているグラン帝国の紋章を眺めながら、フィークスとライラ、そしてゲンマのことを思い出していた。ゲンマはシンにとって両親の次に自分との距離が近い存在であり、育ての親といっても過言ではない。精霊院に送られる木箱を見て、自分が精霊院に入ることなく両親が残してくれた家で自由に生きていられるのはゲンマのおかげなのだと、シンは自覚した。


 暗い様子のシンに、トリータが明るい声色で話しかける。


「あんた、もしかして感傷に浸ってるのかい? はっはっはっ、柄にもないことをするんじゃないよ。普段、憎まれ口しか叩かないくせに。まあ、精霊院はすごくいいところさ。あんたが心配するようなもんじゃない。行ってみたら分かるよ」


「……うるさいな。日が暮れたら面倒くさい、さっさと行ってくる」


 シンは恥ずかしそうにトリータに背を向けた。


 建物の外では、太陽が燦燦と地面を照らしている。風はほとんど吹いておらず、道端に咲く一輪の花は佇んで陽ざしに耐えていた。空に浮かぶ雲は、太陽を器用に避けて流れている。短かった街路灯の影が、徐々に伸び始めていた。

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