第2話 - 悪魔祓い

 213年4月の暦票が、土でできた壁に張り付いている。暦票は茶色く色褪せ、端の部分がところどころ破れていた。窓から入り込む暖かい風に揺れて、乾いた小さな音を鳴らしている。


 暦票が張られている部屋は広い。北側の壁には大きな本棚が置かれていて、硬く厚いカバーに包まれた本が並んでいる。この部屋の中央には正方形のテーブルが置かれていて、その端にシンは腰掛けていた。シンの腿の上には、本棚に並んでいるものと同じような本が開かれている。シンはその本を食い入るように読んでいた。本の表紙には、『悪魔祓い』と書かれている。


 グラン帝国には、創立時から『悪魔』が住み着いている。


 悪魔とは、人の心の奥底に棲みつく実態のない化け物だ。怒り・恐れ・悲しみ・嫌悪といった負の感情が蓄積され臨界点に達すると、心の中に悪魔が棲みつく。悪魔の力に取り憑かれた人間は理性のコントロールが効かなくなり、殺人や破壊を繰り返す。


 グラン帝国では、悪魔による被害が後を絶たなかった。その理由は、悪魔に取りつかれた人間の力は尋常ではなく、帝国軍兵士ですら処理をするのに困難を極めているからだった。また、悪魔に大切な人を殺されてしまった人間は、悲しみや怒りから一気に悪魔化してしまうことが多く、そのことも被害数を抑えられない原因のひとつだった。悪魔が悪魔を生んでしまう。この悪循環を完璧に断ち切る方法は、いまだに見つかっていない。


 シンもまた、悪魔によって大切な人を奪われた一人だ。


 7年前、リベルタスという街でとある女性が悪魔化し、街だけでなく帝国軍にまで壊滅的な被害を与えたことがある。あまりにも被害が大きく人々の心に深い傷跡を残したため、畏敬の念を込めてこの事件には『リベルタスの悲劇』という呼称がついた。シンの両親は、リベルタスの悲劇における悪魔との戦いの中で命を落としたのだった。


 両親を亡くして以来、シンはこの広い家に一人で住んでいる。


「シン、いるのか?」


 広い部屋の中に、男性の声が響く。シンは返事をせず、声が聞こえた方向に体を向けた。「入るぞ」という声とともに、玄関のドアが開く。ゲンマだった。脇に大きな紙袋を抱えている。


「いたのか。返事くらいしてくれ」


 ゲンマの声に抑揚はない。呆れるでも憂うでもなく、淡々とした様子で言葉だけをシンに届けた。それには、自らの感情を言葉に乗せないようにというゲンマの意思が感じられた。紙袋の中から果物やパンを取り出すと、慣れた手つきで台所の横にある棚にしまっていった。シンは、すでに体をもとの方向に戻している。


「……別にいいだろ。というか勝手に入ってきていいのかよ」


 シンも同じように、言葉だけをゲンマに返す。そして、腿の上で開いていた本を静かに閉じた。机から体を下ろし、本を棚に戻す。


「……また悪魔祓いの本を読んでいたのか」


 果物やパンをしまい終えたゲンマは、シンが座っていた正方形のテーブルに体の半分を預けて腰かけていた。ゲンマの問いかけにシンは何も答えず、静かに本を棚へ戻した。シンの返事を待たずに、ゲンマが言葉を続ける。


「ライラの研究を引き継ぐのはよせ。何度も言ったはずだ」

「……うるせえな、ゲンマには関係ねえだろ」


 ゲンマは静かに息を吸った。


「俺は、フィークスとライラからお前の面倒を任されているんだ……。お前が誤った道に進まないよう、見守る義務がある」


 ゲンマの目には、ほんの少しだけ怒りの色が見える。


「……誤った道なんかじゃねえ、母さんの研究は」


 シンは視線を本棚に向けたまま、ゲンマに背を向けた状態で呟くように言った。


 シンは、両親を失ったその日から、ライラが研究していた『悪魔祓い』にのめり込むようになった。悪魔祓いとは、人間の心に巣食う悪魔と交渉し、その人間から悪魔を取り祓う術のことである。


 グラン帝国において、悪魔祓いを研究することは大罪だった。何故なら悪魔祓いには、悪魔との交渉によって術者までも悪魔化してしまうリスクがあるからだった。それに、悪魔祓いは過去に成功例がなかった。万が一、悪魔化を抑えることはできても心に巣食った悪魔を完全に祓い去ることはできず、大体の術者が悪魔化してしまうことから、リスクに対してのリターンが少なかった。ライラも、軍医として国軍に勤めながら悪魔祓いについて研究していたが、悪魔を祓い去ることができた経験は一度もなく、悪魔化を抑える経験さえ、数回しか成功した試しがない。悪魔祓いはそれほど難しく危険な研究だった。


「……悪魔祓いには、未来がない。秀才なライラでさえ、研究を完成させられなかった。ライラだけじゃない。過去、優秀な研究者たちが何人も悪魔化し、帝国軍に始末されてしまっている。お前も確かに優秀だが、この研究によってお前が悪魔になってしまい帝国軍に始末されてしまったら、フィークスとライラはどう思う? 頭のいいお前なら、考えなくても分かるはずだ……」


 ゲンマの目には、いつの間にか怒りではなく悲しみの感情が浮き上がっていた。しかしそれは、過去に起きた出来事への悲しみではなく、最悪の未来が実現してしまった場合を想像して悲しんでいるようだった。諭すように、言葉を続ける。


「……違うことを見つけろ。シン。お前なら軍部学校の入学試験も合格できる。誤った道を歩むな」


 ゲンマは正方形のテーブルから腰を上げ、玄関の方向へ向かいはじめた。


 シンは視線を右下に落としたままだったが、ゲンマが玄関のドアノブに手をかけた瞬間、「ふざけんな……」という言葉を発した。ゲンマの動きが止まる。


「……シン?」

「……俺は絶対にこの研究を止めない。必ずこの研究を成功させて、悪魔からこの国を救ってみせる。母さんが間違ってなかったことを証明して見せる」


 一息にそう言って、シンはゲンマを押し退け玄関から出ていった。


「シン! おい待て!」


 ゲンマは駆け去っていく行くシンを呼び止めるが、すぐに見えなくなってしまった。


 広い部屋に生暖かい風が流れ込んでくる。茶色く色褪せた暦票が、風に揺れて乾いた音を立てていた。



***



 通りに立ち並ぶ建物の外壁は、赤い煉瓦を積み上げて作られたものや白い木材を柱に張り付けて作られたものなど、様々な種類をしている。建物の高さや幅は一定ではなく、正面から見た形もそれぞれ違っていた。それとは対照的に、通りに並ぶ街路灯は一定の間隔で配置され、どれも全く同じ姿形をしていた。夜になれば同じような明かりを灯し、ちぐはぐな建物が立ち並ぶこの通りに柔らかな灯りをもたらすのだろう。


 シンは、外壁が煉瓦で作られた建物の前を一人で歩いていた。両の手をパンツのポケットに入れている。


「なんだよ……ゲンマのやつ」


 シンは、不満気な表情を浮かべながら、足元に転がる石を小突いた。


(悪魔祓いは、グラン帝国を救うための研究なのに……なんで理解してくれねえんだ。母さんと父さんの幼馴染なら、協力してくれてもいいのによ……)


 ゲンマとシンの両親は、旧知の仲であった。父親であるフィークスは、現在ゲンマが師範を務めている道場の元門下生であり、幼少の頃はゲンマとともに剣の腕を磨き合っていた。ゲンマはそのまま道場を引き継いだが、フィークスは自分の力を平和に役立てたいという思いから、グラン帝国軍に入隊。道場で培った剣の腕を活かし、少佐にまで昇進していった。ライラとフィークスが出会ったのは、隣国との戦争に駆り出されたときだった。ライラは軍医として傷ついた兵士の手当てに当たっており、そこでフィークスがライラに一目惚れをしたのであった。その後、すぐに二人は結ばれ、シンが誕生した。


 そういった経緯から、ゲンマはシンが生まれる前からシンのことを知っていた。


「悪魔がこのまま放置されていいのかよ……」


 シンは、口では悪態を吐くものの、ゲンマの気持ちを理解していた。ゲンマは、自分にも他人にも厳しく接し、己を律することを信条としている人間だが、義理人情にも厚く、利他的な考え方を好む男だった。シンは、親と同じくらい身近な存在である彼の信念や姿勢に、幼いながらも憧れや敬意の念を抱いていた。


「ん」


 シンは、とある食糧品店の前で立ち止まった。ガラスのショーウィンドウの中には、細長い形状のバゲットやバタール、月の形を模して作られたクロワッサンなど、さまざまな種類のパンが並んでいる。店の中にある小さなカウンターでは、キャスケットの帽子を浅く被った若い男が退屈そうに欠伸をしていた。


 若い男は店先に立っているシンに気が付くと、表情を明るくしてシンのもとへ駆け寄ってきた。


「おい、シンじゃないか。久しぶり。お前がうちのパン屋に来るなんて珍しいな」


 朗らかな表情でシンに話しかける。若い男はシンの目を見ているが、シンはショーウィンドウのパンを見つめたままだった。一拍の間をおいた後、くるりと体を返し若い男に背を向ける。その動作と同時に、シンはこう言った。


「……別にパンを買いにきたわけじゃない。ただ街をぶらついてただけだ」


 去ろうとするシンを、若い男が呼び止める。


「お、おい、待てよ。なんか持ってけよ。別に金はいらねえからさ。最近、あんまり売れなくて余っちまうんだ」

「ありがたいけど、食べ物は間に合ってる。頑張って売れよ」


 シンは歩みを止めず、わずかに振り返って若い男に返事をした。


 若い男はその言葉を聞くと、眉尻を下げてにんまりと笑った。


「なんだよ。ゲンマか? ついさっき、お前が好きなカンパーニュをたくさん買っていった」

「……」


 シンは何も言わなかった。再び視線の焦点を遥か先に戻し、歩み始める。若い男は短く息を吐きながら、諦めたように肩をすくめると、「また来いよ」と言った。


 若い男の名前は、サウルという。


 ここは、シンの両親が懇意にしていたパン屋だった。シンはサウルの作るカンパーニュが大好きで、よく両親に買ってもらっていた。フィークスとシンが剣術の稽古に行くときには、二人の好物である薄く切ったカンパーニュにベーコンとチーズを挟んだサンドイッチをライラが作り、弁当として持たせていたことも多い。シンにとって、サウルのカンパーニュは思い出の味であり、サウルのパン屋は思い出の場所だった。


 両親を失って以来、シンはサウルのパン屋にあまり近寄らなくなった。ここへ来ると、両親との楽しかった思い出が思い返され、暗い気持ちになってしまうからだった。昔は、パンの香りをかぐだけで、涙を流したほどだった。今でも、涙こそ流れないものの、胸の底に沈んでいる暗い悲しみが、水埃を立てて反応してしまう。


 この現象が起こるのは、サウルのパン屋だけではなかった。両親と時間を過ごした場所へいくと、シンの心に同じ現象が現れた。それでもシンが思い出の場所に行くときは、シンの心の中に迷いがあるときだった。


 サウルのパン屋を後にしたシンは、自宅への帰路についていた。歩く速度はゆっくりで、軍人や子供、主婦や学生など、さまざまな人間たちに追い抜かされていく。子供の甲高く澄んだ声が遠ざかっていったと思えば、無愛想な靴が規則正しい音を鳴らしてシンの横を通り過ぎていく。


(……たしかに、ゲンマの言う通り、俺の選んだ道は、間違っているのかもしれねぇ)


 シンの視線は相変わらず遠くを見据え、脇をすり抜けていく人間たちは景色と同化していた。


(母さんの研究を諦めて、帝国軍に入って父さんと同じように人々を助けるほうがいいのかもしれない。それが、グラン帝国で生きる上で正しい道なんだってことは、俺もよく分かっているつもりだ。頭では理解している)


 交差点で立ち止まる。目の前の道路で、2頭の馬がゆっくりと荷物を引いていた。その後ろに、馬車の列ができている。


(……でも)


(悪魔祓いの研究を諦めることが、正しいとはどうしても思えない。あの母さんが、間違ったことをしていたなんて……思えるはずがない)


 シンは、遠い昔の記憶を呼び起こしていた。ライラが初めて、研究について明かしてくれた日のことである。まだ幼かったシンは、必死に耳を傾けてライラの話の内容を理解しようとしていた。


『いい、シン。この研究は、グラン帝国を悪魔から救うためのものよ。もし帝国軍にバレれば、父さんも母さんもただでは済まされない。きっと処刑されてしまうわ。あなたを一人にしてしまうかもしれないの。それでも、私はこの研究を諦めない。悪魔祓いを完成させることによって、大勢の苦しんでいる人々を助けることができる。そのために多少のリスクはつきものだから。シン、あなたにこの研究を継いでほしいとは言わないわ。まだ8歳だしね。でも、これだけは覚えていて。ママの研究は、人々を困らせるためのものじゃない。救うためのものだってことを』


(……あのとき、母さんはなぜ俺に悪魔祓いについて話してくれたのか? その答えは分かってる。俺に、研究を引き継いで欲しかったからだ)


(でも、母さんはもういない。父さんも……)


 シンの周囲に、同じように交差点を渡ろうとしている人々が溜まっていた。馬車の横断が終わり、目の前の道路が渡れるようになると、溜まっていた人々が一斉に動き始めた。シンはまだ立ち止まっている。


 動き出さないシンに、杖をついた老人が声をかけた。


「あんた、渡れるよ。早く渡らないと」


 シンはその声で我に返った。老人にありがとうと小さく言って、道路を渡る。渡ってすぐ、懐から懐中時計を出し時刻を確認した。


「……まずい、遅れる」

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