炭酸の元彼
蔵
好きじゃないってなんなのだ
夕飯が用意された机の横に、彼氏だった人が這いつくばっている。世に言う土下座だ。
別れてくれ、という呻きにも似た声が聞こえた。頼むだなんて、私は何をお願いされているのだろう。冷たい床に這いつくばる彼氏だった人は、私が「わかった」というのを待っている。もう潮時なのだ。
私はあと何回、こうやって裏切られれば良いのだろう。
金曜日。会社の窓から外を見下ろす。入口で落ち合っている男女が、楽しそうに手を繋いで駅の方へ向かった。イチャつくのは別に構わないが、会社の人に見つからないようにやらないと、後で別れたとき気まずいのでは、と忠告めいた考えが頭をよぎる。
気付かないうちに握りしめていた財布から小銭を出してレモンスカッシュを買う。何故会社の自販機にレモンスカッシュがあるのだろう。高校の自販機のようだ。紙コップに注がれていく透明な液体を見つめる。
炭酸、好きだったのは何番目の彼氏だったか。
先週逃げるように部屋を出ていったあの人は、コーヒーが好きだった。
この前一緒に飲んだコーヒーうまかったよね。ほら、あそこのケーキ屋の、なんて、他の女と行ったデートの話を楽しそうに語ってたっけ。それがきっかけで浮気が発覚して、あっさり別れた。同棲を初めてわずか1ヶ月のことだった。
思えばいつも、私は別れを切り出されてばかりだ。他の女が好きになった。思っていたのと違った。あの人達にとって、私はなんなのだろう。
彼氏が途切れたことはないけれど、なんとなく、満たされたことはない。去っていく元彼に対して、悲しいとか寂しいとかの感情が持てないことが虚しかった。
「あれ、まだいたんだ」
炭酸の泡をじっと見つめていたら、覚えのある香水の匂いがして扉が開いた。
この香りは知っている。
「……お疲れ様です」
「冷たいなあ」
私がレモンスカッシュを買った自販機の隣の自販機で、缶のコーラを買うと、正面に座った。空いている席はいくらでもあるのに、何故わざわざここに座るのだろう。
「
「下の名前で呼ばないでください」
「今誰もいないし良いでしょ」
開けにくそうに何度か爪でひっかけて、コーラのプルタブをあげる音が休憩室に響く。この人は昔から、コーラのプルタブが苦手だ。数年経って役職が変わっても、それはずっと変わらない。
「また彼氏と別れたの?」
「だったらなんですか」
「なんで別れたのかなって思って」
「関係ないでしょ」
まあねーという間延びした返事も昔から変わらない。
仕事中は真面目な顔で上司相手にキレイな敬語を使っているけど、普段は柴犬みたいな顔で笑う、どこにでもいるゆるいサラリーマン。誰にでも優しく、部下にも人気がある。
「瑠璃さ、彼氏のことちゃんと好きだった?」
「……は?」
コーラの缶を握った手が揺れている。目線はそちらに向いていて、佐山さんのことを見ている私と目が合わない。
ちゃんと好き、ってなんだ。
「別れようって言われてなんて返したの」
「どうして私が振られたってわかるんですか」
「わかるよ」
コーラの缶の動きが止まると同時に、目が合う。私を責めるような、怒っているような、悲しいような目だった。
「嫌だって言った?」
「浮気してたような人、こちらから願い下げです」
「なんで浮気してたの知ってて付き合ってたの」
「それは……」
「好きだったんでしょ」
好きだったんでしょ。佐山さんの低い声が頭の中でぐるぐる回る。
好き……私を置いて年下のバイトに走ったあの人が?
お前は一人でも大丈夫。お前は俺のこと好きじゃないからって言い残して、荷物と一緒に去っていったあの人を、私はまだ好きだったのだろうか。
「俺、瑠璃と付き合ってた時さ」
残りのコーラを飲み干した佐山さんが、私に向かって話し出す。透明なレモンスカッシュの入った紙コップの底を見ている私の頭に、佐山さんの優しい声が降ってくる。
「いつも不安だった。俺のほうが年上だし、俺の好きな場所行ったり好きなもの食べてばっかで、瑠璃が本当に俺のこと好きなのかわからなかったから」
佐山さんは、3つ上の会社の先輩で新入社員だった私の指導係だった。
あるときプロバスケットボールリーグの話で意気投合して、何度か食事に行くうち付き合うことになったのを覚えている。
優しくて穏やかで、でも明るくて活発で。家に籠りがちな私を、水族館や動物園、キレイに装飾されたイルミネーションが光る夜の遊園地に連れて行ってくれた。
それまで付き合ってきた元彼の、何倍も楽しい時間だった。
昔から感情が読めないと言われ友達の少ない私は、わかりにくいなりに頑張って、楽しい、を表現していたつもりだった。
でも、付き合って2年ほど経ったとき、唐突に別れを切り出されて、その関係も終わってしまった。
あの時はそれなりに落ち込んだな。
「瑠璃に好かれようって必死で、勝手にから回って」
「……」
「勝手に、瑠璃は俺のこと好きじゃないって思い込んで別れてくれって頼んで」
またこのセリフだ。いつもこれ。お前は俺のこと好きじゃない。好きじゃないならなんなのだ。好きじゃない人と付き合うような女だと、私は思われている。
悲しい。
「瑠璃……」
突然佐山さんに名前を呼ばれて頭を上げると、両手の中のレモンスカッシュに、水滴が落ちる。いつのまに泣いていたのだろう。
カーディガンの袖で拭っても拭っても、涙が止まらない。
コーヒー好きのあの人に振られたのが悲しいのか、数年前の佐山さんとの関係が壊れてしまったのが悲しいのか、わからない。わからないけど、どうしようもなく悲しかった。
「責めるような言い方してごめん」
目の前にぼやけたネイビーが揺れた。たぶん、佐山さんがハンカチを差し出してくれているけれど、涙で前が霞んで受け取れない。
この人に何か伝えなければと思うのに、涙のせいで喉が詰まってうまく喋れない。こんなだから、いつも私は置いていかれるのだ。
「瑠璃、聞いて」
止まらない涙で顔を上げられなくて、ただただ頷く。
「俺、あのとき君を置いていったこと、ずっと後悔してる」
佐山さんの声は、絞り出すような苦しそうな声だった。
「まだ君のことが好きなんだ」
好き。好きって、なんだっけ。涙は止まっていて、顔を上げると目の前に佐山さんが立っている。
あの時と変わらない、飼い主に叱られた柴犬みたいな顔だった。
「彼氏のことまだ忘れられないなら、いつまでも待つから、考えてくれないかな……別れてくれって言った俺が何言ってんだって話だろうけど本気なんだ……ずっと申し訳ないと思ってて……」
「ふっ」
「え、笑った?」
両手を振って必死に話す佐山さんがおかしくて、笑ってしまった。最初からこれを言いたかったのだろうに、わざわざ元彼の話を出して遠回りして。不器用なところもずっと、変わってない。
「じゃあ、今日飲みに行きましょう」
「え、ホント!?いいの?」
「私が好きだったらしい元彼の愚痴、聞いてください」
ちょっと意地悪をすればまた困った顔をするこの人を、私はたぶんずっと忘れられなかったのだろう。
まだコーヒーの彼のことはすぐに忘れられそうにないけど、いつもより早く、思い出はじんわり優しく消えていくのかもしれない。
残ったレモンスカッシュを飲み干して、紙コップを佐山さんに押し付けた。
炭酸の元彼 蔵 @kura_18
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