28. 想いⅡ
月明かりが淡く注ぐ青白い夜の森を、木の根に何度も足を取られかけながら懸命にかき分けていく。そのときリゼルアルテは、ウォルカの姿を捜す以外になにも考えられない状態に陥っていた。
(ウォルカ……! ウォルカっ……!)
もちろん、ウォルカがただ単に場を離れたかっただけなのは百も承知だ。
シアリィと一緒に遺跡から助け出した、〈
それはウォルカにとって、到底耐えられる光景ではなかったはずだ。
座して待つだけなどできるはずもなく、しかし男の自分が不用意に近づくわけにもいかず、心を落ち着かせるために仕方なく場を離れてしまうのも決して無理からぬ選択だと思う。
だからこんなのは、ただリゼルが心配しすぎているだけ。
ウォルカの方向自体は〈
わかっている。
だがそれでも――だめなのだ。
(もし、もし今なにかあったら……っ!!)
わかっていても、ウォルカを追いかけようとする衝動を一秒として止められない。ウォルカが自分たちの傍を離れて、たった一人でいる。万が一が起こっても誰も助けられない、もう取り返しがつかない――そんな考えをどうやっても振り払えず、全身の震えが止まらなくなってしまう。
浮かんでくるのだ、あの記憶が。血まみれのウォルカをただ抱き寄せることしかできなかった忌まわしい記憶が、呪いのように。
現に、大切な仲間を喪った人間の叫びを、この耳で聞いたからこそ。
首筋をおぞましい冷気がせり上がってくる。つい今さっき走り出したばかりなのに、信じられない早さで息が乱れる。心臓の鼓動が体を引き裂くかのようで、自分はもうウォルカが傍にいないと正気すら保っていられないのだと思い知らされる。
ウォルカの名を大声で叫びたい。しかしリゼルたちはまもなく結界の範囲から外れようとしており、声を上げれば闇のいずこかから魔物をおびき寄せてしまう可能性があった。〈
「っ……」
また木の根に足を取られた。転倒というほどではなかったが地面に手をついてしまい、その瞬間胸の苦しさが破裂しそうになって座り込む。
「リゼルさんっ……」
ユリティアがすぐに足を止め、リゼルの肩に優しく両手で触れた。首筋に感じる冷気が、わずかばかりではあるが鳴りをひそめた。
後ろから、森を走り慣れていないアンゼの手を引いてアトリが追いついてくる。
「大丈夫? おぶる?」
「……いや、大丈夫じゃ」
リゼルは手についた土を払い、立ち上がる。息を整えながら自嘲し、
「ご、ごめん。こんなの、心配しすぎじゃよなっ……」
「……そんなこと、ないですよ」
ユリティアはそっと首を振り、
「わたしたちの、一番大切な人ですもの……」
「……」
「先輩は、今日もまた無茶をしたじゃないですか。たくさん心配して当然だと思いますっ」
ん、とアトリも短く同意し、
「ウォルカが悪い」
「そ、そうじゃよなっ。まったくあのバカ弟子は、いっつもわしらを心配させることばっかりっ……」
特に今日、遺跡でシアリィに襲われたときのウォルカの行動については、リゼルは当面のあいだ許すつもりもないのである。左腕を刺し貫かれたのに、殺されてしまうかもしれなかったのに、なにが「黙ってろ、手を出すんじゃねえ」だ。人の気も知らないで。ウォルカのばかばかばかばか。
むかむか苛立つと、入れ替わるように焦る気持ちが引いていった。リゼルはようやく深呼吸をして、
「……行こう。もうすぐじゃ」
それから、ウォルカはほどなく見つかった。森の木々が少し開けた先、闇が途切れ、淡い月明かりが注ぐ先に彼のぼんやりとした背中が見えた。
完全に結界の外だった。心の底から安堵すると同時に、ぷんすかと怒りの感情がこみ上がってきた。こらウォルカっ、このバカ弟子っ、どうしておぬしはわしらを心配させることばっかり!――そう後ろから叱りつけてやろうとして、
――突如振り抜かれたウォルカの拳が、木の幹を粉々に叩き割った。
響き渡った破砕の音に、リゼルは身も心も凍りついてすべての動きを失った。〈
リゼルのすぐ背後で、ユリティアも、アトリも、アンゼも、全員が呼吸すらできずに立ち尽くした。
「…………ウォル、カ……?」
およそ十メートルの距離で、リゼルのか細すぎる声はウォルカの背に届かなかった。
代わりにウォルカの独白が、辛うじてリゼルたちの耳に届いた。
「――ああ、くそ。本当に……嫌になるな」
表情は見えずとも。どうしようもないほどに、疎むような声だった。
だからリゼルは、静かな胸の痛みとともに理解する。……ああ、やっぱりこの青年は、今日という日を『誰かを救えた』のではなく『救えなかった』と考えてしまうのだ。
たしかに、助けられなかった命はある。〈
けれど一方で、女は全員救い出せたのだ。
もしリゼルたちが今日という日にこの帰路を選んでいなかったら、ルエリィたちは誰にも知られることなく行方不明になっていたかもしれない。それどころか、もっと多くの冒険者が人知れず〈
ならばウォルカの選択はルエリィを救い、シアリィを救い、未来で犠牲になっていたかもしれない冒険者たちをも救ったといっていいはずなのだ。
だが、彼自身は。下手をすると、誰一人として助けられたと思っていない可能性すらあった。
〈
「なんでどこの世界も、人間ってのは――」
ウォルカの拳が、リゼルの距離からでも失意で震えているとわかる。金目的、あるいは自身の快楽のためだけに、他人をいとも容易くいたぶってしまえる人間の醜さ。ずっと昔から何度も何度も同じものを見続けて、不快を通り越して飽き飽きとしているようですらあった。
ユリティアが小さく息を呑んだ。
「やっぱり、先輩……」
どこの世界でも――つまりウォルカはリゼルたちと出会うより前、なにか冒険者とは違う身分に身を置いていて。
そこでも人間の醜さを、嫌というほど目にしてきたのではないか。幼い頃は祖父と剣の修行をしていたと、彼は言うけれど。本当にそれだけか。本当は他にも、リゼルたちにさえ明かせないようななにかがあったのではないか。
そうでもなければ、十七歳という若さでこうも世を疎む理由は説明できない気がするのだ。
「神様なんて、いるわけ――いてたまるか――」
「っ……」
アンゼが、体を抉られるような悲愴でその面持ちを深く歪めた。〈
「そう……なのですね。ウォルカさまは……神を、そこまで……」
「……」
心当たりが、ないわけではなかった。
ウォルカは昔から、『信仰』という習慣に対して奇妙なほどに無関心な少年だった。人と信仰は古くから密接な関係にあり、国によって違いはあれど、誰もが心の中に信じる神を持って暮らしている。それゆえまだ幼い子どもであっても、自分たちをいつも見守ってくれている存在がいることを親から教わり、小さな信仰の芽を育んでいるのが普通なのだ。
ウォルカはそうではなかった。この国の住人なら誰でも知っているような聖言のひとつも知らず、教会で祈りを捧げることすら自分からは滅多にやろうとしない。なにか必要があってそうするときは、周りの人たちを横目で見ながら形ばかりの真似事をする。
リゼルが出会った頃から、ウォルカという青年はずっとそうだった。
以前までは、剣の鍛錬に明け暮れるばかりでそういう一般常識にも疎いのだろう、もーウォルカってば本当に剣のことばっかりなんだからー、と軽く考えていた。
以前までは。
「きっと、それだけ……昔から、お辛い思いを……」
「…………」
スタッフィオを斬ったとき、彼の表情には断ち切るような悼みがあった。
ルエリィを叱咤したとき、彼の表情には
シアリィを救ったとき、彼の表情には切り立つような優しさがあった。
そして今きっと、彼の表情には煮えたぎるような失意があるのだろう。
神様なんていてたまるか――まるで、世界を見限った人間が吐き捨てる言葉ではないか。
「……もしかして、」
アトリがふとしたように言う、
「ウォルカにとっては……剣が、信仰みたいなものだったのかな……」
人には言えぬ過酷な人生を歩む上での、精神的な拠り所。神を信じない彼が唯一信じられたもの。ウォルカは紛れもなく剣を愛し、それ以上に、剣の道を極めることが彼の心を慰めてもいたのだとすれば。
それだけが、支えだったのだとすれば。
「…………」
……自分たちはこの期に及んでも、ウォルカの苦しみをまるで理解できていなかったのかもしれない。
リゼルも、ユリティアも、アトリも、アンゼも、誰もそれ以上口を開けなかった。
「このくらいで凹んでちゃ、笑われるな――」
自分で自分を嘲笑うかのようにウォルカは言う。誰も笑ったりなんてしないのに。リゼルたちがそんなことをするわけがないとわかっているはずなのに。そうやって自分を責めて、また己の弱さを無理やり覆い隠そうとしているとしか思えなかった。
もうこれ以上、思い詰めてほしくないのに――
「師匠も、ユリティアも、アトリも、アンゼも――幸せにならなきゃダメなんだ――」
その『幸せ』にウォルカ自身が含まれていないのは、全員が容易に察した。
――たとえば、〈
あのときリゼルが、ウォルカを目の前で喪ってしまう恐怖に打ちひしがれたように。あの戦い以来、ウォルカが消えてしまうかもしれない悪夢に怯え続けているように。
ウォルカもまた、リゼルたちを守れなかった未来を垣間見てしまったのではないか。そのせいで、目の前で誰かを傷つけられることがより一層許せなくなってしまったのではないか。
そう考えれば、シアリィに殺されかけたときの彼の判断も、決して無茶苦茶ではなかったのかもしれない。
妹のためにすべてを
同じ覚悟を知っている身だからこそ、許せなかったのだろう。年端も行かぬ少女にすらあまりに重い選択を強いる、『世界』という名の不条理そのものが。
だから、シアリィを力ずくで止める気になれなかった。
だから、思考より先に体が動いてしまった。
だから、感情が理屈を上回ってしまった。
「この命はきっと、そのために――」
「――――……」
――本当に、気づいてあげられなかったことばかりだ。
決して人には言えぬ辛い過去を歩んできたこと。
弱音のひとつも吐かず平気そうに振る舞うその陰で、本当はずっと苦しんでいたこと。
信じる神を捨て、世界を見限るほどに深く失望してしまっていること。
それでも命すら賭す覚悟で、リゼルたちの幸せを願ってくれていること。
(ウォルカの、バカっ…………)
こんなにもバカで不器用な人間、今まで見たことも聞いたこともなかった。
悩み苦しむ自分の姿を、どうして誰にも知られまいと必死に覆い隠してしまうのだろう。
本当に辛いのは自分なのに、どうして他人のことばかり考えられるのだろう。
リゼルたちのせいであんな体になってしまったのに、どうして幸せになってほしいと願ってくれるのだろう。
いったいどんな境遇で育てば、どんな人生を歩んでくれば、ここまで非合理的な人間ができあがってしまうのか想像もできなかった。
幸せになってほしい、なんて。
そんな痛々しい背中で、そんな弱々しい言葉を聞かされてしまったら。リゼルはもう、どうしようもないくらいに――
《――みな、》
〈
《これは、わしらの胸に納めておこう。見られたと知ったら、たぶん、ウォルカは……》
ここで今すぐ飛び出していって、ウォルカを力の限り抱きしめてやるのは簡単だ。だがそれをやっては、ただでさえ傷ついたウォルカの精神を余計に追い詰めてしまうことにはならないか。自分の情けない姿を見られたと知ったウォルカは己の弱さを恥じ、ますます本当の心を押し殺そうとしてしまう気がした。
《一応、確認するが――》
問う。
《――今のウォルカの言葉を聞いて、ただ嬉しくなっておるだけのやつはいないじゃろう?》
ウォルカがリゼルたちの幸せを願ってくれるのは、嬉しい。リゼルたちが犯してしまった罪を考えれば疎まれたっておかしくないくらいなのに、それでも仲間として大切に考えてくれるウォルカは本当に優しいと思う。
だからこそ――その優しさが、苦しい。
だってリゼルたちは、ウォルカが幸せを願うに値するようなことを、なにひとつ彼に対してしてあげられていないのだから。
もう、ただ罪を償おうとするだけではまるで足りない。
もっと、ウォルカにたくさんのことをしてあげたい。ウォルカがリゼルたちを救ってくれた以上のものを、彼に対して返してあげたい。
ウォルカのために、もっと、もっと、もっと――。
そんな切ない気持ちが止まらなくて、気が遠くなってしまいそうだった。
《……みな、よいな?》
ユリティアは、そんなの訊かれるまでもないと澄んだ笑みを浮かべた。
アトリは、最初からそのつもりだと言わんばかりに胸を張った。
そしてアンゼも、まるで身も心も惜しまぬような強い思慕をその碧眼に宿していた。
《……訊いておいてなんじゃが、アンゼ、おぬしもわしらと同じ気持ちってことでよいのか?》
「……はい」
アンゼはどこかか弱く微笑み、声をひそめて答える。
「わたくしは、みなさまと比べれば、ウォルカさまにとっては部外者のようなものかもしれません。ですが……」
アンゼがなぜウォルカにこうまで心を寄せるのか、理由はいつだったかこっそりと教えてもらったことがある。
ウォルカと一番早く出会ったのが実はアンゼだったと知ったときは、もうめちゃくちゃ嫉妬した。「でもウォルカはわしらの仲間じゃもんねー!! 残念でしたーっ!!」と必死にマウントを取り返そうとしたら、「はい……わたくしは、本当になんて愚かな過ちを……」とシンプルに傷つけてしまったっけ。あとでごめんと謝ったのと覚えている。
ウォルカはアンゼと出会ったときのことをもう覚えていないし、アンゼ自身も、「忘れられて当然」と悔やみきれない思いを抱いている。
十年近くが経つ今でも後悔し続けているほど、ウォルカという男は、アンゼにとって――
「ウォルカさまをお慕いする気持ちだけは、みなさまと同じつもりですから……」
「……」
正直リゼルは、アンゼのことをいけ好かないヤツだと思っている。ウォルカを狙うヨソモノという意味ではまさしくそうだし、貞淑に着込んだ修道服の下から存在を主張するまったく貞淑ではない贅肉の塊も心底気に食わない。
だがそれでも、一応感謝はしていた。今日に関してだけでも、人の罪を暴く能力による〈
シスターの職務意識だけでできる範疇を超えている。
だからウォルカを慕う気持ちは本物なのだろうし、まあ、ほんのちょっとくらいは認めてやらんこともないのである。
心が決まった。
「――ウォルカっ!」
「……!」
リゼルは前に飛び出し、たったいま追いついたようにわざと大きな声でウォルカの名を呼んだ。
やはりリゼルたちの存在にはまったく気づいていなかったらしく、振り返ったウォルカにはっきりと動揺の色が浮かんだ。見られたくなかったのだろう。そのために結界の外と承知でここまで来て、誰にも知られぬよう声を抑えて吐き出していたのだろう。
だからリゼルはすべてを胸にしまって、普段通りに彼を叱りつける。
「もぉーウォルカっ、こんなところでなにをやっておるのじゃ! 心配かけるでないっ」
――見られて、なかったのか?
表情こそ変わらずとも、彼が内心そう安堵したのが丸わかりだった。
「みんな、悪い。少し風に当たってた……」
「わしの結界の外まで出てきてしまっておるではないかっ。ウォルカのばか!」
アンゼも、ユリティアも、アトリも続いた。
「ウォルカさま、あのお二方は落ち着かれました。もう心配ございませんよ」
「戻りましょう? せっかくのお夕飯が冷めちゃいます」
「ボク、おなかすいた」
いつもとなにも変わらない仲間の姿。果たして本当に見られていなかったのかどうか、ウォルカは少しの間半信半疑だったが、やがて疑ったところで仕方がないと割り切ったようだった。
リゼルは笑い、手を差し出して。
「ほれ、戻るぞ!」
「あ、ああ」
重ねられたウォルカの手を、強く、強く――握り返す。
剣の鍛錬ばかりで擦り切れたこの不器用な掌が、リゼルの救わなければいけないものなのだと深く己に刻み込む。
スタッフィオを斬った彼の一閃を、思い出す。〈
片目片足をなくしてしまった体でも、それでも誰かのために不条理を斬り開こうとするウォルカの姿を見て――ああ、やっぱりこれがこの子の『剣』なんだと。少し、見せつけられてしまったような心地になったのだ。
もう無茶をしないで平穏に生きてほしいという思いが、ないといえば嘘になる。
けれどこの月夜の下、ウォルカの本当の想いを聞いて、自分が彼にとってどう
――ウォルカ。私、がんばるよ。
本当はまだすごく怖いし、向き合うのも時間がかかりそうだけど、がんばって君の気持ちに応えるから。
でも私はね、ウォルカがいないと生きていけないの。ウォルカがいなくなったら、きっと壊れて死んじゃうの。
君も一緒じゃなきゃ、なんにも意味ないんだよ。
だから、ね?
ウォルカ。
ずっと―――――――― ずぅっと、いっしょだからね?
そう――リゼルにとっては、この〈
それだけがあればいい。
それ以外は、なにもいらないのだ。
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