26.〈天巡る風〉Ⅸ

 痛恨だったと言わざるを得ない。

 崩れ落ちるように安堵するウォルカの背中を見て、ロッシュも無意識のうちに気が緩んでしまったのだと思う。聖騎士の称号を賜る立場としてまこと情けないことだが、間に合わせの外套をアンゼへ手渡すために、ほんの何秒かウォルカの傍から完全に離れてしまった。そのせいで。


 おそらくシアリィは、目を覚ましてすぐ飛び込んできた男の姿を見て、〈ならず者ラフィアン〉が戻ってきたのだと直結させてしまったのだろう。だから四人をそうしたように、再びナイフを手に取って、自分に残されたすべての力を懸けてウォルカを殺そうとした。



 ――シアリィが振り下ろしたナイフは、彼が咄嗟に盾とした左腕を完全に貫通した。



 上手く骨と骨の間を抜けただろう。しかしそれゆえナイフは根本まで深々と突き刺さり、ウォルカの左腕を瞬く間に鮮血で濡らした。貫通した刃を伝って血が飛び散り、彼の胸元をみるみる真っ赤な色で染め上げた。


「――――ッ!!?」


 アンゼとリゼルが、悲鳴のように息を呑んだのがわかった。

 ロッシュはすでに動き出している。刹那で剣に〈刃なき剣ハートレス〉の術式を構築。手荒にはなるが、あの状況を止めるためにはシアリィをもう一度眠らせるしか方法がない。

 だが、



「――黙ってろッ!!」



 ――滅多なことでは声を荒らげないはずのウォルカの大喝が、一切を縫い留めた。


「手ェ……! 出すんじゃ、ねえ……ッ!!」


 小さなナイフ一本に込められたシアリィの擦り切れるような殺意を、ウォルカは真っ向から受け止めていた。たとえ腕を貫かれようとも、片足が義足であろうとも、シアリィを突き飛ばす程度は彼ならば容易にできるはずだった。

 だが彼はそうしない。ゆえにロッシュは悟る。


 ――ああ、そうか。この男はもう、自分の腕を貫くナイフなど目に入ってすらいない。

 腕が千切れ飛ぶような痛みなど、一切歯牙にもかけていない。


「返ぜっ!! ルエリィ゛をッ、ル゛ェ、りぃを……!!」


 掠れきってしまった声で、それでも懸命に喉を震わせる――

 衰弱し、余計なことに使える水分など残っていないはずなのに、それでもとめどなくあふれてウォルカの頬を叩く――



「――お願いっ、かえしてぇぇ……っ!!」



 ――その言葉こそが。その涙こそが。

 この男にとって、腕を貫かれるよりも耐え難い血染めの刃なのだ。


「…………馬鹿者め」


 ロッシュは迸ろうとする衝動を理性で抑えつけ、強張った体から少しずつ力を抜き、剣を下ろす。腹の底から嘆息する。


 大馬鹿者だ。

 この男は本当に、救いようがない大馬鹿者だ。


 横を見てみろ。シアリィに負けないくらいの涙をにじませて、それでも君の意思を汲んで必死に耐えようとしている二人の少女を見てみろ。


 なにをしているか、わかっているな。

 あとでどうなるか、わかっているな。


 なら、やってみせろ。



 ――今ここで、その子シアリィの心を救ってみせろよ。大馬鹿者め。




 /


 ――正直、腕をナイフで貫かれ、今まさに殺されかけている状況で感じる気持ちではないとわかってはいるのだが。


 このとき俺がシアリィに対して抱いたのは――親近感、だった。


 ほとんどなにも着ていないのと大差ないボロ布一枚で、薄汚れていて、目立たない場所に傷や痣があって、ロクな食事も睡眠も摂れていないその体は擦り切れていて。それでも彼女は妹を守るという、妹を助けるという、ただそれだけの感情にすべてをなげうって、悪いやつを倒そうと必死になっていて。


 その姿に、なんとなく。

 かつて死に物狂いで仲間を守ろうとした自分の記憶が、重なったのだ。


「ウ゛ううっ……! う、う゛ウ゛うぅぅ……ッ!!」


 シアリィの涙が何度も俺の頬を叩く。貫いた腕ごと俺の喉を抉ろうと、両手のナイフに何度も何度も体重をかける。肉が裂かれ、血が飛び散り、まるで悲鳴のように俺の名を呼んだのは師匠だったのか、アンゼだったのか。


「返してっ……!! かえ、してぇ……っ!! ルエリ゛ぃ……ッ!!」


 ……ああ、そうだよな。理屈じゃないんだ。

 〈ならず者ラフィアン〉の主力が拠点を留守にした、その隙を突いてたった四人殺した程度でなんになる。連中が戻ってきたらどうするつもりだったのか。今度こそ妹ともども無事では済まなかっただろう――そんなのはわかってる。でも、そんな理屈でどうこうできるような感情じゃないんだ。


 わかるよ。

 俺も君と同じで――自分の命なんてもうどうなってもいい覚悟で、戦ったことがあるんだから。

 呼んだ。



「――シアリィ」



 俺は自分でも呆れるくらいの無愛想で、話すのも苦手だけれど。それでも、今できる限りの感情を込めたつもりだ。


「――っ、ぁ、」


 シアリィがかすかに震えた。そのときはじめて彼女の瞳に、俺という人間が正しい姿で映ったのがわかった。

 言う。


「ルエリィは無事だ。俺の仲間と一緒に、外で君を待ってる」

「――、」


 シアリィが揺らぐ。腕にかける体重が軽くなる。ナイフを握り締める両手が緩む。こぼれ落ちた涙が、俺の頬ではなく、彼女の手の甲をそっと叩く。

 その涙の跡を拭うように、俺は右手で彼女の指先に触れる。


「悪いやつはもういない。全員死んだよ。だから、もうこんなのは持たなくていい」


 言えるだろ、俺なら。


 いま一番必要な言葉を、

 いま一番必要な事実を、

 いま一番必要な想いを、


 彼女と同じ覚悟を知っている、俺ならば。


 

「大丈夫。――君は、妹を守ったんだ」

「………………………………ぁ、」



 ほどけた。


 そのはずだ。彼女の心を駆り立てていた冷たい呪縛が、氷解した。憎悪で沈んでいたシアリィの瞳に、弱々しくも彼女本来の命の息吹が戻ったのだとわかった。

 必死にナイフを握り締める力が、怖々と緩んでいく。


「――――ほん、と、に……?」

「ああ。……よく、がんばった」

「――、」


 俺の言葉の意味を、限界などとっくに超えてしまったはずの頭で、何度も何度も飲み込もうとして。

 か弱い指先がナイフから完全に離れてようやく、消えゆくような笑みが浮かんだ。


「…………よ、かっ――――、」


 倒れる。もう、それだけの言葉を紡ぐ力すら残っていなかったのだ。意識を手放したシアリィの体が真後ろへ傾き、地面に思いきり頭をぶつける寸前でロッシュに優しく抱き留められた。


 俺はほっと一息つき、無事な右腕を杖にして起き上がる。左腕を根本まで深々貫通するナイフを見て、今更ながらうげぇと顔をしかめた。腕で庇うのがあと一歩遅かったら、俺もここで転がる死体の仲間入りを果たしていたかもしれない。


「悪い、ロッシュ。ついででその外套」

「――そんな呑気なことを言ってる場合じゃないだろうがッ!!」


 ――知り合って以来はじめてロッシュの怒鳴り声を聞き、俺は思わず目を白黒させた。いや、怒られる理由はまあ想像できるのだが、こいつがこうも愚直に怒りをあらわにするとは思っていなかったというか、


「ウォルカ!! ウォルカぁっ!!」

「ウォルカさまっ!!」


 更に師匠とアンゼまで詰め寄ってくる。師匠は顔面蒼白で半狂乱に陥っていて、アンゼもいつもの微笑みが見る影もなく崩壊している。


「や、やだっ……血、血があっ!! ウォルカが、ウォルカが死んじゃう!!」

「ウォルカさま、腕を出してください!! お願いします、早くっ……!!」

「うお、わ、わかった、わかったから」


 ちょ、ちょっと待った、さすがにみんなして大袈裟すぎやしないか。たしかに見た目はちょっと痛々しいけど、別に右目が潰れたわけでも、左足が千切れかけたわけでもない。こういうときはまず落ち着いてだな、


「まったく、君という男は……!」


 シアリィをその場に寝かせたロッシュが、悪態をつきながら俺の左手首を取る。


「いいかい、抜くよ。歯を食いしばれ」

「お、おう」

「アンゼ、用意はいいね?」

「はいっ……! 絶対に、絶対にわたくしが癒しますからっ……!!」

「やだ、やだぁっ、死なないで、死なないで、死なないで、死なないで、死なないでっ…………!!」


 みんながあまりにも必死なせいで、俺もだんだん不安になってきてしまった。い、いやこれ、腕にナイフが刺さっただけで――もしかして、こう見えてアンゼの神聖魔法でも治癒が困難なヤバい傷なのか? あの、手当てする側が深刻だとこっちまで動揺してしまうから、できればみんな一旦冷静になってほしいというか……。


 しかし俺の内なる願いが届くことはなく、ロッシュがナイフを引き抜くと同時にアンゼが神聖魔法を発動。一分もしないうちに出血が止まり、三分ほどで傷はほとんど跡形もなく消え去るのだった。

 ……や、やっぱり大丈夫じゃないか。怖がらせないでくれ、まったく。


「ウォルカのばかっ、おたんこなす、あんぽんたん、ばかっ、すっとこどっこい、ばかばかばかぁっ」


 ご立腹を通り越して幼児退行してしまった師匠が、ベソをかきながら俺の頭やら背中やらをぽかぽか叩いてくる。べ、弁解の余地を! あの状況はもう腕で庇う以外になかっただろ……!


 俺の手を握ったまま離そうとしないアンゼも、瞳の奥にやや非難の色があった。


「ウォルカさまっ、もっとご自分を大切になさってください! 傷つくことに、慣れないでくださいっ……!」

「む、むう……」


 だからしょうがなかったんだって! 俺だって、他に防ぐ手段があったならそうしてたぞ! 好き好んでナイフを腕でガードするやつがいてたまるか。

 ロッシュも、もはや打つ手なしみたいなクソデカため息ついてるしよぉ……。くそう、どうすればよかったっていうんだ……。



 しかしどうあれ、これでようやく――ようやく、終わりだった。



 こんなものが、ハッピーエンドであるはずがない。奪われてしまった命がある。仲間を喪い、決して癒えることのない傷を負ってしまった少女がいる。仲間と笑顔で旅をしていた頃の、自由に満ちて光り輝くようだった日々はもう二度と帰ってこないのだ。


 けれど、それでも。


「ねえさまっ! ねえさまぁぁ……っ!!」


 耐え忍んで、苦しみ抜いて、やっとその両腕で姉を力いっぱい抱き締めることができた少女もまた、ここにはいる。


 その温かな涙がせめて、死んでいった者たちへの手向けとなることを。

 彼らの死が無駄にはならなかったことを、願うしかないのだ。



 ――それはこの世界において、いつ誰に降りかかっても不思議ではないありふれた悲劇である。



 この事件が国を揺るがすことはないし、冒険者という職の安全性が見直されるきっかけになることもない。ただほんの少しの間ギルドで話題となって、俺たちも気をつけねえとなぁとお決まりの同情心を買い、そうして忘れ去られていく。


 だが、俺は絶対に忘れない。

 原作知識を思い出した俺に、ここがどういう世界なのか改めて突きつけてくれたこの事件を、決して無駄にはしない。


 バッドエンドが大嫌いな俺にとって、ここは本当にクソッタレな世界だけれど。

 なんの因果であれこの世界に生きる一人となってしまった以上、顔をあげて前に進むしかない。



 刻むべき背中なら、何度も見てきた。

 主人公あいつは今もきっと、この世界のどこかで抗い続けているのだから。








 /


 なお、その後の俺について言えば。


「――先輩? どうして……どうして、血まみれなんですか?」

「……約束、破った?」

「……」


 軽鎧けいがいが血で真っ赤に染まっているのを失念していたせいで、瞳がダークマターと化したユリティアとアトリにじりじり詰め寄られてしまい、


「また、無茶したんですねっ……? みなさんの目の前で……」

「ウォルカ――ちょっと、おはなししよ」

「………………お手柔らかに、頼むっ……」


 年下二人からめちゃくちゃ説教される俺に、味方は一人もいなかったとだけ記しておく。

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