14.〈シスター〉アンゼⅢ

 それから十余度の夜を終え、アンゼは予定通り旅の復路で再びこの村に立ち寄った。


 当然アンゼは、休むのも忘れてウォルカの姿を捜した。

 あれから二週間、アンゼは生まれ変わった思いで巡礼に励み、自分なりにできる限りの研鑽を積んできたつもりだ。もちろん彼の血のにじむ覚悟と比べてしまえば、温室育ちの小娘がようやく人並みの努力を覚えた程度に過ぎないだろう。それでも彼ともう一度話をするなら、自分だって変わらなければいけないと思ったのだ。


 きっと彼も厳しい鍛錬を続けて、またあちこち傷ついてしまっているはず。もう一度傷を癒やすことを許してほしい。そして、今度はもっと違う話をしてみよう。ウォルカのこと、アンゼのこと、あるいは将来のこと。もしも彼が望んでくれるなら――いずれは大聖堂で騎士になって――なんて。


「……?」


 だが、ウォルカはどこにもいなかった。村中を捜しても、家の敷地をこっそり覗いても、傷だらけの少年の姿はどこにも見当たらなかった。

 たまらず村の人に尋ねると、壮年の男は途端に表情を沈痛に歪めた。


「お嬢ちゃん、あいつの友達なのかい? ああ、なんて気の毒な……」

「……なにか、あったのですか? ウォルカさまはどこに?」


 ――おかしい。

 嫌な予感がする。

 指先が震える。心臓が凍りついてしまいそうだ。


「あいつは……一週間くらい前に、一人で村の外へ出たらしくてなあ。それっきり……」

「――、」

「村の大人たちで捜したんだが……ここを随分と離れた崖際に、折れた剣と血の跡があったって話だ。魔物に、襲われたんだろうなあ……」


 村の外。魔物に襲われた。折れた剣と血の跡。崖際。もう一週間も帰ってきていない。


「……ぇ? ぇ…………? ……うそ、ですよね…………?」


 いやだ。

 そこから先を理解してはいけないと、アンゼの本能が必死に拒絶している。そうだ、嘘に決まっているじゃないか。だってアンゼがこの村を発つとき、彼は老人と威勢よく言い争いをしていた。己の中にある理想の剣を体現するため、彼はアンゼが見てきた他の誰よりも強い生気に満ちあふれていた。たとえ切り立った断崖絶壁を前にしても、あの人ならば必ず登り詰めてしまうように思えたのだ。


 そんな彼が、たった二週間離れ離れになっただけで、


「可哀想だが……子ども一人で外に出て、七日も消息すら掴めないんじゃあ……もう……」

「――――――ッ!!」


 ――アンゼの目の前から、消えてしまうなど。


 そう、アンゼはこの旅で学んだのだ。街の外には危険な魔物が生息していて、人間も武器を持って立ち向かわなければならないと。そのために騎士がおり、冒険者がおり、この世に剣と魔法が存在しているのだと。


 だから、男が言葉を濁してもわかってしまう。

 十にも届かぬ子どもが剣一本で生き延びられるわけがないと、完膚なきまでにわかってしまったのだ。


「ぅ ぁ……、ぁ、あぁぁっ……………………!!」


 体に一切力が入らなくなり、アンゼはその場で虚ろになって崩れ落ちた。


 ――アンゼは、いったいどうするべきだったのだろうか。


 濁流のような後悔に一瞬で呑み込まれた。やめさせるべきだったのだろうか。理想の剣を掴もうとする彼の覚悟を踏みにじって、教会の大人に助けを求めるべきだったのだろうか。たとえ疎まれることになろうとも、彼の行こうとする道を否定するべきだったのだろうか。


「だから言ったんだ、あんな無茶苦茶な修行なんて絶対に間違ってるって。なのにあのじいさんも、あの子も……っ」


 アンゼも、そう思っていたはずだった。だがアンゼはウォルカの尋常ならざる覚悟に負け、なんの努力もしてこなかった己を恥じ、自分では彼の背を引き止められないと諦めてしまった。

 止めようと本気で思えば、いくらでも方法はあったはずなのに。


 頭の中で、声が響いた。


 ――ならこれは、わたくしが見殺しにしたのと同じ?




 そこから先の記憶は曖昧だ。




 教育係の老執事に抱えられ、声を上げて泣いていたことだけはかすかに覚えている。


 アンゼにとってウォルカは、その生涯ではじめて目の前から消えてしまった人だった。当時の未熟なアンゼの心に、それは計り知れないほど深く残酷な爪痕を残した。悔恨し、絶望し、塞ぎ込んだアンゼはロクに食事を摂ることもできなくなり、巡礼の旅は一度諦めざるを得なくなってしまった。


 まともに立ち直るまでは、何ヶ月もかかった。


 辺境の村で偶然出会っただけの少年が、いつの間にか自分の中でそれほど大きな存在になっていたのだと気づかされた。

 アンゼの無知な価値観を叩き壊し、新たな自分と真摯に向き合うきっかけをくれた人。ほんの束の間だったけれど、文字通りアンゼの人生が変わる出会いとなった人。



 だから……ああ、だから。



「――わしは〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉のリーダー、リゼルアルテじゃ。若者ばかりのパーティじゃが、よそより何倍も腕が立つぞっ。……ほれバカ弟子、自己紹介」


 あれはたしか、アンゼが今の地位に就いて二年か三年くらいが経った頃。


 とある用件で王都まで出向くことになったアンゼは、身分を隠し、騎士の護衛と合わせて冒険者から何組かのパーティを募った。彼らは日々枚挙するさまざまな依頼を通して、そこに暮らす人々と密接に関わり合いながら活動している。ゆえに護衛として雇いつつ世間話に花を咲かせることは、聖都の人々の声をより鮮明に聞ける貴重な機会でもあった。


 その、依頼を引き受けてくれたパーティの中で。




「ウォルカだ。ええと……よろしく頼む」

「………………っ!!」




 その姿を見つけて、

 その名を聞いて、

 いったいどれほど、アンゼの心が救われたか。


 あのときから彼も大きく成長していたけれど、見間違いはしなかった。うなじで結んだ灰色の髪も、ぶっきらぼうな話し方も、愛想が希薄でちょっと近寄りがたい人相も、厳しい鍛錬ですっかり傷だらけになってしまった手のひらも。


 生きていた。

 生きていてくれた。

 生きて、またアンゼと出会ってくれた。


 なにかができたはずだった。だから、なにもしなかった自分が見殺しにしたのも同然なのだと――そう後悔し続けた今までの想いが一気にせりあがってきて、張り裂けるような胸の痛みを耐え忍ぶのが本当に大変だった。

 涙がにじんできたのを感じて、両手で口元を押さえ、俯いてしまった。


「ど、どうした……?」


 彼は、アンゼがあのときの小娘だと気づいていない。考えてみれば当たり前で、当時のアンゼはほとんど素顔を隠していた。今のアンゼは髪だってずっと伸ばして、地位にふさわしい立ち振る舞いも覚えた。あのときのへなちょこな子どもだと気づく方がおかしいだろう。


 本当は、今すぐにでも叫びたかった。――覚えていますか。わたくしを覚えていますか。わたくしです、あのときのわたくしです、無事でよかった、生きていてくれてよかった、なにもできなくてごめんなさい――そうせきを切ってしまいたかった。


 けれど、


「む? あー、さてはおぬしがあんまりにも無愛想だから怖がらせたんじゃろう。ほれ笑え。笑うんじゃーっ」

「っ、おい師匠、コラ」

「わわ、人前ですよリゼルさんっ」

「? なんか楽しそう。ボクも交ぜて」

「アトリさんまで! ごごごごめんなさいごめんなさいあのあのっこれでもみんな強い人たちばかりですので! ちゃんと護衛しますのでっ!」


 パーティの仲間たちに囲まれた彼の姿を見て、アンゼはあふれそうだった想いがゆっくりとほどけて鎮まっていくのを感じた。

 夢から覚めるような、理解だった。



 ああ――きっと、彼は出会えたのだろう。

 なにもできなかったアンゼとは違う。心から助け合い、信じ合って、お互いのためならどんなことでもできてしまうような……そんなかけがえのない『誰か』と。



 それが、どうしようもなく嬉しくて、

 ――――――――――――――――少しだけ、苦しかった。



「……申し訳ありません、なんでもないのです。少し、陽の光がまぶしかったものですから」


 目尻の涙をさっとぬぐい、顔をあげる。


 こみあげてきていた言葉をすべて呑み込む。本当は、アンゼのことを思い出してほしい。ここで涙を流すことを許してほしい。けれどかけがえのない仲間たちと出会えた今の彼に、なにもできなかった自分が今更思いを打ち明ける資格などないように思えた。


 ああ、そうか。

 この胸の片隅の小さな苦しさは、きっと嫉妬なのだ。かけがえのない仲間としてウォルカの隣に立てている彼女たちが、羨ましくて。もしもなにかが違っていれば、その場所にいたのは自分だったのだろうかと考えてしまって。


 これこそが、アンゼに与えられた罰なのだろう。

 ……それでも構わない。たとえ彼が覚えていないとしても、もう思い出してもらえないとしても。

 彼に対して恥ずかしくない一人の女として、今度こそ、自分だって、彼にとって必要な存在となるために。


「はじめまして、みなさま」


 名乗る名は決まっている。ただのシスターとして誰かと接するとき、アンゼは必ずこの名前を使うと心に決めていた。


 かけがえのない人から贈られた、大切な名前なのだから。



「わたくしは、『アンゼ』――どうか、アンゼとお呼びください」

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