13.〈シスター〉アンゼⅡ
これは彼の覚えていないことだが、実のところアンゼは、幼少期にウォルカと一度出会って面識を持っている。
ごく短い間ではあったが話をしたし、名前も名乗った。なんなら、『アンゼ』という愛称だってそのときウォルカから贈られたものなのだ。
愛称まで贈っておいて忘れるとは薄情なやつだ、と思われるかもしれない。
けれど仕方のないことだ。当時のアンゼは素顔を隠していたし、まだ髪も伸ばしていなかった上、性格だってどちらかといえば気弱だった。大きくなった今のアンゼを見て、あのときの子どもだと思い出せる方がおかしいのだろう。
それにこの愛称は、単にアンゼの本名が長ったらしかったから呼びやすいようにと贈られただけで、それ以上の特別な意味などないもの。
そして当時のウォルカは――きっと、血を吐くような思いで懸命に日々を生き抜いていた。
なにもできなかった小娘など、忘れられて当然なのだ。
八年ほど前の話だ。当時アンゼは将来にふさわしい見識と経験を積むべく、聖都の外に広がるありのままの世界を学ぶ巡礼の旅に連れ出されていた。その道中、聖都からどれだけ離れたかもわからない小さな村で、アンゼはある少年と出会ったのだ。
少年は、男から暴行を受けていた。
少なくとも、アンゼの目にはそう見えた。そこは聖都の生活水準とは大きくかけ離れた、あばら家同然に小さく粗末な家だった。庭と呼ぶのも憚られるような荒れ果てた敷地で、少年は老人から一方的に木剣を振るわれていた。
「どうしたウォルカよ!! なにをしておる!! なにもせず殴られるだけか!! ただの一撃すら返せぬのか!! 貴様の意志はその程度かァッ!!」
遠い物陰から耳にするだけでも全身が竦む、烈火のごとき老人の怒声。
「――ぇ? な、なに、あれ」
この巡礼の旅を始めるまで、大聖堂では箱入りとして誰からも手厚く育てられたアンゼだった。大人は自分たち子どもを慈しんでくれる存在だという認識が当然のようにあった。
大人が子どもに『暴力』を振るう――そんな恐ろしい光景を目にしたのは生まれてはじめてで、アンゼは物陰に隠れたままただ震えることしかできなかった。
老人の剣が少年の脇腹にめり込み、激しく打ち飛ばした。
少年の体が嘘のように地面を転がり、アンゼからほど近い樹に背を打ってようやく止まった。
少年の苦悶の声を、聞いた気がした。
「ひっ――」
アンゼは思わず目を逸らす。人の体が蹴られた小石同然に
まさかあの少年は、殺されそうになっているのではないか――そう恐怖してしまうほどの。
老人の落胆した声が聞こえる。
「……話にならんな。貴様、本当に強くなる気があるのか? それでは、貴様の目指す剣になど未来永劫届くまい」
老人がなにを言っているのかアンゼには理解できない。聞いたこともない異国の言葉のように聞こえる。
「十五分、小休止とする。限界まで傷を癒やせ。癒やせずとも次の鍛錬を始めるぞ」
アンゼはおそるおそる顔を上げた。そして信じられない光景を目の当たりにする。
倒れた少年を置き去りにして、老人が一人で家に戻っていく光景を。
「――……」
大人は子どもを愛し、慈しんでくれる存在だと――そんな自分の中に築かれていた世界が、根本から突き崩されていくのを感じた。
老人の姿がドアの向こうに消え、あとにはぐったりと倒れ伏し、指先ひとつ動かす気配のない傷だらけの少年だけが残される。今すぐ彼のもとへ駆け寄りたかったが、あの老人に見つかるかもしれないと思うと怖くて体が動かなかった。
「――カハッ」
意識を取り戻した少年が咳き込まなければ、アンゼはずっとその場で震えたままだっただろう。
駆け寄った。あの老人に見つからないよう声を抑え、少年の肩に触れて懸命に呼びかけた。
「大丈夫ですか……!? しっかりしてくださいっ……!」
少年は、誰がどう見たって無事ではなかった。
左目が腫れ、唇を切っており、額や腕などあちこちから血がにじんで、衣服は破けて痛々しい青痣があらわになっている。今日一日でできるような傷ではない。少なくともアンゼがこの村にやってくるより前から、ああやって何度も暴力を振るわれているのだとわかった。
少年はアンゼの呼びかけが聞こえていないのか、掠れた瞳でうわ言のように、
「ぁ゛ー……クソ、完全に意識飛んでたぞ……。いっででででで……あンのクソジジイ、いつかぜってーぶっ殺してやる……」
もうなにもわからない。子どもに暴力を振るい、挙句の果て置き去りにする大人。そして大人に「殺す」と吐き捨てる子ども。
知らない。こんな世界をアンゼは知らない。
だって、アンゼが知る『大人』は。大聖堂でアンゼが見てきたたくさんの『大人』は。たとえ家族でなくとも子に対して深い慈しみを持っていて、怒るときもそこには確かな愛があったはずで――
「なん、で……どうして…………」
「……あ? だれ、だ……?」
そこでようやく、少年の掠れた瞳にアンゼの姿が映った。
当時のアンゼはまだまだ気弱な子どもで、同年代の男の子と話した経験などまるでなかった。自分から駆け寄っておいて思わず頭が真っ白になる。それでも教会で教わったことから目を背け、傷ついた彼を見て見ぬふりするなどできなかった。
「あ、あのっ……わたくし、巡礼の旅をしている……その、見習いの、シスターです」
懸命に、
「き、傷の手当てをさせてくれませんかっ……まだ未熟ですが、神聖魔法が使えます……!」
怪しく見えたかもしれない。旅の道中であるアンゼは動きやすいローブ姿をしており、またフードを深く被った上で、薄いベールを目元に被せて極力素顔を隠していた。巡礼の旅に赴く名もなきシスターは、そういう恰好をするものだと大人たちから教えられていた。
少年は少し虚をつかれた様子で、考えて。
「えっと……少し、離れよう」
全身の痛みに耐えながら立ち上がり、足を引きずって歩き出す。
「見つかると、面倒だから」
この傷だらけの少年――ウォルカとの出会いが。
愛に満ちた世界しか知らず、それが当然だと思っていた幼いアンゼに、運命すら変わるほど計り知れない影響を与えることになったのだ。
/
「――あ、アンジェ……? ええと、そうだな……『アンゼ』でもいいか?」
「は、はい……」
傷の手当てをしながら名乗ると、いきなり愛称らしき呼び名をつけられてしまった。たしかに、いちいち呼ぶには少々長い名だとは思うが……外の子どもはこれくらいの距離感が普通なのだろうか?
でも、自分が少しだけ違う存在になれた気がして、不思議と嫌な気分ではなかった。
「……すごい。どんどん痛みが引いていく」
「いえ、こんなの、ぜんぜん大したことでは……」
あの家から離れ、手頃な切り株に腰かけて休む少年――ウォルカの傷を、アンゼは覚えて間もない神聖魔法でひとつずつ癒やしていく。ただ、どの傷も完治はさせない。そういう風にしてほしいと頼まれていた。
理由を問うと、
「治癒魔法の鍛錬になるから」
治癒魔法は、その名のとおり己の傷を癒やす回復系魔法のひとつだ。神聖魔法と違い聖職者としての素養を必要とせず、魔法を知る者なら誰でも簡単に扱える一方で、体の自然回復力をわずかに高めるという気休め程度の効力しか持っていない。一生懸命練習したところで、精々三日で治る傷が二日か一日になるくらいだろう。
それでもやらないよりはマシだから、とウォルカは答えた。
「……訊いても、よろしいでしょうか」
「ん」
「ウォルカさまは……いったい、なにをなさっていたのですか?」
「なにって……鍛錬」
「っ、そんなはずがっ……!」
アンゼは思わず腰を浮かせた。そう、あんなものが、ただ一方的に殴られるだけのあれが鍛錬であるはずがない。アンゼは世間知らずの箱入り娘だけれど、それでも武術の鍛錬がどのようなものであるかは知っている。〈
その上で言うのだ。あんなものは、鍛錬でもなんでもないと。
ウォルカはアンゼの表情から言葉を汲み、
「ああ……あのジジイ、すごく厳しくてな。やっぱおかしいよな、あれ」
「わかっていらっしゃるなら、どうして……!」
「強くなりたいから」
アンゼは思わず息を呑んだ。
アンゼの言葉を断ち切るような、躊躇いのない即答だった。淡い翡翠の瞳の奥に、
「……頭の中に、剣があるんだ」
「え……?」
「あー、……こう在りたいっていう強烈なイメージ、というか。でも普通の剣じゃない。普通のやり方じゃ届かない。……だから、あれくらいの修行でちょうどいいんだ」
アンゼは返す言葉を失った。ウォルカが本気で言っているのだとわかった。アンゼとほとんど変わらぬ歳ですでに、彼は己が生涯かけて殉ずる道を見定めているかのようだった。
いや、おそらくそれは道ですらないのだろう。
切り立った断崖絶壁を、その身ひとつで血をにじませながら登り詰めていくような。足を滑らせたら、なにかを間違ったら――命すら落としてしまいかねないような。
「ご両親は、」
「死んだ。……四年くらい前、らしい」
「っ……!」
わからないことだらけで、もうアンゼは泣いてしまいそうだった。目の前のウォルカが、自分とほとんど歳の変わらない子どもが、いったいなにを考えているのかアンゼにはまるでわからなかった。
らしい、と伝聞でしか言えぬほど早く両親を亡くし、おそらくはまだ十にも満たぬ歳でありながら、体中が傷だらけになるほど常軌を逸した鍛錬に身を投じている。正気とは思えなかった。あの瞳の奥の焔を見ていなければ、両親の死で自暴自棄になっていると言われた方がまだ筋が通るくらいだっただろう。
彼は本当に、自分と同じ子どもなのか。信じられない心地でそう思う。
なのにウォルカは、困った様子で頬をかきながら平然と言う。
「えっと……あんまり、深刻に考えないでくれ。本気で鍛えてくれって、俺の方から頼んだんだ」
「そんなっ……!」
「いいんだ。自分が強くなってるって、実感できるし……それに、案外楽しい部分もあるから」
あまり感情を出すのが得意ではないのだろう、それは見間違いかと思うほど拙い表情だったけれど。
彼は今、アンゼに向けて笑みを作ったのだと思う。アンゼを、気遣おうとしたのだと思う。
誰からも暖かく育てられたアンゼなどとは、比べ物にならないほど辛い思いをしているはずなのに。
「ですけどっ……! こんなの……!」
遣る瀬のないあまり神聖魔法を上手く制御できず、痣をひとつきれいに消してしまった。
「ごめん、なんか……」
そんな言葉を言わせたくて、彼に声をかけたのではないのに。
「わたくしに、お力になれることはありませんか……?」
「……」
ウォルカは、特に表情を動かさなかった。
無視されたのかと心細くなるほどの間を置いて、ようやく答えが返ってきた。
「うん……特には、大丈夫かな」
アンゼの胸が、小さく刺されたような痛みとともに軋んだ。
自分とウォルカの間に、あまりにも冷たい壁が横たわっているのだとわかった。彼は遠慮をしたわけでも、強がっているわけでもない。本当に、これ以上アンゼの存在を必要としていなかった。それどころかこの治療だって、アンゼがひどく必死だったから追い払うのも気が引けて、とりあえず好きにさせているだけに過ぎないのかもしれない。
「傷を治してもらえただけで充分だ。ありがとう」
ウォルカが、立ち上がる。
「あっ、まだ手当てが……!」
「もうそろそろ十分経つ。戻らなきゃ」
慌てるアンゼをやんわり手で制し、彼はどこまでも静かな表情で、
「巡礼の旅、だっけ。がんばって、アンゼ」
「っ……、……はい」
結局アンゼにできたのは、家へ引き返す彼の背を見送ることだけ。
今まで当たり前だと思っていた世界は、すでに跡形もなく崩れ去ってしまっていた。この世のすべての子どもがアンゼのように愛されながら育つわけではないと、頭ではわかっていたつもりだった。けれど命すら燃やそうとするような彼の覚悟を目の当たりにして、自分がどれほど恵まれた人生を歩んできたのか情けないほどに思い知ってしまった。
これが、外の世界を知るということ。
それは生まれてはじめて、アンゼが己の『無力』を突きつけられた瞬間でもあった。
翌朝。村を発つ前にせめて挨拶だけでもしようと思って、アンゼは再びウォルカの家に向かった。
アンゼが連れられている巡礼の旅は、その旅程が月の満ち欠けに従って厳密に定められている。アンゼのわがままでスケジュールが崩れれば、遅れを取り戻すためみんなに無理をさせることになる。
アンゼに許された時間は、出立前のほんの二十分。
不恰好な駆け足で土を蹴飛ばし、アンゼは昨日と同じ場所からウォルカの家を覗き込んだ。
「あ――」
ウォルカがいた。アンゼの位置から少し遠い庭の一角。左手で直接握った鞘を腰に引き、柄に右手を添えた半身となって浅く重心を落としている。
朝日が顔を出して間もない早朝である以上に、ここ一帯だけ空気がやけに静まり返っている。ひりつく感覚すら覚えるほどに。だからだろうか、剣を鞘から抜く素振りもなくただ突っ立っているだけにも見えるそれが、アンゼには彼の『構え』なのだと直感できた。
対面にあの老人が立っている。昨日の木剣と違い、今日はなぜか両手に一本ずつ手頃な薪を掴んでいる。
その薪を二本同時に、軽い下手投げでウォルカに向けて
緩い弧を描いて飛ぶ薪、その意図が読めずアンゼが疑問に思った直後。
――銀閃。
たぶん――ウォルカは今、剣を抜いたのだと思う。確信が持てなかったのは、抜き放った太刀筋があまりにも速く、刹那の光となって見えたからだ。
それほどまでの一閃――いや、違う。
右へ振り抜かれたはずの剣がすでに左へ戻されている。あの瞬く間で、左から右へ薙ぎ払う一閃、そして右から左へ返すもう一閃があったということだ。しかしアンゼには、もはや一筋の光としか視認できなかった。
薪が、地に落ちる。
剣をゆったりと鞘に納める流麗な所作は、まるで神聖な祈りを捧げているかのようで。
アンゼは深く深く理解する。ああ、あれが……あの人の目指しているものなんだ。
剣のことがまるでわからぬアンゼでも、思わず見惚れてしまった。きれいだと思った。アンゼが覚えている限り、〈
彼の言っていた「普通の剣じゃない」という言葉が、一雫となって腑に落ちる。
だからウォルカは、傷だらけになっても、血を吐くような思いをしても、ただ前だけを見据えて厳しい修練に身を投じるのだ。おそらくはこの世でまだ誰も見たことがない、新たな剣の地平を切り開くために。
老人が大喝した。
「こンのバカ者がァ!! なにを一丁前に恰好つけておるか!! 掠ってすらおらんではないか!!」
……たしかに地面を転がった薪は二本とも、老人が放り投げたときのきれいな形のままだった。
ウォルカが吠え返す、
「うるせえ! だいぶ様になってきただろうが!」
「抜かせぃ! 様にしかならぬ剣などなんの意味があるか!! 未だに薪割りすらできんとは――なっとらん。今日のノルマはすべて三割増しとする」
「クッソジジイがぁ……!!」
「…………」
昨夜、アンゼの教育係である老執事にそれとなく意見を聞いてみたとき、「あまり心を砕いてはなりません」とたしなめられたのを思い出す。
――あの少年はすでに行くべき道を見定め、信念を持って歩んでいる様子。引き止めれば、それは信念を捨てろと告げるも同じ。彼の夢が叶うよう、お祈り申し上げるのがよろしいでしょう。
……そのとおりなのかもしれない。今の剣閃を目の当たりにして、ウォルカが殉じようとしている道を理解して、アンゼは完膚なきまでに叩きのめされたような思いだった。
今まで歩んできた道も、見据えている先も、アンゼとウォルカではなにもかもが違う。違いすぎている。彼のように本気の思いを注げるようなものがアンゼにはない。誰からも愛され、慈しまれ、それを当たり前だと思ってぬくぬくと育ってきた自分が恥ずかしかった。
その場から一歩後ろへ身を引き、アンゼは精一杯の微笑みで頭を下げる。
「がんばってください――ウォルカさま」
およそ二週間後、アンゼは旅の復路で再びこの村に立ち寄る。だからアンゼも、そのあいだ彼を見習って研鑽を積んでみようと思った。己の恵まれた環境を一度忘れ去り、真白な心で自分自身に向き合ってみようと。
そして次に会うときは、ほんの少しでもいい、彼に対して恥ずかしくない人間となれるように。
そう……次があると、思っていたのだ。
次も彼が変わらずこの村で鍛錬に励んでいることを、このときのアンゼはかけらも疑っていなかったのだ。
聖都の外を何日も旅し、何度もこの目で見て学んだはずだったのに。
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