12.〈シスター〉アンゼⅠ

「――今すぐ聖都に戻って、これからは大聖堂でわたくしと一緒に暮らしましょう!」

「「「――――は?」」」


 空気にヒビが入ったのがわかった。


 師匠とユリティアとアトリの、ドスが利いた声というか。俺へ向けられたものではないはずなのに、なにか根源的な寒気を感じて背筋が縮みあがる。


 だというのに、アンゼはその慈しみに満ちた微笑みをかけらも動かさない。地響きすら聞こえてきそうなこの凄まじい重圧が、まるでただのそよ風でしかないかのように、


「大聖堂はこの世界でもっとも安全な場所です。そこでゆっくりと傷を癒しましょう」

「あー……アンゼ、それは」

「ご安心ください、何人なんぴとたりともウォルカさまを傷つけさせはしません。〈聖導教会クリスクレス〉のすべてをもって、ウォルカさまをご支援いたします。どうか、わたくしにすべてをお任せください……」


 うーんクソデカ感情。



 天よりデカく海よりデカい心を持つシスター、『アンゼ』について。



 俺の頼りない原作知識に誤りがなければ、彼女は原作キャラではない。さすがにこんな印象的な子が登場していたなら、モブであっても記憶の片隅に残っていると思う。まったくピンと来ないということは、原作では一切登場していなかったと考えるのが妥当だろう。


 そも俺が読んでいた限り、原作で『聖都』という都市は完全にほのめかす程度の扱いだった。


 理由は二つ。

 まず原作主人公が、聖都および王都の二大都市をわざと避けて活動していたこと。主人公が近寄らないから、物語でも描かれない。まことに道理である。


 魔物絶対根絶やし狂戦士の主人公にとって、王都や聖都は、強大な兵力を有しておきながら自分たちを救ってくれなかった憎悪の対象だった。俺が覚えている範囲だと、単行本の巻数も結構進んだあたりで、ようやく王都のキャラクターと渋々関わり始めてたかな。そこから少しずつ聖都にも焦点が当たっていくはずだったのだと思うが、後年は更新が遅れがちだったし、なにより俺自身がご臨終したせいでわからず仕舞いとなってしまった。


 そして、二つ目は俺の想像だが――作者が聖都を物語後半の舞台として設定しており、意図的に情報が伏せられていたこと。


 たしか聖都には四人の聖女がいて、――だったか。どう考えても後半に満を持して登場するタイプの勢力であり、それならばほのめかす程度の扱いだったのにも筋が通る。


 なお、肝心のほのめかし内容についてはもうさっぱり覚えていない模様……。

 そんなわけで聖都関連では、俺のなけなしの原作知識もほとんど役に立たない状態だった。



 話をアンゼに戻そう。



 〈聖導教会〉の中枢機関である大聖堂所属のシスターで、一般的なシスターと同じ、貞淑な黒の修道服で慎み深く身を包んでいる。背中を覆う長い白金色プラチナブロンドの髪、そして翡翠色コバルトグリーンの瞳は光を呑んで輝くかのようで、肌に至ってはもはや俺と同じ人間とは思えないほど清らかだ。軽々しく素手で触れたら神罰が下るのではないか――そんな神々しさすら感じられる。


 その端然とした容姿に寸分違わず、性格も聖なる泉のごとく清純に澄み渡っている。常に慈悲ある微笑みを絶やすことなく、いついかなるときも清らかな心で他者と向き合い、純真たる善意をもって行動する。怒りや嫉妬といったマイナス感情を一切感じさせないその振る舞いは、まさしく神の奉仕者と呼ぶにふさわしいものだろう。


 そして穢れのない心の弊害というべきか、アンゼは言うことやることのスケールがとにかく派手だ。心が広い、懐が深い、度量が大きい、天空海闊、気宇壮大――様々な言葉を当てはめられそうではあるが、俺としては『善意がクソデカい』という表現を推したいと思う。


 いやもうほんとに、世界のすべてが神の祝福で光り輝いているかのような勢いなのである。


 たとえば先ほど、「大聖堂で一緒に暮らそう」と誤解されそうなことを――実際誤解されている――堂々と言っていたけれど、あれは俺たちの水準に翻訳すれば「大聖堂で療養してください」くらいのニュアンスだろう。


 正直、俺はそんなアンゼがちょっとばかし苦手だった。


 前世は八百万やおよろず信仰で育った生粋の日本人だったから、こう、「神を信じよすれば救われん」な感じはつい身構えちゃうんだよな。どうしてもアヤしい宗教のイメージになってしまうというか。アンゼが悪いわけではないから、できるだけ慣れようとはしているのだが……。


 とはいえ、ちょっと善意がクソデカい以外は普通の女の子だ。歳はたしか、アトリと同じだっただろうか。背丈はアトリより低く、荒事とは無縁なためか、体の線が柔らかく包容力にあふれている。


 なにより、大きな心に負けず劣らず胸が――いや、これ以上はやめておこう。そういう目で見るのは普通に失礼だからな。


 ただ、それでの師匠が以前、「なに食ったらあんなになっちまうんじゃあ……」と格差社会に打ちのめされていたことがあって。


 そのせいか、師匠は今でもアンゼを妙にライバル視しているところが――



「――おい、小娘」



 リハビリ部屋の空間に入ったヒビが、ビシビシと修復不能なまでに広がっていく感覚。

 師匠がアトリの膝からひょいと飛び降り、俺を挟んでアンゼの真横に立つ。


「貴様、よもやウォルカを連れていくつもりか? ウォルカはわしの――んんっ、わしらの大切な仲間じゃ。あまりふざけたことをぬかすなよ?」


 ただでさえ喧嘩っ早い師匠が、やはりアンゼ相手だといつもより三割増しくらいで物騒だ。無意識に体から魔力が漏れ出て、銀色の髪を不気味な生き物のようにざわざわと揺らしている。


 もしかするとアンゼの発言を、俺をパーティから引っこ抜くような意味合いで捉えてしまったのかもしれない。安心してくれ師匠、〈聖導騎士隊クリスナイツ〉にはぜんぜん興味ないから。とりあえず魔力を収めてくれ、俺の胃もざわざわしてるから。


 ユリティアたちが宥めてくれることを期待したが――ユリティアはダークマターみたいに真っ暗な瞳で、「先輩が連れてかれちゃう……わたしが守らなきゃ…………」とぶつぶつ言っている。うーん、ちょっと見なかったことにしようかな。普通に怖くて直視できない。


 一方、アトリはいつも通り落ち着いて……いやダメだわ、いつでも〈装具化アクセサライズ〉――装備を小さなアクセサリーに変えて携帯する魔法――を解除してハルバード出せるようにスタンバイしてるわ。君たち揃いも揃ってなにしようとしてんの? 老シスターさんが目玉むき出しにしてわなわな震えてるでしょうが。


 仕方ない、ここは俺が止めるしかないか。


「師」

「ウォルカはだまってて」

「は、はい……」


 師匠こっわ……。なにも言わせてもらえなかったんだが。この剣幕を真正面から向けられて余裕ひとつ崩さないアンゼ、メンタル異次元すぎるだろ。

 あら……とアンゼは少し思案する仕草で、


「いけませんか? ウォルカさまのお体を考えれば、大聖堂にお任せいただくのが一番かと思うのですが……」

「それは……」


 師匠は苦虫を噛み潰し、


「……それは否定できん。ああ、悔しいが否定できんさ。貴様からすれば……ウォルカを守れなかったわしらなぞ、断じて許せんのじゃろうな」

「いいえ、リゼルアルテさま。それは違います」


 アンゼが即座に首を振った。哀憐とともに今度は師匠の小さな手を取り、後ろのユリティアとアトリまで目を配って、


「みなさまがウォルカさまを大切に想っていらっしゃること、よく存じております。みなさまのご心痛がいかばかりか……察するに余りあることでしょう」

「お、おう……?」

「なにも知らず、その場にいることすらできなかったわたくしに、いったいどうしてみなさまを責めることができるというのでしょうか……」


 これだ。俺がアンゼをちょっぴり苦手とする理由――彼女には、決して悪意がない。なさすぎるのだ。


 たとえ人と意見が対立したとしても、それは彼女なりに相手を思った百パーセント善意の考えであり、どこまでも純真で裏表がない。まあ要するに、話しているうちにどうしても調子を崩されてしまうのである。

 師匠もすっかり出鼻をくじかれてしまい、


「そ、そうか……い、いや! じゃがなぁ!」


 久し振りに最年長のオーラ全開な師匠だったのだが、アンゼの善意に絆されてしまって、それ以上は威厳を維持できなかったようだ。

 頬をぷんすか膨らませて、げしげしと地団駄を踏み始めた。


「だったら今の……! いーまーのーっ! 一緒に暮らすってなに!? どーいう意味なの! ふしだら! ふしだらですっ! そんなの絶対許さないもんっ!!」


 もんじゃないよ師匠、せっかく挽回しかけた年長者のカリスマが大暴落だよ。

 いやまあ、ギスギスした空気が続くよりはいいんだけどさ。破裂寸前だった風船が、あっけなくしぼんでいくようなこの感覚よ。


「ウォルカは私のっ、……えっと、そのぉ……弟子だから! 大切な弟子だからっ! おっぱいでっかいおまえなんかに渡さないからね!?」

「師匠、落ち着け」


 格差社会の恨みが混じってるから。男の俺がいるところでそんな直接的に言うんじゃありません。アンゼに失礼でしょうが。

 しかしこれすらも、アンゼは柔らかな微笑みで悠然と受け止めてしまう。


「ふふ。やはりリゼルアルテさまは、ウォルカさまをとても大切に想っていらっしゃるのですね」

「当然でしょ!」

「それでは、少し言い方を変えましょう。みなさまも――」

「お、お待ちくださいっ」


 と、ここで再起動した老シスターが割って入った。達観した晩年の佇まいはどこへやら、血の気が失せた、信じられないものを見る顔で師匠に詰め寄り、


「あ、あなた、この御方をどなたとっ……」


 アンゼがくすくすと笑う。


「構いませんよ。どうかお気になさらず」

「しかし――」


 老シスターが喉元まで出かかっていた言葉を呑み込み、沈黙した。……え、アンゼって目上のシスターも一発で黙らせられるくらい偉いの? さすが大聖堂所属のエリートシスター……。


「話を戻しましょう。ええ、ウォルカさまがみなさまの大切な仲間であること、充分に理解しているつもりです。ですから――」


 アンゼは胸の前で両手を合わせ、天から光が降り注ぐようにこうのたまうのだった。



「みなさまも大聖堂で一緒に暮らしませんか? そうすれば、わたくしたち全員でウォルカさまを看護して差し上げることができます!」



 こやつは敵……! 俺の社会復帰を百パーセント善意で妨害する教会の刺客ッ……!


「先ほども申し上げたとおり、大聖堂はこの世でもっとも安全な場所です。外敵の心配はございませんし、万が一の際もすぐにわたくしが癒やして差し上げられます。日々のお食事、身の回り品、より優れた義足の手配、その他あらゆるご支援を大聖堂がお約束いたします!」

「「「……なるほど……」」」


 なるほどじゃないが。


「それに、常に騎士隊の警邏けいらの目がありますから……ふふっ、ふとしたときウォルカさまを見失ってしまう心配もありません」


 おかしいな、俺を大聖堂に軟禁するって言ってるように聞こえるぞ。


「ウォルカさまはゆっくり傷を癒やすことができ、みなさまもウォルカさまの看護に集中できる……いかがでしょう。わたくし、この上ない妙案と思うのですが……」

「「「……」」」


 おい悩むな。「その手があったか……」みたいな目でこっち見るな。俺の胃とプライドが持たんわそんな生活。


「アンゼ」

「はい、なんでしょうっ」


 アンゼが目を輝かせながら振り向く。その純粋無垢なまばゆさに俺は少し怯みつつも、


「話はありがたいが、君がそこまでするほどのことじゃ」

「ウォルカさま、どうかお気になさらないでください。むしろ、これくらいのことしかできないわたくしの無力が心苦しいのです。ウォルカさまがお辛い思いをなさっているときも、わたくしは聖都でなにも知らず――ああ、叶うのならば、わたくしのすべてでウォルカさまを癒やして差し上げたいっ……」


 クソデカ善意おっもぉ……。


 だがここで押し切られるわけにはいかない。俺は社会復帰したいのだ。俺を思ってくれている師匠たちの気持ちにあぐらをかいて、自分で立ち上がる努力すらせずのうのうとした生活を送るのは――それは違うだろう、仲間として。


「こんな体にはなったが……それだけで音を上げるほど、俺はヤワじゃない」

「ですが……」

「義足もじき慣れて、歩けるようになる。大聖堂の手を借りるまでもないだろう」


 前提として、聖都には戻る。これは確定だ。借りたままになってる部屋とかあるし、無事を報告しないといけない知り合いだっているしな。

 そしてこの義足で聖都まで戻れるのなら、それはすでに社会復帰の第一歩を踏み出せたということであり、大聖堂で厄介にならずとも日常生活を送るくらいは可能だと俺は思っている。


 幸いアンゼの善意は生まれ持った彼女自身の性質で、師匠たちのように後ろめたい感情をこじらせているわけではない。だから、普通に断れば普通に納得してくれると思ったのだが――。



「そう――ですか。やはりわたくしでは、ウォルカさまのお力に…………なれませんか」



 ……ん? あれ? なんか、思ったよりガチめにショック受けてる感じが。師匠たちに睨まれてもどこ吹く風だったアンゼの微笑みが、突然一気に曇ったような……。


「申し訳ありません、ご迷惑……でしたよね。……わたくしは、本当に無力なのですね……」

「うぐ……」


 待った、今までなに言われても微動だにしなかったのがここでガチ凹みだと……!? その笑顔はさすがに、心の中で真剣に傷ついてるやつだって俺でもわかるぞ……!


 師匠たちが「そこまで言わなくても……」みたいな目で俺を見ている。いや君たちさっきまでアンゼに殴りかかろうとしてたでしょうが。一瞬で寝返るな。

 どう思いますか老シスターさ――あ、秒で目を逸らされた。完全に匙投げられてますねこれは。


 そ、そうか。考えてみればアンゼは、俺を心配する一心で聖都からこの街まで駆けつけてくれたわけで……それってすごくありがたいことだよな。そんな彼女の申し出を一蹴するのは、さすがにどうかって話か……。


「す、すまないアンゼ。迷惑じゃないんだ」


 だがそれでも、ここで情に流されきってしまうわけにはいかんのだ。理由はすでに述べた。

 俺は、そんなことをしてもらうために命を懸けたわけじゃないのだから。


「君のことは信頼してる。だからこそ、甘えてはいけないと思うんだ。……聖都に戻ったら、いろいろ困ることもあると思う。そのときは相談するから、もう少し、がんばらせてくれないか」

「……」


 アンゼが薄く唇を引き結ぶ。慚愧ざんきのような、後悔のような、……自分自身に対する、失望のような。


「……わたくしでお力になれるのであれば、どのようなことでも仰ってくださいね。わたくしの心は、いついかなるときでもウォルカさまとともにありますから」

「あ、ああ……」


 ……俺は、アンゼという少女をよくわかっていないのだろう。


 師匠たちのように仲間として積み上げてきた時間が彼女にはない。最初に出会ったのは、〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉が聖都を拠点としてから間もなく受けた護衛の依頼。ただあれは他にも何組かパーティがいたし、特別、世間話以上に親しく話をした記憶もない。


 それなのに目に映るものすべてを祝福せんとばかりの献身は、紛れもなく彼女の本心から来るものなのか、それともただシスターの職務に従っているだけなのか。



 ――そう。俺が『アンゼ』という少女をには、もう少しばかり時間がかかることだったのだ。

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