11. 聖女Ⅱ

 そのシスターは、いつも通り教会の前で日課の掃き掃除をしていた。

 ここで働き始めてまだ日が浅い、年若い新人シスターである。黒い修道服を貞淑に着込んだ少女は、ほうきの手を止めて太陽の下で思いっきり伸びをする。


「ん~~、……はあ、やっぱり平和が一番だよねえ」


 青空へ向けて飛ばしたため息には、新人とは思えぬ妙な実感と感慨が込められている。無理もないことだった。遡ること二週間ほど前、少女は大先輩の老シスターに襟首掴まれて、大怪我で運ばれてきたとある青年の治療に立ち会わされていたのだから。


 正直、あのときのことはあまり思い出したくない。


 思い出すと、今でも血の匂いまで色濃く甦ってきそうになる。奇跡的に生き延びてみせた青年に対して、本当に申し訳ないことだが――少女はあのとき、ひと目で「こんなの無理だ」という諦めが頭をよぎってしまったのだ。あの場にいたほとんどのシスターが、血の気をなくして蒼白になっていた。ただ一人老シスターだけが、


「この子はまだ生きてる。なにもしないで諦めたら、私たちが殺したのと同じよ」


 ……聖導教会で働くということの意味を、苦しいほどに思い知らされた一日だった。


 あれ以来、これといって大きな怪我人や病人は運ばれてきていない。それがどうしようもなく尊いことだと思える。

 ここは街を一歩外に出れば、恐ろしい魔物とどこで遭遇したっておかしくないような世界だけれど。

 こんな風に何事もなく穏やかな日々が、どうか一日でも長く続いてくれますように。


「……ん?」


 気がついたのは、少女が掃除を再開して少し経った頃だった。街の中心と教会をつなぐ坂道を、まっすぐこちらに登ってくる二人の人影が見えた。


 少女が着ているのと同じ黒い修道服と、さして珍しくもない使い込まれた銀色の軽鎧。


「あれ、誰だろ……」


 ようやく右と左がわかるようになってきた程度の新人とはいえ、少女も立派な聖導教会の所属である。あれが教会のシスターと、その配下である〈聖導騎士隊クリスナイツ〉の騎士なのはひと目でわかった。

 しかしあんな、遠目でもわかるほど美しい白金髪プラチナブロンドのシスターがこの街にいただろうか。同僚ならば記憶に残っているはずだし、同じ街の教会で働いているのに、今まで一度も顔すら合わせていないというのは考えづらい。


 しばらく目を凝らして、誰だろう誰だろうと首をひねっていたのだが。


「――え、」


 その顔立ちがわかる距離になって少女は言葉を失い、


「こんにちは」

「――……」


 目の前で挨拶をされる頃には、完全に氷結して身動きできなくなってしまっていた。


 いや、あの。

 待って待って待ってちょっと待って。

 なんで、なんでがこんなところに。


 教会で働き始めて日が浅い新人であっても、新人だからこそ、少女は眼前のシスターがいったい何者なのか完膚なきまでに理解してしまった。

 正気に返る。脊髄反射で膝を折る、


「ああ、どうかそのままでいてください。わたくしはそのような大それた者ではございませんから」

「は、……でも、いえ、しかし」


 柔らかに制された少女はひどく狼狽する。あの、貴女様が『大それた者』じゃなかったら、この世の人々はみんな虫けら同然になってしまうのですが。


「はじめまして。わたくし、アンゼと申します」

「へ? あ、アンゼ……様?」


 それが偽名なのは一発でわかった。いや、偽名というよりは愛称……だろうか。彼女がわざわざそんな名乗りをする理由を少女は猛スピードで考えようとする。

 考えようとするのだが――なにもかも突然すぎてぜんぜん頭が追いつかない。アンゼと名乗ったシスターはくすくすと美しい声音で笑い、


「『様』だなんて、どうかアンゼとお呼びください。わたくしは一介のシスターに過ぎませんから」

「いやいやいやいやいや」


 できるわけないじゃないですかなに言ってるんですかどういうことなんですかこれぇ!?


 と、少女の頭はもはや天地がひっくり返ったような大混乱である。今すぐこの場から走り去ってしまいたい衝動を懸命に抑え、シスターの背後に立つ騎士へ必死の視線で救いを求める。――いったい全体これはなんの御冗談ですかお許しくださいわたしなんかとお戯れになってもなにもありませんからどうかお慈悲をぉぉ。

 祈りは天に通じた。


「アンゼ、世間話はそのくらいに。彼女を混乱させてしまっているようだ」

「あら……申し訳ございません。今回わたくしたちは、いわゆるお忍びで参ったのです」

「へぇあ――いや、でも、お二人は普通に街を……」

「ええ、街を歩く際は目立ってはいけないので、少し術を使うようにしています。街の方々には、わたくしたちが至って凡庸なシスターと騎士に見えていたことでしょう」

「な、なるほど……」


 考えてみればそりゃあそうだ。そうでなければ、今頃この教会は熱狂する人々で包囲されて混沌の坩堝るつぼに陥っていただろう。


「そ、それで、本日はいかようなご用件で――」

「はい。ウォルカさまにお会いするため参りました」


 ――ウォルカ?

 教会の関係者から脳内検索をかけたので少し時間がかかったが、なんとか五秒以内で思い出した。

 あの青年の名だ。死にかけで運ばれてきて、奇跡的に助かって、驚異的な回復力で今日から義足のリハビリを始めたあの。


「そ、その方でしたら、たしか今はのリハビ」



 少女が答えられたのは、そこまでだった。

 突然ひゅっと息が詰まり、それ以上なにも言えなくなってしまったからだ。



 呼吸ができなくなった。恐怖、ではない。体の震えも一切起こっていない。そのとき少女が思い出したのは、幼い頃両親に連れて行ってもらった聖都の大聖堂で感じた、身が縮みあがるほど荘重としたあの神聖な空気だった。


 清浄な場所に足を踏み入れたとき、神々しい神像の前で祈りを捧げるとき、自分自身が白く澄み渡っていくようなあの感覚。人が神威しんいを感じたときに抱く、畏敬、畏怖と呼ばれる類の感情。


 少女は静かに理解する――ああ、人は本当に神聖な存在に触れると、呼吸すらできなくなるのだと。


「――あっ、これは失礼いたしました」


 霧散した。真白に染まろうとしていた世界が一瞬で消失し、元の青空、元の街並み、そして元の感覚がすべて少女の中に戻ってきた。

 まるでかしこみ深く祈りを終えたあとに、ふっと目を開けたかのような。


「驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」

「い、いえ――」


 あまりに束の間の出来事だったせいで、少女は先ほどの感覚がなんだったのかよくわかっていない。


「それでは、少しお邪魔させていただきますね。……貴女のいと尊き献身に、主の祝福があらんことを」


 結局少女が正気を取り戻すより先に、シスターは騎士を引き連れて教会に入っていってしまった。


「――…………」


 少女はぼーっと青空を見上げる。自分がいま見て、聞いたものはいったいなんだったのだろうか。ひょっとして、この朗らかな青空と陽気が見せた白昼夢だったのではないか。そうだったとしてもなんらおかしくないだけの体験を自分はしてしまったのだと思う。


 まさかあの御方が目の前に現れて、話をして、ほんの一瞬とは思わずひれ伏してしまいたくなるような――。


 とりあえず。


「ようこそ〈聖導教会〉へ、本日はどのような――へ!? うえっへああああああああ!?」


 教会をどよもす同僚たちの絶叫を聞くに、やっぱり夢じゃなかったのかもしれないなあと、少女は思った。




 /


「……ねえ、あなた。一応訊くのだけど、義足で歩くのはこれがはじめてよね?」

「? それはもちろん……」


 リハビリを始めて一時間強。俺は手すりを使った練習、杖を使った練習と経て、かなりゆっくりながらもなんとか一人で歩けるようになっていた。


 いや、正直に言おう。――ゆっくりと歩けるようにしか、なっていなかった。一時間ひたすら練習しても、平坦な床をふらふらと子鹿みたいに歩くのが精一杯だった。


 やはり、自分自身の足を動かすのとはなにもかも違う。特に一番難しいと感じるのは、義足はあくまで義足であり、自分の感覚が一切通っていない点だろう。


 これが自分の足であれば、前に出した瞬間に踏みしめる感覚がはっきりとわかるし、地面が柔らかいのか固いのか、不安定な場所なのか否かも即座に直感できる。

 しかし義足はそうじゃない。足を前に出して床を踏んだとしても、その実感がなかなか正確には伝わってこない。本当にちゃんと踏めているのか、このまま体重を預けて大丈夫なのか、その瞬間バランスを崩すのではないか――そういった感覚的、ないし精神的な難しさがたしかに存在している。


 実のところ、もう少しくらい上手くやれると思ってたんだけどなぁ。やっぱり体がなまってしまったのだろうか。……まったく、もしこの場に俺の祖父がいたら、弛んでるとか甘えてるとか大声でどやされてただろうな。

 けれど老シスターにとっては違うようで、


「飲み込みが早すぎる……いえ、早いなんてものではないわ。普通、支えなしで歩けるようになるだけでも何日とかかるものなのよ」


 え、そうなの? ……たしかに、冒険者じゃない普通の人だとそれくらいかかるのかな。ということは、ちゃんと歩けるようになるまでは……一ヶ月?


 いやいや、俺はそんな悠長に構えるつもりはない。『生まれたての子鹿』という比喩があるけれど、その子鹿だって生後数時間もすれば一人であちこち歩き回るようになるんだぞ。

 俺だって今日中に、せめて教会の中くらいは問題なく歩けるようになってやる。そうすれば、たった一杯の水を取ってくるだけで師匠たちに助けてもらう必要もなくなるからな。


 それにぶっちゃけ、万が一があったとしても転ぶだけである。


 転ぶのが怖かったら誰もはじめから剣なんて握っていないし、冒険者にもなっていない。昔やっていた修行と比べれば、転ばないよう気遣われながら進めるリハビリなんざ屁みたいなもんだ。


 俺としては気遣いなど一切無用、「今日中に走れるようになれ。やれ」と雑なノルマを課せられるくらいでもいいんだけどな。それだと師匠が涙目ですっ飛んできそうなので、さすがに自重しているけれど。


「お疲れ様です、先輩」

「ああ、ありがとう」


 小休止のため椅子に座ると、すぐにユリティアがコップで水を持ってきてくれた。続けて師匠が、


「ウォルカ、む、無理はしておらんか? そんなにがんばらなくてもいいんじゃぞ? 少しずつ、少しずつでいいんじゃからなっ……」


 ちなみに師匠、アトリの膝の上で幼女よろしくがっしりとホールドされている。俺が訓練している間ずっとはらはらおろおろしっぱなしで、あまりにも落ち着きがなかったせいだ。俺がちょっとふらつくたび大慌てで駆け寄ってこようとするため、見かねたアトリにずるずる引きずられていってしまった。

 アトリが師匠の頭を撫でながら、


「リゼルはほんとに心配性。もう少し落ち着く」

「だ、だってぇ……」


 だってじゃありません。


「正直、私としてももっとゆっくりでいいと思うのだけれど。そこまで早く歩けるようになりたい理由でもあるのかしら」


 むしろ早く歩けるようになりたい理由しかないんだよなあ……。師匠たちに余計な負担をかけないで済むし、それだけ早く聖都に戻れるし――あとは、体だって本格的に動かせるようになる。

 なまじっか素振りだけ再開してしまったせいか、一刻も早く鍛錬をしたくてなんだか強迫観念みたいになってきてるんだよな。少し大袈裟かもしれないけれど、剣を振らないと自分が自分でなくなってしまう気がする、というか。



 ……今の体になってから、深く考えるのはあえて避けていたけれど。

 やっぱり俺にとって、剣というものは。

 もしかすると、俺が思っている以上に――。



 なんの前触れもなかった。


「――へ!? うえっへああああああああ!?」


 リハビリ部屋の外から突然の絶叫。ただしそれは恐怖や痛みに濡れた悲鳴というより、思いもしない出来事に直面したときの素っ頓狂な叫び声だった。

 前世でたとえるなら、超有名な芸能人がいきなり目の前に現れたときのような。


 エントランスと思しき方向から、その叫びはシスターからシスターへ次々と伝播している。神聖な教会らしからぬ大騒ぎに、老シスターがやや厳しく眉をひそめる。


「……いったいなにかしら。騒がしいわね」


 喧騒が徐々に近づいてくる。かすかながら、「ああマドモアゼルたち、落ち着いてくれたまえ!」と妙にキザったらしい男の声が聞こえた。

 俺は思わず腕を支えにして真下へ俯く。……今の声、アイツか。アイツなのか。どうして大聖堂勤めのエリート騎士様がこんなところに、と頭痛を覚えながら眉間を揉みほぐし――



「――ウォルカさまっ!!」



 しかし俺の予想に反して、飛び込んできたのは一人の若いシスターだった。

 その端正で清らかな顔立ちと、光を吸い込むような白金色プラチナブロンドの髪に俺は見覚えがあった。というか、ただの冒険者でしかない俺をさま付けで呼ぶ人物などこの世で一人しかいない。


 〈聖導教会クリスクレス〉は、なにかと怪我が絶えない冒険者にとっては第二の家とも呼べる場所である。そして俺たち〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉は、とりわけ四人になってからは聖都を拠点として活動してきた。すなわち聖都が誇る教会の中枢機関――通称『大聖堂』には、普段世話になっている顔見知りが何人かいるわけで。


 その中でも俺たちの……というより、俺の治療を専属で担当してくれているシスターが、


「……アンゼ?」

「ああっ、ウォルカさま――!」


 俺の姿を見つけるなり悲愴とともに駆け寄ってきた彼女――アンゼであり、


「ウォルカさま、アンゼがここに参りました」

「あ、ああ……いや、なんで君がここに」


 アンゼは俺の目の前で慎み深く両膝を折り、義足と眼帯をそっと一瞥すると、


「ウォルカさまのお怪我を耳にして、居ても立ってもいられず。申し訳ありません、わたくし、ウォルカさまがお辛い思いをなさっていると露も知らずに……!」

「そ、そうか。心配かけたな」


 ――アンゼは純真と慈愛に満ちあふれた規範的なシスターであり、大変にいい子である。


 いい子なのは、間違いない。

 間違いないのだが、一方で胸に抱く感情の規模が大きいというか、いかんせん大袈裟すぎるところがあって――


「ですが、もう心配はございません」


 聖都を離れたこの小さな街でも、そんなアンゼのデカい心は変わらなかった。


 アンゼは自身の清らかな両手で俺の手を包み、後光が差すような慈愛をあふれさせながら、部屋の外まで響くくらいにはっきりとこう宣言するのだった。



「――今すぐ聖都に戻って、これからは大聖堂でわたくしと一緒に暮らしましょう!」

「「「――――は?」」」



 仲間たちのドスが利いた声というのを、パーティ結成以来はじめて聞いた気がした。

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