34.〈ギルド職員〉シャノンⅠ

 ウォルカたち〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉が朝の鍛錬を終え、ロゼ手製の朝食で申し分ない一日のスタートを切った頃、聖都の様々な店や施設でも本格的に今日という日が始まろうとしている。


 聖廷街せいていがいの冒険者ギルドも、その中のひとつだ。ギルドの顔となる受付嬢たちがちょうどロビーの清掃を済ませたところであり、もうまもなく本日の業務が幕を開けようとしている――はずなのだが。


「いやー……あー、やっぱり平和が一番だねえ」


 冒険者の目線でいえば、特定の手続きや面談を求められたときのみ立ち入ることになる建物の二階。その関係者以外立入禁止の扉を越えた先にある事務フロアにて、なぜかソファーで惰眠をむさぼろうとしている男が一名。


「もうすっかり落ち着いたみたいでほんとよかったよ。おっさん、今月だけで向こう三ヶ月分は働かされた気分だわ。体力持たないったら」


 寝転がって両手を枕にし、お行儀悪く足まで組んで、これから一日の仕事を始める職員とは思えない怠惰なあくびを天井に飛ばしている。覇気がない昼行灯な目つきに無精ひげを散らしただらしのない男だが、周辺で書類を整理する職員は誰も彼を咎めず、もう見慣れたとばかりに苦笑するやら呆れるやら。

 と、


「こら、サボり魔」

「あいた」


 一階から書類の束を抱えて戻ってきた少女が、その束で男の頭をひっぱたいた。


「いつもサボってばっかなんっすから、おっさんは汗水垂らしてようやく人並みでしょ?」

「ひどいなあ、今回は一緒にがんばったじゃない。おっさんのダンディーな活躍、見てたでしょ」

「まあ、いないよりはマシだったって感じっすかねー」

「ちょっとー?」


 ダンジョン〈ゴウゼル〉の踏破承認事故からおよそひと月、聖廷街せいていがいの冒険者ギルドにもようやく今まで通りの日常が戻りつつある。


 ほんの何週間か前までは、このフロアも近年稀に見る慌ただしさでバタバタしていたのだ。事故の詳細を求める声やら依頼のキャンセルを訴える声やらが一階から絶えず響いてきて、ひどいときはこのフロアの職員が半分近くヘルプに駆り出されることもあった。騒ぎはやがてギルドを越えて外まで拡大し、あっという間に人から人へと噂されて、聖都全体まで波及するちょっとしたスキャンダルの様相を呈していた。


 とはいえ冒険者を除く多くの人々にとっては、そこまで大騒ぎすることなのかと首を傾げるような話でもあっただろう。結局本当のボスとやらは倒されたんだろう、だったらこれ以上なにが問題なんだ、と不思議に思うのもごもっとも。


 この国で数十年振りに起こった踏破承認事故――これのもっとも厄介なところは、「じゃあ他の踏破済みダンジョンは大丈夫なのか」と問い詰める冒険者に、誰も言葉を返せなくなってしまうことだ。結果、この国で近年踏破されたダンジョンはすべてギルドが責任持って再調査せざるを得なくなり、その手続やら人員の手配やらで、騎士まで巻き込んだ大騒ぎになってしまったわけだ。


 ひと月が経ってあらかたの再調査も進み、事態はようやく沈静化を迎えようとしている。


 しかし、冒険者たちの心に生まれてしまった疑念を完全に払拭するのは難しい。〈ゴウゼル〉以外の踏破済みダンジョンにも、ひょっとするととんでもなく強大な真のボスモンスターが潜んでいるかもしれない。軽い気持ちで足を踏み入れて、もしそんな魔物と出くわしてしまったら間違いなく全滅する――とりわけ低ランクの冒険者パーティは完全に震え上がってしまって、踏破済みダンジョンに関連する依頼は当面のあいだ誰からも嫌厭され、埃を被る状態が続いてしまうだろう。


 こればかりは、時間の助けを借りながら少しずつ解決していく他なく、今すぐにどうこうできる問題ではない。歴史的な激務を切り抜けようやく一息つけるようになった彼女たちの前で、その話を掘り返すのはいささか酷であろう。


「おっさんも、普段からもうちょっと真面目にやってくださいよ」

「おっさん、もう歳だからねえ。シャノンちゃんみたいな若い子みたいにはいかないのさ」


 シャノンとは、先日ウォルカたちの会話に挙がったあのシャノンである。


「よく言うっすよ、まだまだぜんぜん現役のくせに」

「まあともかくさ、ようやく肩の力抜けるようになったわけだし――」


 すなわちいま男と軽口を言い合っている、ポニーテールに眼鏡を合わせた『明るい文系のおねえさん』然とした少女こそが、今回の事故を自分のせいと責め苛んでいるという――


「シャノンちゃんさ、そろそろ休んどきなよ。自分の顔色、わかってないわけじゃないでしょ」

「……」


 シャノンの瞳がぼやけた。焦点が突然現実に合わなくなって、暗闇の中へ落ちていくような。男はため息、


「休み取って思いっきり寝て、そんでいっぺんウォルカくんたちと話してきなって。このままじゃあ、気がついたら教会で目を覚ます羽目になっちゃうよ。冗談抜きで」

「そ、そうだよシャノンちゃん」


 近くの席の同僚も同意する、


「フュジさんの言うとおりだよ。シャノンちゃん、ずっとあちこち走り回ってて、ぜんぜん休んでないよ……」

「……あたしは、大丈夫っすよ」

「そう言うやつは大丈夫じゃないって相場が決まってんの」


 男――フュジがぴしゃりと断ずる。言葉こそないものの、周囲の職員たちも気遣わしげな沈黙をもって同調する。今のシャノンはお世辞にも顔色がいいとはいえず、目の下にもうっすらと過労の色が見え始めてしまっている。


 〈ゴウゼル〉の事故が起きてからひと月、シャノンは一日たりとも休みを取らずに毎日日が暮れるまで働き続けている。夜はちゃんと家に帰っているはずだが、


「休みなんて、取っても意味ないっすよ。どうせ眠れないんで」

「あのねえ、シャノンちゃん――」

「リゼルたちは、もっとひどかったんすよ」


 たしなめようとしたフュジをやや強い語気で遮り、


「おっさんも見てたでしょ? と比べたら、こんなのなんだっていうんすか」

「……」


 シャノンが言っているのは、〈ゴウゼル〉の事故が発覚してからまもなく、シャノンとフュジが事実調査のため〈ルーテル〉の街まで赴いたときの話だ。

 赴き、リゼルに、「出ていけ」と吐き捨てられたときの。


「リゼルたちがあんなに苦しんでたのも、ウォルくんが怪我したのも、ぜんぶあたしのせいじゃないっすか」

「シャノンちゃん、そりゃ考えすぎだよ。ウォルカくんたちがそんな風に考えるわけないでしょうが」

「……どうっすかね」


 シャノンがおかしくなったのは、それからだ。

 無理もない。こんな口調ではあるがシャノンは今年で十九になり、〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉の面々よりもちょっとだけおねえさんの立場にある。自分が気に入った相手に対してとことん一生懸命な性格はしばしば犬みたいとからかわれ、「あたしがおねえさんっすから!」とめいっぱいにウォルカたちの世話を焼こうとしていた。


 そんなシャノンにとっては、到底堪えられるものではなかったのだろう。

 今回の事故、原因は踏破承認を請け負ったパーティの職務不履行が疑われている。そして〈ゴウゼル〉への調査隊としてそのパーティを指名したのが、他でもないシャノンだったのだ。


「あたしが……あたしが、ちゃんと気づいてればっ……」


 もっとも、だからといって今回の責任をシャノン一人に押しつけるのは理不尽であろう。そのパーティは聖都の冒険者界隈でもまずまず名が知れているベテランで、過去にも何度かダンジョンの踏破承認を経験しており実績も申し分なかった。なにより当時のシャノンは、一連の手続きを書類にまとめた上で、しっかりと上長やギルド長の承認を得ていたのだ。いわば、件のパーティを選定したのはギルド全体の総意なのである。


 メンバーが仲違いして内部分裂の状態にあったとわかったのは、事故が発覚して責任を追及されてからの話だ。


 だからあなたは悪くないとみんなが慰めるのに、シャノンは一度として首を縦に振ったことはない。今だって必死に涙をこらえながら、


「なのに、どんな顔して会いに行けばいいんすか……なんて、謝ればっ……」

「……責任感が強すぎるよ、シャノンちゃんは」


 気に入った相手に心底感情移入し、心を砕きすぎてしまうのが、シャノンという少女の美点であり欠点でもあった。


「だいたいウォルくんたち、まだ帰ってきてないですし……もしかしたら、もう聖都になんか帰りたくないって、」

「あ、あの……」


 そのときおずおずと手を挙げたのは、シャノンから四つほど離れた席に座る青年だった。あまり人付き合いが得意でない彼は周囲の目を気にしながら、


「ウォルカさんたち……その、もう帰ってきてましたよ?」

「――え、」

「今朝、〈ル・ブーケ〉の近くを通りかかったんですけど……普通にみんなで鍛錬してました……」


 シャノンが、抱えていた書類の束をすべて床に落とした。



 /


「――ところで、」


 さて、朝の鍛錬を済ませてロゼ手製の朝食で腹ごしらえし、いよいよ本格的に一日をスタートしようという頃。

 俺は、部屋に集まった師匠たちへひとつ確認をしていた。


「みんなは……ギルドに行きたいか? 顔を出しづらいとか……」

「……」


 俺たちの今日の予定は、主な知り合いのところを回って帰還の報告をするという今回の旅最後の後始末だ。特にギルドへはしっかり顔を出しておかないと、報連相ができない冒険者というのはそれだけで信用を失ってしまう。


 そして俺としては、そこはかとなく気が進まない地味な難題でもあった。別に面倒くさいわけではないし、ギルドに報告すること自体なんら問題はないのだが、


「まあ……顔は出しづらいのう」

「そうですね、わたしもです……」


 長い銀髪を俺のベッドの上に広げる師匠と、その銀髪を丁寧に結ってあげているユリティアが、それぞれ力のない曖昧な表情を作った。


 そう、顔を出しづらいのである。〈ルーテル〉の街では赤の他人ばかりだったからかえって気にならなかったが、聖都ではそうもいかない。多かれ少なかれ、行けば誰かしら知り合いと顔を合わせることになる。どうしてひと月も留守にしていたのか間違いなく訊かれるし、俺の眼帯義足姿にも様々な反応が返ってくるだろう。


 そしてその反応次第では、師匠たちが嫌な思いをすることもあるかもしれない。

 椅子に座るアトリがきょとんとして、


「そうなの? ボクは別に……」

「正直、俺も気乗りはしない」

「……やっぱりボクも気乗りしない」


 即行で鮮やかな手のひら返しをしているが、ともかく、今の俺たちにとってギルドは少々ナイーブな場所ということだ。

 ただ同時に、「じゃあ行かなくていいや」ともしづらい事情があるわけで。


「でも……シャノンと話さないわけにはいかないよな?」

「うぐ……」


 痛いところを突かれた師匠がしおしお縮こまる。


「た、たしかにな。傷つけてしまっておるようじゃし……」



 俺たち〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉の活動を応援してくれているギルドのおねえさん、シャノンについて。



 一言でいえば、犬っぽいおねえさんである。自分が気に入った人物に対してとことん親身になろうとする性格で、まだ小さい女の子もいるウチのパーティに放っておけないものを感じてか、仕事もプライベートも問わずいろいろと世話を焼いてくれている。〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉の実質的な担当ともいえるギルド職員であり、俺たちが聖都にやってきて間もなかった頃、この都市について一から教えてくれたのも彼女だった。


 背中までかかる程度の飴色の髪を、仕事のときはいつも爽やかなポニーテールで結い上げており、利発そうなオーバルタイプの眼鏡をかけている。そして髪の両サイドにはなぜかぴょこんと獣耳っぽいクセ毛があって、彼女の犬っぽい印象をより強固なものにしてしまっているのだ。彼女曰く、なにをどうやっても直らない不死身のクセ毛らしい。


 特徴は、語尾に「~っす」と付けて話す元気いっぱいな年下言葉。明るく壁を感じさせないその言葉遣いもまた、彼女が犬っぽく見えてしまう原因なのかもしれない。


 歳は十九で、身長はアトリよりほんの少しだけ低かったかな。

 そんな俺たちにとって一番身近なおねえさんは、どうも今回の件を自分のせいと責めるほどに凹んでしまっているとのこと。理由は定かでないが、このままなにもせず放っておくわけにはいかないだろう。


「……というか、俺が邪魔か? 俺がいなければ――」

「そ、そんなことないっ!!」


 師匠たちがいきなり大声で、


「邪魔だなんて、バカなことを言うでないッ!!」

「そうですよ、先輩を邪魔に思うなんて絶対にありません!! いなくなるなんて言わないでくださいっ……!!」

「ウォルカっ……そんなの、ボクも怒るよ……!」


 いや言ってねえ……! 「いなくなる」なんて一言も言ってねえ……! 人の言葉はちゃんと聞きましょうね!


「俺が一緒に行かなければ、ってことだ。俺は留守番でもいいぞ」


 俺と一緒にギルドへ行く、俺の眼帯と義足を見たやつらがひそひそ話を始める、師匠たちが居心地の悪い思いをする。どう考えても俺が邪魔である。シャノンが〈ルーテル〉に来たときのことを俺は知らないので、師匠たちだけで話してくるというのも選択肢のひとつだろう。


 けれどみんなそっぽを向いて、


「ウォルカが行かないなら、わしも行かない」

「わたしもです」

「ボクも」

「……そうか」


 ……じゃあ、腹を括って行きますか。

 先延ばしにしたところで、どのみち俺の片目片足はあちこちで噂されることになるだろう。だったらさっさとみんなに見せてしまって、そのぶん噂が早く収まるのを待った方がいいのかもしれない。


 シャノンの方から来てくれたら楽なんだけどな、なんて考えたまさにそのとき、


「ウォルカちゃん、いま大丈夫かしら?」


 ドアをノックする音とロゼの声。その場から「なんだ?」と返してみれば、


「いまちょうどシャノンちゃんが来てね、会えないかって。……話、できそう?」

「……だそうだ」


 これはやはり、みんなでちゃんと話をしろということなのだろう。


「あ……えっと、すぐに終わらせますねっ」

「ううっ……な、なんて謝ればいいんじゃあ……」


 ユリティアがスピードアップで師匠の髪を結い、負い目がある師匠はなんだか酸っぱそうな顔でおろおろしていた。



 /


 今でも、心の底から後悔している。あなたはなにも悪くないと、ギルドの仲間たちはみんな口をそろえて慰めてくれるけれど。


 たしかにすべてはたらればの話に過ぎず、今回の事故を未然に防ぐのは難しかったのかもしれない。シャノンが〈ゴウゼル〉の踏破承認を依頼したパーティ〈炎龍爪牙フランヴェルジュ〉は、Aランクに昇格してから五年を数える聖都でもまずまずのベテラン組で、過去にも同様の依頼を数度こなした実績があった。


 だがもしシャノンが、紙の上のデータだけで事を判断せず、〈炎龍爪牙フランヴェルジュ〉の今の姿を少しでも見ようとしていたならば。

 メンバーが不和を起こし内部分裂に近い状態だったと、前もって知ることができていたならば。


 決して、彼らを指名したりはしなかった。

 シャノンが彼らを選んだ時点で、今回の事故が起こる未来は確定してしまったのだ。


 未来を決める最初の分岐点に立っていたのが、シャノンだった。そもそもシャノンが〈炎龍爪牙フランヴェルジュ〉を指名していなければ、こんなことにはなっていなかったかもしれない。


 ウォルカが死んでもおかしくないほどの大怪我を負い、右目と左足を失ったのも。

 そのせいで、リゼルたちが心に深い傷を負ってしまったのも。


 どれほど後悔してもしきれない。

 本当に――自分が嫌になる。




 今からひと月近くを遡る話だ。その日シャノンが早めの昼休憩を終えて職場に戻ってくると、フロアの空気が妙にザワついているのを感じた。みんな窓際の机に集まって、難しい表情をして何事か話し合っている。


「なにかあったんすかー?」

「あ、シャノンちゃん……!」


 この職場でしばしば「臆病なリスみたい」と評される同僚が、いつにも増して落ち着きなくおどおどしている。机の上に広げられていた一枚の紙を取り、


「い、今、〈ルーテル〉からこれが届いてっ……」

「〈ルーテル〉? 〈ルーテル〉ってたしか――」


 ――なんだっけ。つい最近聞き覚えのある名前だった気がするけれど。

 そう思いながら受け取ってみると、おそらく鳥を使って大急ぎで届けられたのだろう、片手サイズの小さな書面には昨日の日付とともに以下の内容。



 ダンジョン〈ゴウゼル〉で踏破承認事故発生の疑い

 聖都より来訪のパーティ〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉一名が重傷

 至急、調査の支援を求む――



「――は? え? なんっ……え?」


 たった三行の簡素な文章を理解するのに、ひどく時間を要した。

 いつもならソファーでだらけてばかりなはずのフュジも、このときばかりは起きあがって険しい表情を作っていた。


「シャノンちゃん。〈ゴウゼル〉の踏破承認を担当したのって、おたくじゃなかったっけ」


 ――そうだ。今から一ヶ月ほど前に踏破報告が上がったダンジョン。聖都からそう遠くない小規模なダンジョンだったのもあり、シャノンが研修も兼ねて踏破承認の対応をしてみることになった。調査隊として派遣するパーティを選定、必要な書類を作成し、上長の太鼓判とギルド長の承認を経て、パーティと交渉して依頼を引き受けてもらった。


 だが、それよりも。

 シャノンの意識を侵食するのは、それよりも。


「〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉、一名が、重傷――」


 〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉。シャノンが聖都で一番応援している冒険者パーティ。仕事もプライベートも問わず、シャノンがおねえさんぶって何度も世話を焼いてきた友人たち。


 ウォルカ。リゼル。ユリティア。アトリ。


 重傷。

 誰が。

 いったい、誰が。


 呼吸が干上がる。紙をつまむ指先が震える。視野が狭くなって自分の鼓動以外なにも聞こえなくなる。重傷。重傷としか書かれていない。それが誰なのかも、どの程度の怪我なのかもわからない。大丈夫、落ち着いて、『重体』じゃない、なら命の危険があるわけじゃない。……本当に? 大したことのないと思っていた傷が後々命に関わるパターン。もし万が一があったら? 今ごろ容体が急変していたら?

 もしかして、死――


「――シャノンちゃん! シャノンちゃんっ!!」

「……!?」


 同僚に肩を揺すられてシャノンは正気に返った。


「シャノンちゃん、しっかりしてっ!」

「ぅあ、……だ、大丈夫。大丈夫っす。ごめん……」


 シャノンは咄嗟に平静を装う。だが傍目から見れば、シャノンはどこからどう見たって大丈夫ではなかった。顔が真っ青になって呼吸が細く、瞳の焦点がどこにも合っていない。

 フュジが釘を刺すように、


「シャノンちゃん、あんまり早合点しちゃダメだよ」

「で、でも――」

「とにかく、こうなったからには向こうに人を遣って、まずは正確な状況把握からさ。……どうする?」


 数秒の間、シャノンは自分がなにを問われたのかわからなかった。それからようやくフュジの意図に気づき、


「い、行きます。あたしが行くっす」

「そんじゃあ、特別におっさんが馬を出したげるよ」


 冷静になりきれない頭の中で、それでもシャノンはフュジの申し出を意外に思った。


 フュジはシャノンと同じギルドの職員であり、同時に冒険者の資格を持ったベテランでもある。その業務内容は多岐に渡り、ギルド内で実施される様々な試験を監督したり、冒険者同士の揉め事を仲裁したり、新人を育成したり、ときにはできたてほやほやのパーティに同伴して冒険のなんたるかを手解きすることもある。要は、腕っぷしを伴う仕事全般が彼の担当というわけだ。


 ただいかんせん本人の振る舞いが昼行灯極まり、お呼びがかからなければここのソファーでぐうたらしている場合も多いため、シャノンをはじめほとんどの職員からはサボり魔と認識されている。まあ、別にサボっているわけではないのだろうが――ともかくそんな男が誰から命令されるでもなく、自分から率先して動こうとしているのは珍しいことだった。


 シャノンの視線にフュジはうなじのあたりをかいて、


「ん……まあ今回ばかりは、おっさんも真面目にやっといた方がよさそうだからねえ」


 〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉の安否で頭がいっぱいになっていたシャノンには、フュジの言う意味がよく理解できなかった。


 心臓が、苦しい。

 シャノンは、よく職場の人たちから「犬みたい」とからかわれる。おそらくは一度なにかを好きになったら最後、とことん好きになってのめりこんでしまう性格をいっているのだと思う。


 そしてそれは、人間関係においても同じ。

 ギルドの職員というのは大抵、心の中で『自分が一番応援しているパーティ』というものを持っている。

 シャノンにとっては、それがまさしく〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉だった。


 だから、その中の誰かが重傷を負ったという事実が、シャノンの心に耐え難いほど重くのしかかってくる。

 祈った。


(大丈夫っすよね、みんなっ……)


 ――シャノンが見せられたあの手紙は、〈ルーテル〉のギルドがともかく現状をいち早く聖都へ知らせるために放ったものだ。


 放った時間は昨夜。すなわちウォルカが〈聖導教会クリスクレス〉に担ぎ込まれ、無事を一心に祈るリゼルたちに代わって、『原作主人公』がギルドに報告を行った直後である。


 原作主人公の報告を受けてギルドはすぐさま教会に確認したものの、リゼルたちは会話ができる状態ではないとして面会謝絶の上、ウォルカの容体についても判然としなかった。大半のシスターが根こそぎウォルカの治療に駆り出されてしまい、状況を理解できていない見習いシスターしかいなかったせいだ。


 おまけに原作主人公も、言うことを言ったらギルドの制止も聞かず立ち去ってしまう始末。

 だからギルドはやむなく、原作主人公から報告されたとおり『一名が重傷』と記載した。ギルドにとって一番重要なのは事故の疑いを速やかに知らせることであり、負傷した冒険者の正確な容態は二の次だった。


 これは、原作主人公の報告もよくなかったといえる。この世界において『重傷』とは、深い外傷を伴いつつも命には別状がない場合を指して言う。生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨さまよっていたウォルカであれば、厳密には『重体』と報告するべきだった。


 しかし冒険者ギルドの職員や〈聖導教会クリスクレス〉のシスターを除けば、ほとんどの人々にとってそのような意味の違いを意識するのは難しいだろう。


 だからシャノンは、フュジとともに〈ルーテル〉の街を訪ね、〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉の安否を直接その耳で聞くまで。


 彼らがどのような状況に置かれているのか、まるで想像もできていなかったのだ。

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