34. 剣の最奥

 次の日、俺はまだ太陽が顔を出しきらない明朝一番に目を覚ました。


 一度伸びをしてからむくりと起き上がる。今の俺はすでに、かつて教会のベッドで惰眠をむさぼるばかりだった頃のぐうたらな俺ではない。義足でも可能な範囲の鍛錬を再開したことで体内時計が正常化し、怪我をする前とほとんど同じ生活リズムを取り戻している。


 すなわち、朝の鍛錬の時間である。よし、今日も一日やったりますか――と、気合を入れるその前に。


「ふみゅぅ……」


 まずは、そんな寝息ですやすや眠っている隣の師匠を起こしてあげなければならない。


 もちろん、師匠を寝かせたままこっそり抜け出して鍛錬するのは簡単だ。元々、朝の鍛錬といえば師匠を除いた近接組でやっていた日課であって、師匠は朝が苦手なのもあり、朝食の時間までぐっすり眠っているのが当たり前だった。だから本来であれば、師匠はこのまま寝かせておいて問題ないのだが……。


 それも、俺が片目片足を失う前の話である。

 今はむしろ起こしてあげなければ、目を覚ましたとき俺の姿がどこにも見えないようだと――。


 〈ルーテル〉の街にいた頃、これで一度師匠が大騒ぎを起こしてしまったことがあった。

 どうやら『知らないうちに俺がどこかへいなくなってしまう』のは、師匠のトラウマを呼び起こしてしまうところがあるらしく。以来、朝の鍛錬をするときは必ず師匠を起こすし、師匠もがんばって起きるという指切りげんまんが交わされた。


 というわけで、師匠の肩を優しく揺すってやろうとするのだが、


「……ふむ」


 もうまもなくユリティアとアトリも目を覚まし、支度を整えて俺の部屋にやってくるだろう。俺はふと思い立って、今日はそれまでの時間を使って座禅をしてみることにした。


 一度ベッドを出て、部屋のドアプレートを『就寝中』から『在室中』に替え、鍵も開けておく。それから、〈装具化アクセサライズ〉を解除して愛刀を顕現。ベッドの上で胡坐をかき、組んだ足の上に愛刀を置いて、剣の中へ落ちていくイメージで意識を集中させていく。


 なぜ急に座禅などやろうと思ったのか、もちろん理由はある。

 誰にも邪魔されない静かな時間を使って、剣とじっくり意識を同調させたい。玄人気取りのカッコつけた言葉でいえば、剣と対話を深めたい。


 なんというか――もっと気がするのだ。

 〈摘命者グリムリーパー〉との死闘を経て、自分が今までより数段深い領域で剣と同調できるようになった実感はある。けれどまだ、まだ先がある。もっと深いところまで落ちていける――そんな感覚を漠然と覚え続けている。


 たとえば極端な話ではあるが、人は視界に映るすべての物をひとつ残らず斬ることができるだろうか。


 アトリのように馬鹿デカい武器を担いで暴れればある意味では可能なのかもしれないが、俺が言いたいのはそういうことではなく。


 ――この場から一歩も動かぬまま、抜刀一閃のみをもって視界の一切合切を斬り伏せる。


 まあ、無理に決まってる。ここが剣と魔法のファンタジー世界だとしても、かなりぶっ飛んだ方の発想だと思う。他人に話したら間違いなく鼻で笑われるか、頭がおかしいやつなのだと可哀想な目を返されるだろう。


 しかし、一切合切斬り伏せたその刹那を明確に、絶対的な確信を持ってイメージできたとするならば。


 斬ろうと思った物を考えたとおりに斬るという、なんの変哲もない当たり前の術理。

 突き詰めてしまえば、こうも言えるのではないか――斬ったイメージさえできるなら、あとはそのとおりに剣を振るうだけでいいのだと。


(ああ、そうか――)


 剣の中に落ちる俺の意識が、なにかに指先をかけた感覚。



 なんとなく、わかった。

 おそらくここから先の領域は、『斬る』という概念自体が違うのだ。



 『斬る』とは、ただ剣で物体を両断する行為をいうのではない。

 剣を振るうという動作をトリガーにして、


 自分で自分を笑いたくなった。俺は今、頭がおかしいことを考えているのかもしれない。


(でも――)


 体に残っている、〈摘命者グリムリーパー〉を斬ったときの感覚。

 記憶に残っている、スタッフィオを討ったときの感覚。


(――……)


 


 思い描く。世界は黒。ベッド、床、ナイトテーブル――自分の近くにある物から、『斬れる』と絶対的にイメージできた場所を白い太刀筋で潰す。


 斬る。

 斬る。

 斬る。

 斬る。


 ひとつひとつ白の領域を広げていって、斬る前の黒い世界を、斬ったあとの白い世界に変えていく。そうやって、やがて視界のすべてを真白に染めあげられたなら――


(――まあ、無理だよな)


 しかし部屋を半分ほど染めたところで、あとはどうイメージしても白を広げられなくなってしまった。


 これ以上はできないという確信が、斬れるという確信を上回った。このあたりが今の俺の限界なのか、それとも考え方をもっと効率化する必要があるのか……あるいは、剣にもっと深く入ることができたならば。


 ――ああ、なんかめちゃくちゃ楽しくなってきたな。


 この全身が奮い立つ感覚、かつて抜刀術を実現するためにがむしゃらになっていた頃を思い出す。頭の中の理想をモノにするにはどうすればよいのか、とにかく考えて試さないではいられないぞわぞわとした衝動。もしこのイメージを現実にできたなら、俺はファンタジー世界でも最高にファンタジーな抜刀術を会得できる――のかも、しれない。


 滾るじゃねえか……。ふふ、テンション上がってきたぜ。


(やっぱり、やめられないな。これは)


 つくづく俺は、あのジジイの血を色濃く継いでしまったのだと実感する。


 たしかに抜刀術は前世からの憧れだったが、ジジイに師事してアホみたいな修行をやりきり、片目片足を失った今でも剣を振り続けたいと願ってしまうのは、あの剣鬼の孫である影響も少なからずあるのだと思う。


 ……この無限に広がる剣の地平を、ジジイはどこまで進んでたんだろうな。

 剣を横に振るえば数十の木々をまとめて丸太に変え、縦に振るえば大地を割っていたようなバケモンだ。こんなこと一言も教えてはくれなかったけれど、もしかするとジジイにも、研鑽の果てに辿り着いた剣の世界というものがあったのかもしれない。


 やっぱり遠いな、ジジイの背中は。

 それでこそだよ、本当に。簡単に追いついちまったら、拍子抜け以外の何物でもないからな。


 ともかく、これは今後の新たな研究課題だ。有意義な結果が得られたので座禅は終わりにする。研ぎ澄ましていた集中を切り、視界をゆっくり元の世界に戻していくと、


「――ふあ、」


 そんな気の抜けた少女の声と、床になにかが倒れるちょっとした物音。驚いて振り向くと、ユリティアが心ここにあらずな様子でぺたんと尻餅をついていた。


 その隣には、いつもの無表情ながらどことなく目を輝かせて見えるアトリもいる。なんだなんだ、たしかに鍵は開けておいたけど、二人ともいつの間に入ってきたんだ? 座禅に集中していてぜんぜん気づかなかった。


「……ウォ、ウォルカ、」


 しかも朝が苦手なはずの師匠まで目を覚ましており、なにが起こったのかよくわかっていないぱちくりした顔で俺を見つめている。……いったい何事?

 ユリティアが尻餅をついたまま、


「ご、ごめんなさい。あの、ノックはしたんですけど……」

「悪い、気づかなかった。でも声をかけてくれれば」

「えっと……声もかけたんです……」

「……すまん」


 ええ……それでも気づかなかったってなにをやってるんだ俺は。集中しすぎか。座禅に没頭する様子を途中から見られていたと思うと少し恥ずかしくなる。変な顔してなかったよな?


 ……。

 ところでユリティア、なんか妙に呼吸が荒くない? なんでハアハアしてんの? 顔も熱っぽく見えるし、もしかして具合でも悪いのか?


「ユリティア、大丈夫か? もしかして具合が……」

「い、いえいえ大丈夫ですっ!? ただその、あの……はう」


 なにやらため息をつかれてしまった。でも、どちらかといえば満ち足りた感じのような……? 本当に、俺が座禅してる間になにがあったんだこれ。

 アトリが、ベッドの上の俺まで興味津々と身を乗り出してきて、


「ウォルカ……今、なにしてたの?」

「なにって、座禅だが」

「でも、うんと……すごく集中してた」

「……座禅だからな」


 座禅なんだから集中するのは当たり前だろうが……! おいどういうことだ! ますます意味がわからんぞ!


「なんだか、違う世界を見てるみたいだった」


 違う世界……? あー、視界を斬ったイメージだけで捉えようとしたやつだろうか。別にそんな大袈裟なもんじゃないぞ。ただのイメージの話で、本当に違う世界を見ていたわけじゃない。

 うーんと、なんて説明すればいいんだ?


「なんというか……剣に、もっと深く入れるような気がしてな」

「剣に、入る……」

「それで、『斬る』っていうのがいったいなんなのかを考えて……」


 当然ながら、全員から疑問符が返ってくる。まあ、いきなりこんなこと言われても意味わからんよな。あー、つまり……つまりだなぁ……。


「『斬る』というのはただ剣を振ることじゃなくて、なんじゃないかと――」


 そこで俺は口を噤んだ。――いや待て。これって傍から見たら、ただの電波野郎のイタい発言では?


 案の定、みんな疑問符を通り越して意味不明の表情になった。やっちまいましたねこれは。


「思い描いた未来を、現実に変える……?」

「せ、先輩……? それってどういう――」

「なんでもない。すまん、ただの妄想だ……」


 ほら見ろ、完全に「なに言ってんだこいつ」状態じゃねえか! 俺の口から想像以上にイタい発言が飛び出してきて、思わずドン引きしているに違いない。もうやめよっかこの話……。


「ウォルカ、おぬしいったい――」

「なんでもないんだ、忘れてくれ。ほら、朝の鍛錬をするんだろ? 着替えるから外で待っててくれ」


 追究しようとしてくるみんなをきっぱりシャットアウトし、部屋から強制退出してもらう。いいかみんな、こういうときは深く考えず適当に流してくれ……無理に会話を続けようとしても、かえって相手の心を抉るだけだからな……。


 ウォルカ、所詮おまえは無意識の電波発言で仲間にドン引きされる男よ。

 俺は心の中で泣きながら着替えた。



 /


 少し時を遡る。

 この日はユリティアも明朝一番、ウォルカとほとんど同じタイミングで目を覚ましていた。右目をこすりながらゆっくり起き上がり、


「ん、んぅっ……」


 上にひとしきり伸びをし、すとんと脱力してため息。そのまま十秒ほどぼーっとして、


「……よしっ」


 ふんす! と気合を入れてベッドから出撃する。聖都に帰ってきて最初の朝であり、最初の鍛錬の時間だ。うとうとと目覚めの余韻に浸っている場合ではなかった。


 ユリティアは姿見の前で簡単に髪だけ整え、着替えを持って部屋を出た。すぐ隣の扉をノックして、


「アトリさん、起きてますかー?」


 もう一度ノック。それからしばし待っていると、


「……ん」


 ドアが開いて、半分寝ぼけ眼なアトリが出てきた。

 黒い肌着姿で。


「ア、アトリさん……またそんな恰好で出てきて……」

「別に誰も見てないし、見せても平気」

「そうかもですけど……」


 普段、アトリが民族服の下に着ている肌着である。アトリはちょっとズボラなところがあるので、寝るときはいつもこの肌着姿でそのまま寝ている。たしかにうっすらと透ける民族服の下では、普段から半分見せているようなものかもしれないが、


「アトリさんは、もっと自分が綺麗だって自覚しないとダメですっ」

「……そうなの?」

「そうです。見せても平気だとしても、男の人は絶対……えっと……へ、変な目で見ちゃうんですからっ」


 性格の違いか文化の違いか、異国育ちのアトリは『自分が周りからどう見られているか』に無頓着すぎるところがある。まあアトリなら、変な目で見られたとしても片腕でぶちのめしてしまえるので、気にするにも値しないのかもしれないけれど。


「ともかく……おはようございます、アトリさん。今日もやりますよね? お着替え持って、シャワーに行きましょ」

「ん」


 アトリをちゃちゃっと着替えさせ、一緒にシャワーへ向かう。ユリティアたち女性陣が泊まっているのは〈ル・ブーケ〉の女性用フロアである三階で、シャワールームは一階の共用エリアに男女別で用意されている。


 どうせ鍛錬が終わったら汗を流すのだから、いまシャワーを浴びても二度手間と思われるかもしれないが――そのあたりは、ウォルカの前ではちゃんと綺麗な体でいたいというフクザツな女心である。


 さて、シャワーを浴びに行くとき、そしてシャワーを終えて部屋に戻ってくるときは少し注意する必要がある。


 というのもユリティア、一日の中でこのタイミングだけはウォルカとすれ違いたくないのだ。男性用フロアになっている二階、および共用エリアの一階でぱったり出くわす可能性は否定できない。


 階段をそそくさと下りていく途中で、アトリが後ろから言う、


「……ウォルカにバレるの、そんなにいや?」

「うー……や、やっぱり恥ずかしいんですよぉ……」


 老若男女問わずほとんどの人がそうであるように、自分の部屋にいるときくらいゆっくり羽を伸ばしたいと思うのはユリティアも同じだ。となれば当然、なるべくもしたくないわけで。


 そう、窮屈。

 たとえば――サラシ、とか。

 ゆっくり休みたいときは、さすがに、邪魔だなあと。


 しかしいざ外すと、なるべく胸元の線が目立たないゆったりめの寝間着を選んでいるはずなのに――。


「はあ、なんでわたしだけこんなに……恥ずかしいし剣の邪魔だし、いらないのに……」

「リゼルが聞いたら発狂しそう……」

「リゼルさんにあげたいです……」

「それ、リゼルの前で絶対言っちゃだめ」


 とまあ、だからシャワーを浴びてきちんと身だしなみを整えるまではウォルカに会いたくないのだ。

 どうせだったら身長が伸びてくれればいいのに、と心の底から思う。ロゼに教わりながらきちんと栄養のある食事を摂って、毎日ミルクだって飲んでいるのに、どうしてこっちばっかり大きくなるのだろうか。


 ――そしてシャワーを浴びてきちんと身だしなみを整えたので、ユリティアはくるりと手のひらを返して、まっすぐウォルカの部屋に向かうのだった。


「先輩、おはようございまーす」


 ウォルカの部屋の扉には、『在室中』のドアプレートが掛かっていた。なのでノックをして呼んでみるのだが、


「……?」


 返事がない。少なくとも一度起きて、ドアプレートを『就寝中』から『在室中』に替えたのは間違いないはずだが。うっかり二度寝してしまったのだろうか。もしくは昨晩、寝る前に『就寝中』に替え忘れたとか。


「せんぱーい?」

「ウォルカー?」


 アトリと一緒にウォルカを呼ぶものの、やはり反応はない。


 ――まさか、なにかあったのではないか。

 ユリティアは一秒で決断した。


「先輩、失礼しますっ……!」


 幸い鍵は開いていた。ユリティアは全身を緊張させて中に飛び込み――そして、すぐに脱力した。

 飛び込んだ瞬間、ベッドの上に座るウォルカが見えたからだ。


「先輩っ……もう、起きてるなら返事をしてくださいっ」

「心配する」


 アトリと一緒になって文句を言うが、これにもウォルカはなんの反応も返さない。


「……先輩?」


 ――座ったまま寝てる?

 さすがにおかしいと思い、ユリティアはウォルカの傍に寄って、肩をちょんとつつこうとした。

 その、ユリティアの指先がウォルカの肩に触れる寸前で。


「――!?」


 止まった。全身が。呼吸ともども。

 まるで抜き身の刃にうっかり触れてしまいそうになったときのような、体中の産毛が逆立つ緊張感。


 反射的に腕を引き、一歩後ずさる。


 ウォルカはベッドの上で胡坐をかき、組んだ足の上に剣を置いて瞑想していた。それ自体はなにもおかしいことではない。剣の道を極めんとする者が、こうやって精神統一の時間を設けるのはよくある鍛錬の風景だ。


 よっておかしいのは、ウォルカから放たれるオーラの方。


「ッ……!」


 一瞬で呑まれた。走り抜ける電流で肌が痺れ、薄皮を切られる小さな痛みを覚えた。もちろん本当に電流が流れたわけではないし、本当に肌を切られたわけでもない。ウォルカのオーラに呑まれて受けたただの錯覚であり――されど、まるで現実のように濃密なイメージ。


「っ……!? な、なになになにっ!?」


 朝が大の苦手なはずのリゼルすら、びっくりして一発で飛び起きてしまうほどの。

 研ぎ澄まされた武のオーラが他者を圧する話はよく聞くが、ウォルカのそれは『威圧』と表現するには綺麗すぎた。


(あ――こ、これ、あのときの――)


 理解した瞬間、ユリティアの心臓が高鳴った。


 〈摘命者グリムリーパー〉を滅ぼし、スタッフィオを討った、

 世界から隔絶され、すべてが真白に染めあげられていくような――


「~~……!!」


 ユリティアの全身をぞくぞくと高揚が駆け抜ける。

 薄く開かれたウォルカの左眼から、かすかながら雷光のごとき煌めきが走って見えるのは果たして幻なのか。


 ウォルカの精神が、剣と混じり合っていく。

 〈摘命者〉との死闘を経てこじ開けた領域に、さらに深く足を踏み入れていく。


 それは彼にしか辿り着けない、彼だけの剣の最奥。


 ウォルカはただ、瞑想しているだけ。瞑想しているだけで、こんな。

 世界でもっとも敬愛する剣士からこんな姿を見せつけられてしまったら、ユリティアはもう、魂の髄まで――。


 ……それから十秒か、一分か。

 ウォルカが座禅をやめた。真白に呑まれる感覚が夢だったように霧散して、ユリティアは足腰が立たなくなって尻餅をついてしまった。


「――ふあ、」

「うお」


 それでようやく、ウォルカはユリティアたちの存在に気づいたようだった。真白に呑まれる余韻から未だ脱しきれず呆然とするユリティアたちに、かすかながら困惑の色を浮かべている。ユリティアは一向に立ち上がれぬまま、


「ご、ごめんなさい。あの、ノックはしたんですけど……」

「悪い、気づかなかった。でも声をかけてくれれば」

「えっと……声もかけたんです……」

「……すまん」


 心臓がどきどきしていて上手く呼吸できず、ウォルカに不審な目で見られてしまった。


「ユリティア、大丈夫か? もしかして具合が……」

「い、いえいえ大丈夫ですっ!? ただその、あの……はう」


 しゃんとしなきゃいけないと頭ではわかっているのに、つい恍惚としたため息がこぼれる。全身が火照って脳がチカチカしている。ちょっとマズいかもしれない、このままではウォルカに変な女と思われてしまうかも――。


 というユリティアの心を察してくれたのかは不明だが、アトリがユリティアを隠すようにウォルカの傍まで身を乗り出して、


「ウォルカ……今、なにしてたの?」

「なにって、座禅だが」

「でも……うんと……すごく集中してた」

「……座禅だからな」

「なんだか、違う世界を見てるみたいだった」

「……?」


 ウォルカはいまいち状況を理解していない様子だ。彼はただ無心に瞑想していただけで、それがユリティアたちになにを見せていたのかはまるでわからないらしい。首をひねりながら、


「なんというか……剣に、もっと深く入れるような気がしてな」

「剣に、入る……」

「それで、『斬る』っていうのがいったいなんなのかを考えて……」


 突然哲学じみた問答が出てきてユリティアは面食らう。『斬る』ということが、いったいなんなのか――どういう意味なのかまるで見当もつかない問いに、ウォルカ自身も形のない水を掴もうとするように、


「『斬る』というのはただ剣を振ることじゃなくて、なんじゃないかと――」


 ウォルカがなにを言おうとしているのか、ユリティアたちにはよくわからない。


「思い描いた未来を、現実に変える……?」

「せ、先輩……? それってどういう――」

「なんでもない。すまん、ただの妄想だ……」


 しかしそれっきり、ウォルカはきっぱりと話をやめてしまった。もしかするとユリティアたちがまったく理解できていないのを見て、これ以上は話しても意味がないと諦めてしまったのかもしれない。


「ウォルカ、おぬしいったい――」

「なんでもないんだ、忘れてくれ」


 リゼルを抱きあげて、ベッドから下ろす。そのウォルカの眼差しは、あくまで穏やかだった。


「ほら、朝の鍛錬をするんだろ? 着替えるから外で待っててくれ」

「……わかりました。待ってますね」


 その頃には、ユリティアもなんとか立ち上がれるくらいまで回復していた。納得が行っていない様子のリゼルとアトリ、二人の手を引いてひとまず部屋を出て、すぐ横の壁にもたれかかって吐息する。


 あの真白の感覚がまだ完全には抜け切らず、体にぞくぞくとした余韻が残っている。


「先輩……先輩はいったい、どこまでっ……」


 胸の高鳴りが、治まらなかった。

 ウォルカが〈摘命者グリムリーパー〉を斬ったとき。スタッフィオを討ったとき。そして、今。ユリティアが肌で感じたのはこれで三度目。三度目だからこそ、よくわかる。


 命すら捨てる覚悟で死の運命を超克した者だけがこじ開けられる、剣という道の極限にして最奥。


 ウォルカはその領域に、ただ片足を踏み入れただけではない。

 歩み始めているのだ。隻眼隻脚の体でも前だけを見据えて、途方もない最奥のさらに果てを目指して。ただ、剣に注ぐひたむきな想いひとつだけを胸にして。


「思い描いた未来を現実に変えるって、そんなのボクの故郷でも……」

「け、剣を振るときの考え方というか、心構えの話じゃよな? だってそんなの、本当にできたら、もう魔法どころの話じゃ……」


 常識的に考えれば、そうに決まっている。できるわけがない。できてしまったら、それはリゼルの言うとおり、剣術や魔法を超えた一種の現実改変になってしまう。


 けれど。

 スタッフィオを討ったあの一閃。空間という絶対的な理を無視し、ルエリィの髪一本すら傷つけることなく、スタッフィオだけを正確無比に斬り払ってみせた銀の雷光。


 たとえば、〈七花法典セブンズ〉第三席――この国最強の聖騎士と謳われる男の剣技は、もはや常人には理解の及ばない領域に到達しているとも噂される。


 だから、ユリティアが知らないだけで。

 剣の最奥へ至った者たちには、彼らにしか理解できない世界があるのだとすれば。


(……………………せんぱい)


 光が強くなれば闇もまた濃くなる、とはよく言ったものだ。ウォルカの剣が輝きを増せば増すほど、ユリティアの後悔と罪悪感も大きくなる。


 もしも、ウォルカの体が無事だったなら。

 ユリティアがただ守られるだけでなく、ともに戦うことができていたならば。

 せめて片足だけでも、失わせずに済んでいたならば。


 ウォルカという剣士の名はやがて国中に知れ渡り、まったく新たな剣の地平を切り拓いた『剣聖』として、歴史に不朽の名を刻んだだろう。


 誰にも言えない過去を歩んできたであろう剣士は、そうして報われるはずだったのだ。


 その輝かしい未来を粉々に破壊し、先が見えない奈落の道に変えてしまったのは、他でもないユリティア。

 決して許されることではない。たとえウォルカがどれほど優しい言葉をかけてくれたとしても、許されるなどあっていいはずがない。


 ウォルカは、己の命すら捨てる覚悟でユリティアたちを守ってくれた。

 そうして、幸せになってほしいと願ってくれた。


 だから、ユリティアが願うのは。



(わたし、もっと、先輩を……先輩だけを。

 ――――)



 ただウォルカのために、己のすべてをもって報いること。


 それだけが、ユリティアにとっての贖罪しあわせなのだ。


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