32.〈ル・ブーケ〉

 大聖堂から運河の水音を聞きながら歩いてしばし、聖廷街せいていがいやや北西の小高い丘の上に〈ル・ブーケ〉という宿屋がある。


 聖都は北側が海に面した大規模な商港となっており、日々出入りする船を通して、商人やら旅人やら観光客やらがひっきりなしに訪れる。そのため港からもっとも近い聖廷街せいていがいには宿泊施設も多く、中には前世のビジネスホテルよろしく立派な店構えで、百人以上の客をいとも簡単に受け入れてしまうような高級宿も存在している。


 そんな聖廷街せいていがいの中でいえば、宿泊定員わずか二十名の〈ル・ブーケ〉は吹けば飛ぶような宿屋なのかもしれない。


 しかしながらオープンしてまだ数年のため設備がみな新しく、その佇まいは小綺麗なレストランみたいにシックで洒落ている。小高い丘の上にあるため風が心地よくて、港を水平線まで見晴るかす眺望は絶景の一言に尽きる。人の密集地からやや離れており喧噪も少なく、なによりオーナー自ら腕を振るう食事がべらぼうに美味しい。


 俺たちパーティが聖都にやってきて以来世話になっているのは、そんな隠れた名宿屋なのだった。


「――あらまぁみんな、おかえりなさーい! もう、一ヶ月も帰ってこないなんてほんとに心配したのよ!?」

「ぎゃー!!」


 で、だ。

 幸いロビーに客の姿も見えなかったので、みんなそろって正面からただいまをしたわけなのだが――。


「はなせ!! はーなーすーのーじゃーっ!!」

「あらリゼルちゃん、あなたちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食事摂ってた? ダメよ、しっかり食べなきゃ大きくなれないんだから」

「じゃかあしいわ!!」


 その結果が師匠を高い高いしてくるくる回るオーナーと、キレて彼にゲシゲシ蹴りを入れる師匠なのであった。


「いたっ、あいたたた。こらリゼルちゃん、女の子がそんなはしたないことしちゃダメよ!」

「はーなーせーっ!!」

「……」


 元気だなあ。



 宿屋〈ル・ブーケ〉のオーナー兼シェフ、ロゼこと『ローゼクス』について。



 まず誤解がないように言っておかなければいけないのは、この人がれっきとした男だということであろう。


 言葉遣いは女性そのものだし軽く化粧も引いているものの、決して女装しているわけではなく、どこぞの高級クラブのバーテンダーみたいに垢抜けたルックスのイケメンだ。さりげないメンズメイクに短く清涼感のある琥珀色アンバーの髪、そして意匠を凝らしたシャツとベストで飾った姿は男の俺から見ても素直にカッコいい。見た目がイケメンなら、その個性的な女言葉すら様になって聞こえてくるのだから不思議なものである。


 歳は今年で三十二になるらしいが、見ればわかるとおりまだまだエネルギッシュな伊達男で、誰にでも明るく親しみやすい性格は宿泊客からも大層評判がいい。ユリティアが彼には苦手意識を一切持っていないといえば、その人柄がどれほどかよくわかってもらえるだろうか。


 ロッシュはとにかくやかましいのが玉に瑕だったが、ロゼについては器量よし体型よし性格よしの三拍子がそろい、宿の経営ができるほど頭脳明晰で料理の腕はプロ並みで、さらには面倒な酔っぱらいを片手で倒せるくらい荒事も得意と、俺の中ではマジモンの完璧超人疑惑が浮上している。いや本当に、この人の欠点っていったいなんなんだろう……。


「こんにゃろー!!」

「いたいいたい! もう、そんなんじゃいつまで経っても一人前のレディになれないわよ?」

「じゃかあしい言うとるじゃろが!!」


 脇腹にゲシィとつま先を食らい、さすがに降参したロゼは師匠を下ろした。それからユリティア、次いでアトリを見て、


「ほんとに心配したんだから。シャノンちゃんから聞いたわよ、ウォルカちゃんが怪我したって――」


 そして最後に俺を見たロゼの表情が――凍った。


「ウォルカちゃん、あなたっ……」


 視野が広くなんにでもすぐ気づくロゼが、俺の眼帯と義足を見逃すはずがなかった。


 ロゼが言葉を失い、それを見た師匠たちからも一瞬で笑顔が消え、洒落ていた店の空気がお通夜会場のような沈黙で静まり返っていく。おいコラいきなり負の連鎖反応をするんじゃない、重苦しくて俺の胃がねじれるだろうが……!


 うーん……覚悟はしていたけど、やっぱりこういう反応になるよなぁ。俺だって、知り合いがいきなり片目片足をなくして帰ってきたら絶句するに決まってる。だから重い空気になってしまうのも仕方がないと、わかってはいるのだが……。


 改めて、「君はこの程度で終わる男じゃないだろうはっはっは!」と笑い飛ばしてくれたロッシュって本当にありがたかったな。みんなも重く考えなくていいんだぞ。大丈夫だって、俺はぜんぜん気にしないから。俺にとっては、あいつみたいに軽い反応をされるくらいがちょうどいいんだ。


 なので俺は、右目の眼帯を指でトンと叩き、


「男の勲章ってやつだ。結構箔がついただろ?」

「――」


 ……盛大にスベった。


 いやあの、ごめん、今のは少しでも空気を軽くしようと思ってだな……待った待った全員そんなシリアスな顔しないでくれ! 冗談、半分くらいは冗談だから! 「なにアホなこと言ってるんだ」って鼻で笑ってくれ! 頼むから笑い飛ばしてくれっ!


 泣きそうになるな師匠! ユリティアも! ごめんて!!



 /


 ともかくフロントの対応を従業員に任せ、俺たちは裏のスタッフルームでロゼに今日まであったことを説明する。往復一週間ほどの予定だった旅がどうしてひと月近くまで長引いてしまったのか、地のどん底にいるような空気の中で説明するのは本当に胃がねじれた。


 俺の体をはじめて見たロゼは仕方ないとして、〈摘命者グリムリーパー〉の話を出すと未だに師匠たちが病み堕ちを始めるので俺もしんどいのだ。師匠はリーダーの自分がぜんぶ悪いと思っているし、ユリティアは転移トラップを作動させてしまった自分がぜんぶ悪いと思っているし、アトリは俺に庇われてしまった自分がぜんぶ悪いと思っているし……全員自分のせいだと思ってるじゃねえか!


「だったら、片目片足なくすヘマした俺も悪いさ」

「っ、そんなことない!! ウォルカはなにも悪くないじゃろう!?」

「俺だって、師匠たちはなにも悪くないと思ってるよ。……だからもう、誰のせいかなんて話はいいだろう?」


 俺がそう言うと、師匠たちは全員なにかを強くこらえるような表情になって、


「どうしてウォルカは、そうやってわしらのことばっかりっ……」

「先輩は、もっと自分のことを考えてくださいっ……!」

「……ウォルカは、優しすぎ」


 いやなんでだ。俺はただ、俺は師匠たちが悪いなんて思ってない、師匠たちも俺が悪いなんて思ってない、だからいつまでも自分を責めるのはやめようって話をしてるだけだぞ。あれからひと月近くが経って、ようやく聖都にも帰ってきたんだ。少しずつ前を向いていこうぜ、前を。

 師匠たちの未来のためにも、俺の胃を守るためにも。


「そう……。……そうだったのね」


 ロゼは終始沈痛の面持ちを隠せないでいたが、それでも最後まで落ち着いて俺たちの話を聞いてくれた。


「本当に、大変だったのね。……シャノンちゃんがなにか隠してるのはわかってたけど、これは言えないわね。あの子も辛かったでしょうに……」

「シャノンは、なんて?」

「あなたが怪我をして、帰りが遅くなるとは聞いてたわ。でも、詳しく訊こうとしてもはぐらかされちゃって、教えてもらえなかった。必ず帰ってくるから大丈夫だって」


 シャノンとは、聖廷街せいていがいの冒険者ギルドで事務員をやっている少女の名だ。


 冒険者が特定の都市や街で長く活動を続けていると、ギルドの職員たちにもそれだけ顔と名前が知れ渡って、『このパーティのことならこの職員』という関係が自然とできあがっていく。それで俺たちのパーティを実質的に担当してくれていたのが、シャノンという少女だったわけである。


 シャノンの名前が出た途端、師匠が小さく肩を震わせて気まずげな顔をした。おずおずとロゼに尋ねる、


「の、のう、ロゼ。シャノンは、その……元気にしておるか?」

「……いいえ、ずっと思い詰めてるみたい。あなたたちの状況を知っていたんだったら、当然よね」

「そ、そうか……」


 俺も遅まきながら、〈ルーテル〉の教会で目を覚ました頃に聞かされた話を思い出す。


「そういえば……俺がまだ寝てる間に、ギルドの調査であの街に来たんだっけ」

「う、うむ……」

「それで、師匠が追い返したって」

「うぐぅ……」


 師匠はしおしお縮こまって、両手の人差し指同士を合わせながら、


「あのときはその、まだウォルカが目を覚ましてなくて、わしもなんというか、普通じゃなかったからっ……」


 それで事実調査のために訪ねてきたシャノンを、だいぶキツい言葉で追い返してしまったと。


 すべての原因である俺が言えた義理でもないが、向こうも仕事のためやむを得なかっただけに気の毒な話である。

 大丈夫かな、シャノン。変にダメージ受けてないといいんだけど。


「明日にでも、顔を見せてあげた方がいいわよ。……『あたしのせいだ』って、本当に辛そうだったから」


 ……は? な、なんでシャノンが自分のせいだなんて思ってるんだ。彼女は今回の事故にまったく無関係だろ?


「自分のせいって、どういう……」

「ごめんなさい、そこまでは。迂闊に踏み込まれると、余計辛いかと思って」


 もしかして、ダンジョンの踏破承認事故はギルドの責任=自分のせいってことか? いくらなんでも飛躍がすぎるだろ。彼女はギルドの中ではまだまだ若手の事務員で、別になんらかの責任ある立場にいるわけでもない。いったいどうしてそんな認識になったんだ。


「まさか、師匠……」


 精神的に危うい状態だった師匠が、なにかシャノンを責めるようなことを言ってしまったとか――


「さ、さすがにそこまでひどいことは言っておらんぞ!?」


 師匠がぶんぶん首を振り、少し自信なさげにユリティアを見て、


「……い、言っておらんかったよな?」

「え、えっと……少なくとも、シャノンさんのせいにするようなことは……」


 ユリティアがそう言うなら大丈夫なのだろうが、ならばどうしてシャノンは今回の事故を自分のせいだと……?


「……わかった。ギルドには、明日行ってみる」

「ええ、そうしてあげて」


 おいおい、なんでそんなことになってるんだ。師匠たちだけでも先が見えない有様なのに、もしシャノンまでおかしくなっていたらもう手に負えないぞ。

 頼むからみんな、ロッシュみたいに笑い飛ばしてくれ……。くそう、まさかあいつのやかましさを恋しく思う日が来るなんて。


「あの、」


 ユリティアが不安げに問う、


「わたしたちのこと、ひょっとして噂になってますか……?」

「いいえ。ダンジョンの踏破承認事故があったのはギルド中の話題になったけど、あなたたちのことは今でも伏せられてるみたいね」


 ユリティアがほっと胸を撫で下ろす。……これについても俺がまだ寝ていた間の話らしいが、たしか師匠たちが今回の件で、〈銀灰の旅路シルバリーグレイ〉の名前を出さないようかなり強くギルドに訴えたんだったか。


 気持ちはわかる。仲間が死にかけていつ目を覚ますかもわからない状況で、事故に巻き込まれたのはあのパーティらしい、運がないねえ、ご愁傷様だねえなどと街中で噂されたらたまったもんじゃなかっただろう。


「でも勘のいい人は、事故が起きたのとあなたたちを見かけなくなったのがちょうど同じ頃だって、気づいてるかもしれないわね」

「……そう、ですか」


 人の口に戸は立てられぬという。シャノンたちギルド側がどれほど上手く情報をフィルターしたとしても、俺の隻眼隻脚姿は自然に今回の事故と結びつけられ、生まれた憶測はやがて噂というレールに乗って走り出すだろう。


 事故に巻き込まれてしまった俺たちの不運を憐れみ、生きて帰ってきたことを喜んでくれるならまだいい方で。

 中には、まあ、好き勝手言い散らかすやつも出てくるんだろうな。俺たちみたいな若い高ランクパーティの存在を、日頃からやっかむ先輩方というのは存外多いのだ。


 ……当面は聖都でゆっくり社会復帰するつもりだったけど、思ってたより居心地が悪くなるのかもしれないな。


 それでもし師匠たちがあまりに辛そうだったら、いっそみんなで雲隠れでもするか。人の口に戸は立てられぬ、されど人の噂も七十五日までともいう。新しい義足ができ次第〈摘命者グリムリーパー〉の戦利品ドロップを売り払って、よその国で思う存分遊ぶのもいいんじゃないかな。


 そのときふとロゼが、沈んでいた面持ちを幾分か優しいものに変えた。


「でも……こんなこと言っていいのかわからないけど、ウォルカちゃんはすごいわ」


 優しくも、どこか俺をまぶしく羨望するような瞳だった。


「〈摘命者グリムリーパー〉がどれほど恐ろしい魔物かなんて、アタシでも知ってる。それでもウォルカちゃんは仲間を守り抜いて、生き延びて……こうして帰ってきた」

「まあ……あのときは、俺もとにかく無我夢中で」

「人のために無我夢中になるって、誰にでもできることじゃないでしょ。ほとんどの人にとって、結局一番かわいいのは我が身なんだもの。……だから、ウォルカちゃんは偉いわ」


 元々ロゼは、人のいいところになんでも気づいて褒めてくれるタイプではある。

 しかしこの言葉はあまりにも――実感が込められすぎているというか、


「――本当におかえりなさい。今日は、ゆっくりおやすみなさいね」


 ……そういえばロゼって、ここで宿屋を始める前はどこでなにをやっていたんだろうな。


 訊けば大抵のことは笑顔で答えてくれるロゼだが、唯一自分の過去だけは俺たちの誰にも話してくれたためしがない。

 ただ間違いないのは、宿屋を経営できるほどの見識と頭脳も、酔っぱらいを片手でひねれるほどの度胸も腕っぷしも、平々凡々な人生を送るだけで身につくものではないということ。


 もしかすると、ロゼは――。


「……よし、しんみりした話はこれで終わり! みんな、もうお夕飯は食べたかしら? まだならアタシが腕によりをかけて作ってあげるわよ~、食べたいものがあったらなんでも言ってちょうだい!」

「はい」


 しかし、いつもの笑顔に切り替えたロゼが追求を許さなかった。おなかを空かせたアトリがまっさきに手を挙げて、


「お肉いっぱい食べたい」

「オッケー! でもお野菜もいっぱい食べなきゃダメよ、バランスが美容の秘訣なんだから!」

「ぶう……」

「ロゼさん、わたしも手伝いますっ」

「ふふ、ユリティアちゃんは優しいわね。でもダーメっ、今日はアタシに任せてちょうだい。こういうとき大人に花を持たせるのもレディの嗜みよ?」

「そ、そうなんですか……?」


 ロゼの陽気な人柄に押されて、沈んでいた部屋の空気もあっという間に入れ替わっていく。


 俺たちのパーティにいま一番必要なのは、こういうムードメーカーな存在なのかもしれない。彼のような頼れる大人が近くにいてくれるのは、まだまだ未熟者な俺たちにとって本当にありがたいことだと思う。


 ……まあ師匠はぶっちぎりで長生きしてる最年長だし、俺も前世の分を含めればロゼより年上のはずなんだけどな!


 ロッシュ然りロゼ然り、やはり天とは、イケメンに二物も三物も与えてしまうのである。



 /


 さて太陽と月が入れ替わってしばらく、美味しい食事で腹を満たしてシャワーで汗を流したならば、あとは自室に戻って寝るのみとなる。


 テレビもゲームもネットもなく、それどころか部屋を隅々まで照らす灯りすら希少なこの世界では、わざわざ夜更かしする理由もないので暗くなったら寝るのが常識だ。寝間着に着替え就寝前のストレッチなどしていると、俺の部屋をかわいらしくノックする音。


「どうぞ」

「うむ!」


 促すと、入ってきたのはふわふわフリルな寝間着に身を包んだ師匠であった。


 寝間着姿の師匠は髪の先につけているリボンをすべて外しており、なにも結われていないありのままの銀色は月明かりを吸って輝くヴェールのようで、まさしく人ならざる領域から迷い込んできた妖精みたいに見える。さらにはお腹の前でお気に入りの枕をだっこしていて、いかにも「今夜も一緒に寝るよ」といわんばかりの装いで――ん?


 え、ここでも一緒に寝るの?


 そうしてさも当たり前のように俺の部屋へやってきた師匠は、さも当たり前のように俺のベッドへ侵入し、さも当たり前のように持ってきた枕をぽふぽふセッティングし始める。いやいやいや。


「師匠、もしかして……」

「?」


 一緒に寝るのをかけらも疑っていない師匠のつぶらな瞳が返ってくる。う――――ん?


「……あー、師匠。聖都に帰ってきたんだから、もう一緒に寝なくたって」

「だめ」


 は、


「もーなに言ってるの、だめだよ」

「……し、師匠?」

「だめだよ? 絶対だめ」


 師匠?

 い、今が夜だからそう見えるのかな? 師匠のあどけない笑顔がなんだかすごく綺麗で、綺麗すぎて背筋がぞっとしてしまうというか。まるで、感覚がするのは――


 果たしてそれは、淡い月明かりの下で見た幻だったのだろうか。

 次の瞬間には、もう師匠はいつも通りの師匠に戻っていた。心配半分不平半分のジト目で俺を睨んで、


「……ウォルカ、遺跡で勝手なことした」

「ぐっ」

「野営のとき勝手にいなくなった」

「ぐはっ」

「さっきも……男の勲章だなんて、また一人で平気なふりしてっ……」


 あ、そのスベった話掘り返される感じ? できればなかったことにしてほしいかなって……。


「とにかく、絶対だめじゃ。……絶対、離さないから」

「ぐぬ……」


 ズルいぞ師匠、遺跡と野営のときの話を出されたらぐうの音しか出ないだろ……! いや、勝手なことやって怪我したり、勝手にいなくなったりした俺が悪いんだけど。悪いんだけども……!

 途方もなく真摯で、また少しだけ心細げな眼差しだった。


「……ウォルカ」

「……」


 どうやら退路は用意されていないらしい。こればかりは、寝ても覚めても師匠に心配をかけてばかりな自分を反省するしかない。

 俺は両手をあげて降参の意を示し、


「……わかった。ただし、朝は早いからな。あと五時間とか駄々こねてもダメだぞ」

「うむっ」


 とはいえ俺が目を覚まして間もなかった頃は、断ろうとすると「やだやだお願い見捨てないでぇ……!!」と泣き出してしまう有様だったのだ。それと比べれば泣きついてこなくなった分だけ、師匠のメンタルも少しずつ回復してきているのだろう。


 そうだよな?

 もっといい義足を作って社会復帰すれば、師匠も安心して自分の部屋で寝るようになるよな?


 そうだと、思いたいのだが。

 師匠に「だめ」と言われたとき一瞬だけ感じた、どこにも逃げられない悪寒というか、手足を優しく縛られるような感覚は――


「じゃあおやすみっ、ウォルカ」

「……あ、ああ」


 しかし俺は長旅の疲れと数日ぶりにベッドで眠れる安心感もあって、横になるなりあっさりと寝落ちてしまった。寝つきのよさには自信があります。


 そうして、夢の中を漂っている間に。



「――ふふっ……………………うぉるかぁ…………」



 が聞こえた気がしたけれど。

 翌朝目が覚める頃には、俺はそんなこと綺麗さっぱり覚えていないのであった。



 /


 ウォルカたちの部屋から魔石ランプの明かりが消える頃、最終チェックインの時刻を終えフロントを閉めようとする〈ル・ブーケ〉に、夜の静謐を傷つけない品格ある足取りで訪れる影があった。優しく鳴ったドアベルの音にフロントのロゼは顔を上げ、


「あらあら、こんな時間に珍しいじゃない。ロッシュちゃん」


 人影は、ロッシュであった。

 一礼した彼は流れるように周囲へ目を遣り、自分とロゼ以外に誰の気配もないのを確認してから、


「お変わりないようですね。――


 あらやだ、とロゼは右手でロッシュをはたく仕草をした。


「ちょっともう、何年前の話をしてるの? 今は『ロゼ』って呼んでって何度も言ってるじゃない」

「ご容赦を。僕にとって、貴方は今でも隊長ですから」

「おだてたって騎士隊には戻らないわよ」


 滅相もない、とロッシュは苦笑。帳簿を畳んだロゼはフロントから出て、かつての部下にゆっくり歩みを寄せる。


「お友達の様子を見に来たのかしら。ウォルカちゃんたちならもう寝たわよ、安心して」

「それもありますが……ウォルカの体を見た貴方が腰を抜かして歩けなくなってはいないかと、ふと心配になったもので」

「あら、言ってくれるじゃない。アタシ、これでも度胸は据わってる方よ?」


 軽口を言い合うようにそう返して、しかしロゼはわずかに表情を曇らせた。


「……でも、腰を抜かしそうになったのは否定できないわね。まさかウォルカちゃんが、あんな……」

「……」

「ねえ、ロッシュちゃん。ウォルカちゃんね……自分の怪我のこと、男の勲章だって言ってたわ」


 ロッシュの片眉がぴくりと動く。正気かあのバカ、と顔にはっきり書いてある。


「それは……冗談ではなく?」


 ええ、と答えながらロゼは壁に背を預け、


「アタシの勘だと、半分はアタシたちに心配かけまいとしたあの子なりの冗談。でももう半分は、間違いなく本気で言ってたでしょうね」

「……まったく、あのバカは」


 ロッシュには珍しい、心底呆れ果てたときにこぼれる呻き声めいた嘆息だった。ロゼは苦笑、


「でも、ウォルカちゃんは本当に偉いじゃない。あんな体になってでも仲間を守って、守り抜いて」


 天井を見上げる。細く、遠く、まるで彼方の月を見つめるように、


「――ほんと、アタシなんかとは大違い」

「……隊長、あれは貴方の過失だったわけでは」

「わかってるわよ。……でも、そう簡単に折り合いがつけられるものじゃない。何年経とうともね」

「……」


 かつて騎士であった男は今からおよそ六年前に〈聖導騎士隊クリスナイツ〉を辞し、隊長の地位で得た金を惜しみなく費やしてこの小さな宿屋を始めた。


 周辺には港の利用者をターゲットにした立派な宿も多く、一個人が同じ商いで勝負するなど誰がどう考えても無謀だったはずなのに、それでも。


 この、小高い丘の上に。


「……あなたは、なくしちゃダメよ」

「……ええ。無論ですとも」


 ――宿屋〈花束ル・ブーケ〉。

 それはいったい、誰に向けた花束なのだろうか。


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