09.〈重戦士〉アトリⅢ

 ――この人のために死のう。


 本気で、そう思ったのだ。



 /


「――左足は切断。右目も、二度と光を映すことはないでしょう」


 そのときアトリの脳裏で甦ったのは、〈摘命者グリムリーパー〉との戦いで目の前に広がったあの惨劇だった。


 血まみれで倒れ伏したウォルカ、

 泣き叫ぶリゼル、

 打ち飛ばされ苦悶するユリティア、


 そして、その場にへたり込んで茫然とする自分。



 アトリが生まれた南方の部族――通称〈アルスヴァレムの民〉は、その歴史を戦いに捧げてきた戦闘集団である。


 すべての同胞が戦いを信仰し、己が武を誇りとする。そこでは男も女も関係なく、生まれたその瞬間から優れた戦士となるべく教育が施される。物心つく頃にはスプーンよりペンより先にナイフの持ち方を教わっていて、比較的弱い獣を相手に狩りをしている――アトリも、そうやって育てられた戦士の一人だった。


 自分で言うのもなんだが、アトリは強かった。同年代ではただの一人も並ぶ者がなく、ときには大人相手にだって土をつけ、本来成人の儀で戦うはずの烈鬼オーガを十二歳で倒した。族長の『おばば』もアトリを殊更目にかけ、己のあらゆる経験と技を厳しくも情深く教え込もうとしていた。


 曰く〈アルスヴァレムの民〉にとって、戦場とは神と交わる場所。


 歴史と誇りを背負い縦横無尽に地を駆け、舞う血潮の中で天と通じ、命を燃やして鬼神と成る。共に戦う仲間はすなわち命で通じた同胞であり、仲間の傷は己の、ひいては部族の傷と同義。己の身ひとつですべての敵を打ち砕き、あらゆる障害から仲間を守り抜き、万象一切を斬り開いて、圧倒的な武力をもって君臨するのが我らなのだと。


 そんなおばばの教えの中でも、強く記憶に残っている言葉がある。


「――いいかいアトリや。『この人のために死のう』。本気でそう思える相手と出会いな」


 おばばがこれ見よがしに煙管キセルを吹かしながら語るのは、いつも子どもには難しい話ばかりだった。


「仕える主人でも、共に戦う仲間でも、愛する男でも構わない。髪の一本、骨の一片、血の一滴、そして魂の一切まで、自分のすべてを捧げられる――そんな誰かのために命を散らすのが、あたしらにとって最高の『誉れ』さ」

「……おばばも、死んだ?」

「あんたは目の前のあたしをなんだと思ってんだい……。ま、一言で『命を散らす』ってもいろいろさ。あたしの場合は、託されちまったからね。だから生き恥を晒して、ここでのうのうと族長なんてもんをやってる。……あんたみたいな子を育てられるんだったら、死にぞこなったのにも意味はあったのかもしれないねぇ」

「?」


 当時のアトリは、たぶん八歳か九歳くらいだった。どう考えてもそんな子どもに語って聞かせるような話ではなかったが、どうあれ意味はわからずとも言葉だけはアトリの記憶に刻まれた。


 ――この人のために死のう。髪の一本、骨の一片、血の一滴、そして魂の一切まで。


 いつか、その意味を理解できる日が来るのだろうか。




 /


 自分がどう動いたかは覚えていない。

 気がつけばアトリは衝動のまま〈聖導教会クリスクレス〉を飛び出し、どこかもわからない路地の陰でくずおれようとしていた。


「う、ぐ…………」


 口元を押さえ、壁に手をつく。視界がグラグラする。自分が立っているのかうずくまっているのかもよくわからない。


 ――左足は切断。右目も、二度と光を映すことはないでしょう。


 気分が悪い。

 吐きそうだ。


「う、ぁ、あああぁぁ…………っ!」


 なにもできなかった。

 倒すべき敵を倒せず、守るべき仲間を守れず、本当になにひとつ為すことができなかったのだと、その瞬間になってアトリは完膚なきまでに思い知ってしまったのだ。


 〈摘命者グリムリーパー〉――アルスヴァレムの血をもってしても太刀打ちできない、戦士の命を摘み取る絶望の怪物。話には聞いていた。かつて幾人かのご先祖様がこの魔物と遭遇し、そして誰一人として生きて帰ってはこなかったのだと。

 だから、自分がみんなを守らなければと思っていた。死など怖くなかったし、自分ならできるという自負もあった。なぜならそれが、〈アルスヴァレムの民〉なのだから。



 なのに。


 また、あの光景が甦る。

 アトリを庇い、鮮血に沈んだウォルカの姿が。



 油断だったのだろうか。驕りだったのだろうか。アトリの全身全霊を込めた一撃でも〈摘命者〉の不死を貫くことはできず、逆にノーモーションのカウンター魔法で大振りの隙を衝かれた。

 いっそ理不尽なまでの黒い魔力の濁流に、あっという間に全身を喰い千切られる――はずだった。


 時間は平等だ。時が引き延ばされてあらゆるものが遅れて見える――そんな刹那が訪れるはずもなく、ただ事実だけを冷酷に突きつけていく。

 体を引き裂かれるにはほど遠い、ごく小さな衝撃。

 真横。


 ――ウォルカ?


 アトリに負けず劣らず無表情な彼の、歯を食いしばるような決死の形相が、視界の端にほんの一瞬だけ見えた気がした。



 そうしてアトリの目の前で、ウォルカは喰い千切られたのだ。



「っ、う、うううぅぅ…………っ!!」


 目に、耳に、記憶にこびりついている。肉を裂かれ骨が砕かれる音と、嘘みたいに噴き出す真っ赤な血飛沫。本当に、指先だって届くくらいの目の前だった。


 アトリのせい。

 アトリのせいで。


 あってはならないことだった。武と戦を誇りとする〈アルスヴァレムの民〉にとって、仲間に庇われ瀕死の傷を負わせるなど、己の弱さが原因で誰かが傷つくなど断じてあってはならないことだった。それは恥や不名誉どころの話ではない、アルスヴァレムの神がもっとも忌み嫌う『罪』ですらあるのだとおばばから教わっていた。

 あってはならない、はずだったのに。


 ――だからあんたは、あたしみたいになっちゃいけないよ。一生後悔することになるからね。


 吐き気が、治まらない。


「っ……! ぅ、くううぅっ……!!」


 手をかけた壁を、ひと思いに砕き壊してしまいたい衝動。仲間を守れなかった後悔、なにもできなかった悔しさ、『罪』を犯した屈辱――だけど、ああ、それだけではない。アトリの胸を蝕む感情は、決してそれだけではないのだ。

 嗚咽に身を震わせ、壁を爪で抉り、地に涙を落とし、重苦しくとぐろを巻く深い悔恨の奥底で、まったくの対極ともいえる別の感情がアトリを狂わせようとしている。




 それは命懸けで仲間を守り抜いたウォルカに対する、どうしようもない尊崇の情。




 ウォルカがただ一人〈摘命者〉に立ち向かったあのとき、アトリは動けたはずだった。だって、ウォルカが庇ってくれたのだから。命すら危うい大怪我を負った彼よりも、無傷のアトリが戦わなければいけなかったはずなのだ。


 だが、アトリは動けなかった。

 いや、動こうとも思っていなかった。


 なぜ。

 目が離せなかったからだ。



 己のすべてをなげうって戦うウォルカの背中に、アトリはただただ心を奪われてしまっていたのだ。



 〈アルスヴァレムの民〉であるアトリにはわかる――あのときのウォルカは、完全に命を捨てていた。勝つためでも生き残るためでもなく、ただ命を賭して仲間を守るためだけに戦っていた。

 ――あれこそ紛れもなく、アルスヴァレムが尊崇する誇り高き戦士の姿だった。


 『見つけた・・・・』。アトリの体を流れる血がそう告げている。遂に見つけたのだと。おばばからあの言葉を教わって以来、アトリが胸の片隅で漠然と思い描いていた戦士の理想像。アトリがすべてを捧げたいと願うのは、きっと、きっとあんな――


 違う。いったいなにを考えている。


 ウォルカは、アトリを庇ったのだ。アトリのせいで死にかけ、右目と左足を失うことになったのだ。アトリは仲間を守れなかった。〈アルスヴァレムの民〉として決して許されない罪を犯した。なのにある種『歓喜』ともいえる感情を覚えようとしているなんて、そんなの絶対におかしいじゃないか。


 でも、消えない。

 抗えない。

 焦がれてしまう。刻み込もうとしてしまう。尊崇すべき戦士の名、覚悟、傷、血潮、命、そのすべて。

 アトリの意思を超越したもっと別のなにかに駆り立てられて、まるで、魂の髄まで真白に染まっていくような。


「ウォルカ……! ウォルカぁ……っ!!」


 仲間を守れなかった罪の意識と、守れなかった仲間に心奪われてしまった尊崇の情。壊れてしまいそうになるほどの、狂おしいまでのその感情おもいが、アトリという少女を呑み込んでいく。


 いったいどれほどの間、その場で涙を落とし続けていたのだろう。



「――てください……!」



 その声が聞こえたのは偶然だった。荒れ狂っていたアトリの心が次第に落ち着きを取り戻し、深い呼吸とともに少し意識を浮上させたタイミングだった。


「ほ、本当に大したことじゃないんです! 一人で捜せますから、ついてこないでください……!」

「いやいや、みんなで捜した方が効率いいっしょ? 気にしないでよ、ちょうど暇だったからさ」

「そーそー。だいじょぶだいじょぶ、俺ら結構優しいから」

「本当に、必要ありませんからっ……!」


「……」


 つきまとわれる少女の困り果てた声と、つきまとう男のちゃらちゃらとした無神経な声。

 吐き気と涙が急速に引いていき、あれだけ手のつけようのなかった心があっという間に凍てつくのを感じた。アトリは表情を消して立ち上がり、声がする方へ足音も立てずに向かっていく。

 路地から少し逸れた人目の薄い場所に、予想通りの光景が広がっていた。


「うーん、こっちにはいないんじゃね? ちょっとあっち行ってみようよ。俺の仲間がいるからさ、合流してみんなで捜そ?」

「結構だって、言ってるじゃないですか……! つ、つきまとわないでくださいっ」

「ひどいなー、こんな心配してるのに。俺たちほんとに優しいんだよ?」


「――なにしてるの」


 男が驚いて振り返り、少女――ユリティアがぱっと救われた表情を見せた。


 今に始まった話ではない。ユリティアは、同じ女のアトリから見ても可憐でかわいらしい子だ。将来はとんでもなくきれいな大人になると思う。そのせいで前々から、街を一人で歩かせると変な男に絡まれてしまうことがあるのだ。

 しかも押しに弱くて内気な性格だから、男の方もどんどん調子に乗って近づこうとしてくる。こういう目障りな虫を追い払うのは、パーティが今の形になって以来アトリやウォルカの役目だった。


 今回の男は二人組、どちらもウォルカより少し年上で、見目はよいがもう明らかに手癖が悪く軽薄そうなやつらだった。腰に〈剣と杖の紋章ソード&ワンド〉のタリスマンをつけている。信じられないことに冒険者らしい。


 ユリティアがそそくさとアトリの後ろに隠れる。男の片方がほんの一瞬、興醒めだと言わんばかりの顔で舌打ちしたのをアトリは見逃さなかった。


「……あー、ひょっとして捜してた仲間? よかったね、見つかって」


 よかったとはかけらも思っていない口振りでそう言い、もう片方の男はアトリの姿を見てニヤリと口角をあげる。

 まとわりつくような、不愉快な目つきだった。


「へー、きみもかわいいじゃん。ってか結構ダイタンな恰好してるね。よその国の子?」


 つまらない男だ。

 アトリは前から視線を外した。


「行こ」

「ふわっ――」


 ユリティアの手を引き、通りの方向へ歩き出す。遠くにかろうじて教会の十字架が見える。随分と走ってきてしまったようだった。自分だって辛いはずなのに、これだけの距離を懸命に追いかけてきてくれたユリティアは本当に優しいと思う。

 当然、この程度で諦めるなら男どもも最初からユリティアにつきまとってはいない。さっき舌打ちしたやつが一層不機嫌な声になって、


「は? いやいや待ってよ、ここまで手伝ってあげたんだからちょっとくらい」



 そして、男の指先がアトリの肩に触れようとした瞬間。

 アトリは獣のように振り返り、男に軽く殺気を飛ばしてやった。



「――!?」

「ついてくるな」


 目を剥き後ずさった男に、静かに、はっきりと、最後通牒を告げる。


「――ボクはいま、機嫌が悪い」


 それで終わりだった。二の句も継げず固まる男に今度こそ背を向け、アトリはさっさと通りの雑踏に紛れ込む。

 男は追ってきていない。よかった、とアトリは一息をつく。これでもしつこく追いかけてくるようだったら――腕の一本でもへし折ってしまっていたかもしれないから。

 早く、教会に戻ろう。


「……大丈夫?」

「あ、はい……」


 ユリティアの小さな笑みには、しかし隠せない自責の色があった。


「ごめんなさい……わたし、こんなときまでご迷惑を……」

「剣、抜けばいいのに。ユリティアの方が百倍強いんだから」

「あはは……」


 ユリティアはかつて王都の実家で暮らしていた頃、その目覚ましい剣才ゆえ兄たちから非常に辛く当たられていたという。それに、ああいう男に言い寄られるのももう二度や三度ではない。そのせいでユリティアは、兄くらいの年上の男性を今でもひどく苦手としていた。

 大丈夫なのはウォルカや、聖都のごく一部の親しい知り合いだけだ。


「……その。アトリさんこそ、大丈夫……ですか?」

「……」


 アトリは戦闘以外からっきしで学も大したことはないけれど、ここで「なにが?」と訊き返すほどバカではない。


「――大丈夫」


 そう――もう大丈夫だ。

 声は震えていないし、吐き気も襲ってこない。あの途方もない感情に何度も何度も涙を落として、アトリはようやく理解していた。


「ごめんなさい。ボク、おかしいみたい」

「え……?」

「すごく後悔してるし、悔しいし、悲しい。でも、それと同じくらいに――」


 仲間を守れなかったのだから、悲しいのは当たり前だ。

 自分のせいであんな大怪我をさせてしまったのだから、悔いるのも当たり前だ。

 そして――魂すら焼かれるほどの誇り高き戦士を見つけたのだから、心を奪われてしまうのも……当たり前なのだ。


 言った。





 それが、嘘偽りのないアトリの心。この感情はなにも間違っていない。相反していても決して矛盾などしないと、気づいてしまった。


「あんな風に命を燃やして、すべてを賭して――綺麗だった。本当に、綺麗だったなぁ……」

「……、」

「おかしい……よね。なにもできなかったのに。……でも、これが、ボクの体に流れる『血』なんだ」


 後悔しているのに、悲しいのに――否。

 後悔しているからこそ、悲しいからこそ。切なくなるほどに、焦がれるのだ。



「――ボク、もう、ウォルカのことしか考えられないかも」



 今の自分の姿が、ユリティアにはどんな風に見えているのだろう。

 頭がおかしいように見えるだろうか。

 狂ったように見えるだろうか。


 ボクは今、うまく笑えてるかな――?




 /


「――ボク、もう、ウォルカのことしか考えられないかも」


 アトリからその言葉を聞いた瞬間、ユリティアは目の前に広がっていた闇が突如として斬り払われたのを感じた。

 胸を突かれる思いがした。淡い微笑みを浮かべて、どこか夢を見ているかのようにそう言った彼女を――ユリティアは、咄嗟におかしいと思えなかった。

 だって、ユリティアも同じだったのだから。


 なにもできなかったのに、自分が弱かったせいなのに、それでもあのときのウォルカの姿が、彼がすべてをなげうってこじ開けた剣の極致が、魂に刻まれてしまって忘れられない。


 後悔していても、悲しくても、自分が許せなくても、それでも。

 胸を焦がすこの想いを、どうやっても振り払うことができなかったのだ。


「行こ。戻らなきゃ」

「は、はい……」


 こんな気持ちを抱いてはいけないのだと思っていた。間違っているのだと言い聞かせようとしていた。だが今、アトリの心に触れてそれが揺らいだ。

 幼いユリティアにはまだ、この想いとどう向き合えばいいのかわからない。

 わかっているのは、ただひとつだけ。


 美しかった。

 死神すら討ち滅ぼしたウォルカの剣は、本当に、この世の技とは思えないほど美しかったのだ――。




 /


 その後病室で眠るウォルカの姿を前にして、アトリの感情は完全な形で昇華を迎える。

 あのときのおばばの言葉を、ようやく心の底から理解できた。


 ――この人のために死のう。

 髪の一本、骨の一片、血の一滴、そして魂の一切まで。











「――そうそう、アトリや。あんたはまだ十二だが、烈鬼オーガを倒した以上は立派な大人の仲間入りだ。だから、あたしらの大切な使命をひとつ教えとくよ」

「なに?」

「いつか、『この人こそは』と思える強い男に出会えたらね」

「うん」

「子種をもらいな」

「こだね」

「まあ子どもを作るってことさね。ウチの部族は、若いうちに誉れを頂く死んじまうやつらも多いだろう? だから子孫を残してアルスヴァレムの血をつなぐってのが、大事な使命のひとつなのさ」

「……子どもって、どうすれば作れるの?」

「そりゃああんた、とりあえず押し倒してひん剥いたらあとはこう、骨の髄まで――」


 なおあのおばば、大いに余計な知識までアトリに教え込んでいた模様。


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