05.〈剣士〉ユリティアⅡ

 心を奪われた。今まで教わってきた剣術はただの棒きれ遊びに過ぎなかったのだと、天からの啓示のごとく理解した。

 ユリティアがまだ世界の広さを知らず、王都で一人の子どもとして暮らしていた頃。


 ユリティアは、ウォルカの剣に一目惚れしたのだ。




 /


 ユリティアは、王都の騎士団に代々優秀な騎士を輩出してきたそれなりに格式高い家の生まれだ。


 騎士には到底不向きな大人しくてか弱い性格だったけれど、先祖由来の才能はその血にしっかりと刻まれていたし、なにより他のものが目に入らぬほど剣が好きだった。親からはじめて与えられた遊び道具は、刃のない稽古用の模造剣。手ほどきをしてくれる先生は、何年も前に騎士を引退した家の使用人。寝ても起きても剣のことを考え、いつだって剣を振って遊んでいる。そんな子どもだった。


 ユリティアには、二人の兄がいた。

 まだ幼いながら苛烈にして勇敢な長兄と、聡明にして厳格な次兄だった。ひ弱なユリティアと違い、まさしく騎士となるために生を受けたかのような二人で、両親の期待を背負い日々熱心に鍛錬していたのを覚えている。


 片や一流の騎士を夢見て、両親から直々に厳しい稽古を受ける兄たち。

 片や将来騎士になるかもわからず、年老いた使用人からお遊び同然の手ほどきを受けるだけのユリティア。

 剣の女神がどちらに微笑むかなど、誰の目にも明らかだったはずなのに。



 ある日、ユリティアと兄たちは互いの好奇心から手合わせをすることになって。

 そこでユリティアは、兄たちを完膚なきまでに打ち負かしてしまった。



 そのときのユリティアは兄たちに笑われないようとにかく一生懸命で、自分がどう闘ったのかほとんど覚えていなかったけれど。

 傍で見ていた使用人が言う――兄が稽古をつける側だったのは最初だけ。ものの数分で互角になり、更に数分で逆転し、最後には――もはや『稽古』ですらなくなった。

 ユリティアは、紛うことなき天才だと。


 兄たちにとっては、己のなにもかもを否定される壮絶なまでの屈辱だったはずだ。それはそうだろう。日々厳しい鍛錬に打ち込む自分たちが、遊びで剣を振っているだけのひ弱な女に負けたのだから。『才能』という言葉だけで、積み重ねてきた努力を跡形もなく踏み潰されてしまったのだから。


 兄たちがユリティアを憎むようになるには、充分すぎる出来事だった。


 会話をしてもらえなくなった。それでも懸命に話しかけようとすると、舌打ちと拳が返ってきた。ユリティアの才能を知った両親が、「どうしておまえたちは」と兄らを叱責する。ユリティアを「さすが私たちの子だ」と褒めそやす。――両親が寝静まった夜に、髪を掴んで投げ飛ばされ、背中を何度も蹴られた。


 泣いて謝るユリティアを見下ろす、憎悪と嫉妬に狂った兄たちのまなこ


 ほどなくユリティアに学校へ入学する時期がやってきたのは、不幸中の幸いだった。

 両親は兄たちと同じ騎士の育成校を薦めたが、ユリティアは魔法学校で寄宿舎の生活を選んだ。兄と同じ道を行けば、今よりひどい扱いを受けることになるのは目に見えていたから。


「剣以外のことも、学びたいんです」


 そう、嘘をついて。両親は少し残念がったが、


「それもまたよいか。おまえの才能なら、いずれ聖騎士も夢ではないだろうしな」


 聖騎士――騎士として比類なき実力を持ち、賢者に勝るとも劣らぬ魔法を操るこの国最強の称号。

 兄らに対しては、一度もかけたことのない言葉。



 才とはなんだろう。

 兄から憎悪され、両親に嘘をつき、大好きな剣を握れなくなって、逃げるように家を出る――。

 こんなものが、才能なのだろうか。



 だが結果的に、ユリティアはこのとき家を出て本当によかったと思っている。

 だってそのおかげで、『彼』と――あの剣と出会えたのだから。


「――あ、あのっ! わたしを、で、で! 弟子にしてくれませんかっ!!」

「……は?」


 あの瞬間からユリティアの世界が、また美しく鮮やかに色づいたのだから。



 /


「……ん」


 少し、昔のことを思い出してしまった。ユリティアは緩く首を振って吐息し、刀身にわずかばかりついていた魔物の血を払い落とす。

 斬り捨てた魔物は、すでに戦利品ドロップを残して消滅している。

 これで、三十六。


「……やっぱり、ぜんぜん届かないや」


 剣を握る右手に、遣る瀬のない力がこもる。


 ユリティアではどう剣を振っても、斬った魔物の血で刀身が汚れてしまう。以前よりずっとマシにはなっているが、それでもまだ。

 ほとんどの剣士は、それのなにがおかしいと疑問に思うだろう。魔物とて生き物、斬れば返り血がつくのは当たり前のことだろうと。


 ウォルカの剣は違う。

 ウォルカは剣を血で汚さない。幾百幾千の魔物を斬り伏せようと、その美しい刀身が穢れることは決してない。剣を鞘から抜き放つ、その刹那すら捉えることを許さない神速の絶技。を愚直に追い求め続けた者だけが辿り着ける、『剣』という道のひとつの到達点。


 今度は、恍惚とした吐息がこぼれた。


「はぁ、やっぱり先輩はすごいなあ。先輩、先輩、せんぱい、せんぱぃ――」


 甦るのは、ユリティアの目の前で〈摘命者グリムリーパー〉を葬り去ったあの一閃。一人の剣士がすべてをなげうってこじ開けた、光すら両断するかのごとき絶死の剣閃。天賦の才と褒めそやされたユリティアさえ、まるで足元にも及ばない――極限の彼方。


 脳裏に思い描いただけで、ぞくぞくと快楽めいた感覚が全身を支配する。頭の中が宙に浮かぶような多幸感すら覚える。はじめてウォルカと出会ったときから、今でもずっとユリティアは彼の剣の虜だった。自分はこの剣と出会うために生まれてきたのだと感じてすらいた。

 だからこそ、


「――……」


 全身の快楽が露と消え、圧し潰されるような後悔と罪悪感に変わっていく。

 右目と左足を欠いた、ウォルカの変わり果てた姿。


「……わたしのせいで」


 あんな依頼を受けた自分のせいだと、リゼルアルテは自分一人を責める。違う、リゼルはなにも悪くない。あのダンジョンはすでに踏破されたと、ギルドが正式に認めていたのだから。転移トラップで隠された最奥に真のボスが待ち構えているなんて、この世の誰にも予想できなかったのだから。



 だから本当に悪いのは、その転移トラップを作動させてしまったユリティアなのだ。



「わたしが、あんなミスしなければ――」


 〈摘命者〉と遭遇することはなかった。あの化け物とさえ出くわさなければ、ウォルカが片目片足を失うこともなかった。〈摘命者〉を葬り去ったあの絶技から逆算すれば、せめて片足さえ無事だったなら、きっと彼の剣技は将来前人未到の領域まで辿り着いていただろう。


 だが、その未来はもはや潰えた。

 リゼルから聞いた――ウォルカはあの戦いで、生き残れると思っていなかったのだと。


 奇跡的に一命を取り留めたとしても、軸足を失った以上剣士としては死んだも同じ。

 ユリティアの愚かな失敗が、この世でもっとも敬愛する剣士にすべてを捨てさせてしまった。

 その事実が、ユリティアの心をドス黒く狂わせている。


「もっと……もっと強くならなきゃ」


 ウォルカが命を捨てる決意をしたあのとき、ユリティアはなにもできなかった。〈摘命者〉に打ち飛ばされ、痛みと恐怖で体が竦んで立ち上がれなかった。


 弱すぎる。剣も、心も、情けないほどに、笑ってしまうほどに。

 ウォルカに剣を教わるただ一人の弟子として、どんなに後悔してもしきれない。


 だから、強くならなければいけない。

 少しでもウォルカの剣に近づき、継がなければならない。彼の剣がここにあったことを証明するために。ただ一人の弟子であるユリティアが継がなければ、彼の剣はこの世界から永遠に消えてしまうのだから。


 そして、償わなければならない。

 これからのこと。

 ウォルカのためにできること。

 敬愛する人を、守るということ。


 もう二度と、傷つけさせないためには。

 もう二度と、誰にも奪わせないためには。



 ――ウォルカが、のだと。



「そうすれば先輩のこと、ぜーんぶ守れますよね――?」


 返ってくる声はない。

 街道から外れた森の中、青々と茂る枝葉で遮られた光はユリティアの瞳まで届かない。


 ――もしこの場にウォルカがいたならば、胃痛で白目を剥きながら痙攣していたのだろう。



 /


「――ああ、そりゃユリティアちゃんね。ちょうどいま、君と同じ依頼受けてるの」

「ユリティア……」


 綺麗な名前だ、と少年は思う。可憐な花のようだったあの子にぴったりの名前だと。


 少年がギルドに戻って事の顛末を――小鬼ゴブリンに敗走したことは上手くボカしながら――話すと、受付の女性からあっさりと即答が返ってきた。


「ん。君より背が低くて、桜色の髪、赤い柄の片刃曲刀タルワール。あの子以外にいないわ」

「あんな子、この街の冒険者にいたか?」

「んーん、聖都から来てる冒険者よ」


 少年は驚き、同時に納得もした。


 南方聖都〈グランフローゼ〉――この街から馬車でおよそ三日、〈聖導教会クリスクレス〉の大聖堂が位置する信仰都市である。この国でもっとも治安のよい場所として知られており、北方王都〈アイゼンヴィスタ〉と並んでこの国の双璧に数えられている。

 要は、いいとこ出の冒険者というわけだ。


「一人だったけど、ソロなのか?」

「んにゃ、そりゃもちろんパーティで来てるわよ。あんな小さな子が一人旅してるわけないでしょ」


 まあそれはそうだ。しかし、ならどうしてあのときは一人だったのか。受付嬢も同じ疑問を持ったようで、


「え、一人だった? パーティの仲間と二人で出てったはずだけど……」

「……そういえば、人を捜してるって言ってたな」


 しまった、と少年は唇を噛んだ。あのときユリティアが捜していたのはパーティの仲間。すなわち彼女はなんらかの理由で仲間とはぐれてしまい、たった一人で森を彷徨さまよう最中だったのだ。一人で行かせるべきではなかった。

 しかし、受付嬢の反応はあっさりとしている。


「ま、大丈夫でしょ。ユリティアちゃん、Aランクパーティだし、街道の魔物なんてどうってことないだろうから」

「A!?」


 少年は仰天した。Aランクパーティといえば、誰もが認める実績を積み重ねなければ到達できない実力者の中の実力者ではないか。この街のギルドにも果たして十あるかどうか。


「でもあの子、俺とそんな歳……」

「そうね、確か君より年下だったはず。十三だったかな?」


 そんなことありえるのか、と少年は思う。まだ冒険者稼業を始めてまもないルーキーとはいえ、ふたつ年上の少年がDランクであるのに。

 違和感。


「……一応訊くけど、そのパーティ、大丈夫なんだよな?」


 まっさきに疑ったのは、あの子は本当にパーティの『仲間』なのか、ということだった。要は、可憐な外見だけで上級パーティに引っこ抜かれて、そのままマスコットのように扱われてしまっている可能性だ。

 比率でいえば女冒険者の割合は男よりずっと低いし、パーティの華として若い女に目をつける輩も多いと聞く。以前パーティを組んでいた先輩冒険者に言わせれば、この界隈でそういった男女のいざこざはもはや数え切れず、耳にできたタコがふくれあがるほどらしい。


 もしそうだったら、俺が助けてやらないと――なんて想像をたくましくしていると、受付嬢がいきなりにやりとして、


「おや、やけに知りたがるじゃん。気になるの? ユリティアちゃんのこと」

「バッ……」


 赤くなったと思う。


「そ、そんなんじゃねえよ! そのパーティって、別に二人だけじゃないんだろ!? あんな小さな子に依頼押しつけて、他のやつらはなにやってんだって思ったんだよ!」

「いやいや、別に押しつけられてるわけじゃないからね」


 受付嬢は嘆息、


「あー、少年。いと若き少年よ。いろいろ気になるのは理解するけど、それは余計な正義感ってやつよ。君が想像してるようなのは一切ないから」


 ぴしゃりとたしなめられた少年は口を尖らせ、


「……じゃあなんだってんだよ」

「もう。……よそのパーティのことだから、詳しくは言えないけど」


 受付嬢はやにわ声をひそめて、


「パーティから……結構大きな怪我人が出ちゃってね、今は活動休止中。でも宿代とか食事代とか、怪我の治療にしても教会へのお布施とか、いろいろお金はかかるでしょ? だから、動ける人が最低限の路銀は稼がなきゃいけない。で、その動ける人ってのがユリティアちゃん。そういうことよ」

「……なるほど」


 一応、納得した。少年とて冒険者なので、生きる上ではなにかと金が必要になることも、〈聖導教会〉が無償で人を救う慈善団体ではないことも知っている。パーティの誰かが動けなくなったとき、それを仲間たちで補い合うという考えは理解できる。


 押しつけられているわけでないのなら、ユリティアが仲間を思いやる心を持った優しい少女ということなのだろう。さすがだ。


「本当に、優しい子よ。――半分以上ギルドの責任なのに、恨み言のひとつも言わないでさ……」

「え?」


 受付嬢が目を伏せ、こらえるようになにかを言った。少年が訊き返そうとしたときにはもう元の表情に戻っており、


「んーん、話せるのはこれだけ。あんま詮索しちゃダメよ、マナー違反なんだから」

「わかってるよ、俺だって前までパーティ組んでたんだし」

「それと、大人しい子だからって調子に乗らないこと。ガツガツ行くとソッコー引かれるゾ☆」

「へーへー」


 口うるさいお節介おねえさんにひらひらと手を振って、少年は回れ右をした。言われなくてもユリティアを困らせる真似はしない。ただそう、仲間が怪我をして困っているのであれば、少しのあいだ一緒にパーティを組まないかと尋ねるくらいは、やってみても問題はないはずだ。

 さっきははじめてのソロだったから上手く行かなかっただけで、パーティでの活動ならば充分な経験がある。Bランクの先輩冒険者たちと依頼をこなしたのは二度や三度ではない。ユリティアがAランクだとしても、足手まといにはならない。


 等々、そんなことを考えながら昼食を摂り、いつでもパーティに誘えるよう街でアイテムを整理していたのだが――



「――先輩、他に行きたいところはありますか? 遠慮なく仰ってくださいね、わたしがどこまでもご一緒しますから!」

「あ、ああ」

「うーん……天気もいいですし、広場で少しのんびりするのもよさそうですね。風もありますから、お昼寝したら気持ちよさそうです……。

 ………………あ、あの、ところで先輩、わたし一度でいいからやってみたいことがありましてっ。その、あの……ひっ膝ま――うぅ、ごにょごにょ……」



「…………………………………………」


 ユリティアが、見知らぬ青年が乗った車椅子を甲斐甲斐しく押して歩いていた。

 つぼみが赤く色づくような、笑顔をしていた。

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