04.〈剣士〉ユリティアⅠ

「――ぐえ」


 襟を引っ張られて俺はカエルのような声をあげた。


 目が覚めると、そこは青白い月明かりで照らされた夜の病室だった。この異世界では月がとても大きくて明るく、真夜中でも差し込む月光が明かりの代わりになってくれる。さすがに本を読めるほどではないけれど、身の回りでなにが起こったのか把握する程度は充分できる。


「……師匠?」


 寝惚け眼で横を見ると、師匠が俺の肩にくっついている。

 いや――縋りついている。

 震えている。


「どうした……?」

「――――で」


 なにかを言っている。

 俺は体を師匠の方に傾けて、そっと耳をそばだてると――



「――どこにも行かないで、どこにも行かないで、置いていかないで、独りにしないで、もうどこにも、いかないで、お願い、お願い、お願い、お願い――」



「……」


 状況を理解した俺は体を真上に倒し、天井へ沈み込むようなため息を飛ばした。――ああ、か。


 怖い夢を見た――といえば子どもっぽく聞こえてしまうけれど、要はトラウマだ。俺が死にかけたときの光景が夜に突然フラッシュバックして、こうして縋りつく以外どうしようもできなくなってしまう。

 最初は、いくら心配だからって毎晩一緒に寝るのは大袈裟すぎると思ったけれど。

 結局はこれが、師匠の言うとおりにせざるを得なかった一番の理由だった。


「…………」


 ああちくしょう胃が痛い――なんて、言えるわけがない。



 だって、さすがに、これはさ。

 責任感じるだろうよ、いくらなんでも。



 間違ったことをしたとは思っていない。あの状況から〈摘命者グリムリーパー〉を倒せるのは、なけなしの原作知識を持っている俺だけだった。俺がやるしかなかった。死にかけの状態からみんなを守るためには、文字通り命を捨てる覚悟が必要だった。


 それ以外などなかった一本道だ。

 けど――けれど、


(死んでもいい……って考えてたのは、反省しないとな。本当に)


 俺は転生者で。すでに一度死んでいて。ここが漫画の世界だと知ってしまって。そんな本来ありえるはずもない『異物』なのだから、誰かが覚悟を決めなければならないのなら、それは俺であるべきだろうと自分の命を切って捨てた。


 同じ『命を懸ける』にしても、ただ自暴自棄に投げ捨てるのと、その重みを理解して向き合うのとではまるで意味が違う。


 俺が間違ったのは、きっとそこなのだ。

 俺がそんな考えで命を捨てようとしたのだと、師匠にもわかってしまったから――こうして悲しませている。

 本当に、馬鹿な話だ。



 目を覚ませ。

 ここがマンガの世界と気づいて、申し訳程度の原作知識を思い出して、急に神様の視点にでもなったつもりか。


 たとえ転生者でも、原作知識を持っていても、本来ありえるはずのない存在だとしても、ここにいるおまえは『ウォルカ』だ。

 この世界でたった一人しかいない、『ウォルカ』という名の人間なのだと、魂の底まで刻み込め。


 でなければ、「仲間を立ち直らせる」なんて口にする資格すらないだろうから。



「……」


 吐息。俺はもう一度体を横に傾けて、師匠の小さな頭をそっと胸元に抱き寄せる。

 せめてこの心の音が、師匠のもとまで届くようにと。




 /


「先輩、おはようございまーす……」


 それから夜が明けて、まだお天道様も顔を出しきらない早朝。隙間風のようにドアが開いたかと思えば、何者かがそろそろと俺の病室に忍び込んでくる。


 俺がこの世界に転生してから身についたスキルの中に、ひとつ、『寝ていても人の気配をなんとなく察知できる』というのがある。


 冒険者には必要不可欠といっても過言ではない非常に重要な能力だ。このダクファン世界も数あるファンタジー作品の例にもれず、人の主な移動手段といえばだいたいが馬か徒歩、ないしは船である。日々の冒険であれギルドの依頼であれ、その日のうちに目的地まで辿り着けず、やむなく野営を行うというのはそう珍しい話でもない。


 すると必然、寝込みを魔物や〈ならず者ラフィアン〉――この世界における『悪党』の総称である――に狙われるリスクが生じる。


 結界魔法を使える魔法使いがいたり、結界輝石を買えるくらい懐に余裕があるなら話は別だが、多くのパーティが見張り役を立てながら交代交代で夜を越すことになる。そんなとき、いくら仲間が見張ってくれているからといって、なんの警戒もなくぐーすか眠りこけてしまうのは少々不用心なのだ。


 そういった危険と隣り合わせな生活を繰り返していると、技能というよりは本能としての危機察知能力が磨かれて、寝ていても漠然と周囲を把握できるようになっていく。冒険者の一種の職業病ともいえるだろう。


 人の気配を察知して即座に飛び起きる――俺も最初は、そんなマンガみたいな体質になれるとは思ってなかったけどな。ここは異世界で、俺も今や異世界の住人だ。その常識や潜在能力を、前世の地球人感覚で判断しようとするのは間違いなのだろう。


「せんぱーい……朝ですよー……」


 さて忍び込んできた何者かは、そんな優しいささやき声で俺のベッドのすぐそばに立った。

 まあ、俺の後輩剣士であるユリティアだな。不審者でないなら俺が飛び起きる必要もなく、半覚醒のまどろんだ状態で少しぐずぐずしていると、


「…………」


 なんだろう。ユリティアが、ベッドの俺をまばたきもせずじっと見下ろしている気配。


「……こんな、大きな傷…………」


 どうやら右目の傷を見ているらしい。額から頬まで、マンガの中でしかお目にかからないような派手な跡が残ったからなあ。最年少の彼女にとっては、見ていて痛々しいことこの上ないはずで――


「……先輩、もうあんな無茶はしないでください。絶対に、もう二度とあんなことさせませんから。これからはぜんぶわたしたちに任せてください。いっぱい頼ってください。もっと強くなりますから、先輩を支えられるようにがんばりますから。先輩がなにもしなくて大丈夫なように、起きてるときも、眠ってるときも、先輩の身の回りのことはぜんぶ、ぜんぶですよ? どんなことでもわたしたちが、ずっとずっと――」


 こえーよ。おばけみたいに枕元でぶつぶつ言われたら震えあがるわ。

 目を開ける。


「ふえ――お、おはようございます先輩っ。起こしちゃいましたか?」


 しかしそこにいたのは至っていつも通り、はわわな笑顔を咲かせるユリティアだった。うーん聞き間違いだろうか、なんだか俺の胃が痛くなるようなことを言っていた気がするけど……。

 まあいいか。


「おはよう、ユリティア」

「はい、おはようございますっ」



 我らがパーティの最年少にして天才剣士、『ユリティア』について。



 正直、原作の『ユリティア』に関する記憶は大変よろしくない。もちろん、嫌いという意味ではないのだ。一話限りのモブキャラゆえ、そもそも描写がほとんどなかったのは師匠と同じなのだが、例の全滅バッドエンドで、この子の最期ってのが特に……その…………。

 忘れたままでいられればどれほど幸せだったか。使い捨てキャラだからどれだけひどいことしても大丈夫ってか? マジで外道だよあの作者……。


 本当に、あのとき死に物狂いで戦った甲斐があったと思う。この子が今でもこうして生きて、笑ってくれている――犠牲になった俺の右目と左足も浮かばれようというものだろう。


 原作を抜きにした『俺』の認識を述べると。


 まずなんといってもその年齢。俺より四つも年下の十三歳、前世でいえば中学生になったばかりであり、文句なしで我らがパーティの最年少である。この世界では子どもが働いたり武器を持ったりする場合も多いが、それでも彼女ほど幼い冒険者は珍しい部類に入るだろう。


 可憐、という言葉が似合う女の子だ。ほとんど白に近い淡い桜色の髪を、肩口でふわりと柔らかなミディアムにそろえている。優しい桃色の瞳とこめかみに添えられた花の髪飾りが、彼女の純真で楚々とした印象を奥ゆかしく引き立てている。


 白を基調に赤や桃色を取り込んだ品のある装いは、冒険者の軽鎧けいがいというにはいささか身綺麗で、ともすれば貴族のご令嬢と表現した方がしっくり来るかもしれない。実際、王都の出身である彼女は実家が割と格式ある家系だったはずで、俺たちのパーティでは一番いいとこ出のお嬢様だといえるだろう。


 そんな外見から想像できるとおり、性格はとても控えめで大人しい。手弱女たおやめ然として慎ましやかで誰にでも敬語で、初対面の相手にはちょっぴり人見知りもする。


 完全幼女の師匠と比べれば背は高いけれど、それでもまだまだ小柄な子どもで、腰に俺と同じ片刃曲刀タルワールを差している以外はどこからどう見たって冒険者とは思えない。こんな奥手そうな子が剣を構えて魔物と戦うなんて、絶対に無理だと最初は誰もが考えるだろう。


 しかし侮ることなかれ、彼女はそんじょそこらの騎士も真っ青な剣の神童なのだ。俺のことを「先輩」と呼んで慕ってくれているけれど、ぶっちゃけ俺が同い年だった頃より普通に強いと思う。


「リゼルさんも起きてくださーい。朝ですよー」

「んむぅ……」


 さてそんな最年少のユリティアであるが、我らがパーティでは一番のおねえさんというか、お母さんみたいなポジションだったりする。俺はコミュ障だし師匠は幼女だし、最後のメンバーである重戦士も戦闘以外からっきしなやつなので、ユリティアが一番しっかり者なんだよな。

 俺の腕にひっついてすぴーすぴー眠っている師匠を起こしにかかる姿は、大変さまになっていてとても十三歳とは思えなかった。


「ぅぐう……ふえぇ、もうあさぁー……?」

「はい、おはようございます。起きてくださーい」

「やー」

「やーじゃないですよぉ。ほら、先輩が起きれませんから……」

「うー」

「リ、リゼルさん……もぉー……」


 うーん、師匠のカリスマが行方不明だな。寝起きの師匠はだいたいいつもこんな感じだ。あれ以上悪夢にうなされず済んだのはよかったが、これではますますただの幼女にしか見えない。


 ユリティアと一緒に師匠を持ち上げ、ベッドの縁に座らせておく。師匠はあいかわらず「あー」とか「うー」とか言いながら、未練がましく俺の腕にしなだれてくる。

 ……師匠って本当に俺より年上なんだよな? 「りぜるあるてななさい!」とかじゃないよな? この人、俺と出会う前はどうやって一人旅してたんだろう……。


「先輩、どうぞ」

「ああ、ありがとう」


 と、ユリティアが湯桶から温かいタオルを手渡してくれる。シスターに頼んで用意してもらったのだろうが、最年少がここまでしっかり者だと年上として立つ瀬がないな……。


 俺が片目片足をなくしてからというもの、ユリティアは献身的ともいえるほど様々なサポートを買って出てくれている。毎朝こうして様子を見にきてくれるし、三食欠かさず食事を持ってきてくれるし、必要なものがあれば買ってきてくれるし、夜は体を拭くのだって手伝おうとしてくる――もちろん、それは男のプライドのため謹んで断っている――。


 しかも俺だけに留まらず、師匠とアトリの二人についてもいろいろと気を配ってくれている。俺も怪我をする前は、どちらかといえば二人の面倒を見る側だったんだけどな。とにかく俺が安心して傷を癒やせるように、なにもする必要がないようにと、俺の分まで一生懸命がんばってくれているのだ。


 最年少の女の子にこんな働かせて恥ずかしくないんか? 正直だいぶ申し訳ない……。

 早く片足生活に慣れて、最低限自分のことはできるようにならないとな。


「朝ごはんはこちらに置いておきますので、リゼルさんが起きたら一緒に食べてくださいね」

「ああ」

「それで……あの、今日はなにかできることはありますか? どんなことでも大丈夫です、先輩に不自由な思いはさせません……!」

「ん……今は大丈夫だ。少しずつ、この体にも慣れていかないとな」


 なにもおかしいことは言っていないはずだが、ユリティアは見るからに落ち込んだ表情をして、


「うう……わたし、頼りないでしょうか……?」

「いや、むしろ逆なんだ。頼りになりすぎて、頼りきってしまいそうで」

「……た、頼りきってくれて、いいんですよっ?」


 よくねーよ。十三歳の子になにからなにまでお世話してもらうなんて、後ろめたさ半端ないでしょうが。


「本当に大丈夫なんだ。俺のことは気にしないで、」

「――イヤです」


 は、


「気にします。当たり前じゃないですか。あんなに無茶して、死にかけて、そんな体になって……なのに、先輩を放っておくなんて絶対にイヤです。これ以上無茶はダメですから、もう絶対に許しませんから。お、怒ってるわけじゃないですよ? ただ先輩のことが心配なんです。次になにかあったら、今度こそ先輩がいなくなっちゃうんじゃないかって。そんなの、ほんとに、イヤだから……だからもう二度と間違えないように、みんなで先輩を守ろうって決めたんです。わたし、もっと、もっともっともっともっと強くなって、先輩のぜんぶを任せてもらえるようにがんばりますからっ。

 ――それで、なにかできることはありますか?」

「……あー、いや、だから」

「なにかできることはありますか?」

「ユリ」

「なにかできることはありますかっ?」


 正しい選択肢を選ばないと無限ループするNPCか君は。

 ユリティアさん、あなた口で微笑みながら目が笑ってないんですよ。笑顔なのに笑顔じゃないんですよ。俺は胃がチクチク痛み出すのに耐えながら、


「……な、なら飲み水を頼む。師匠の分も多めにあると嬉しい」

「あっ……ごめんなさい、わたしったら気づいてませんでした……! すぐもらってきますねっ」


 頼み事をした途端、ユリティアの不穏なオーラが嘘のように四散した。パタパタと嬉しそうに走っていく足音をひとしきり見送ってから、俺は天井に向かって大きくため息を飛ばす。


「……リハビリ、がんばろ」


 やっぱりこのままじゃダメだ。俺がこのまま日常生活もままならぬ限り、先日の師匠然り、彼女たちのメンタル面に余計な負担をかけさせてしまう。車椅子でも義足でもなんでもいいからとにかく社会復帰して、自分のことは自分でできるようにならないと。


 原作の、あの度し難いバッドエンドを思い出してしまったせいだろう――今の俺は、仲間たち全員に幸福な未来が訪れることを真剣に願っている。命が軽いダークファンタジーといってもそれは魔物と戦う冒険者や騎士が中心の話で、街の中ではおおむね平穏な人々の暮らしが描かれていたはずなのだ。


 いつかどこかで素敵な相手と出会って、ありふれた幸せを掴んで――そんな光景が見られたら感無量だな。


 今は教会に頼んで義足を手配してもらっている最中だが、果たして異世界の義肢とはどの程度のものなのやら。

 装着するだけですんなり歩けるようになる魔法のアイテムなら、将来の展望も明るくなるのだけれど。



 その後は、幼女モードから復帰した師匠が「わしがウォルカの傍にいるから任せておけ!」と師匠面してくれたのもあって、なんとかユリティアを引き下がらせることに成功した。

 したのだが、


「じゃあ、お昼までは近くで魔物を狩ってきます。先輩の分までちゃんと稼ぎますから、安心してくださいねっ」

「ぐおお」


 最年少の女の子にお金を稼がせて、自分はベッドの上でぐうたらしているだけの男……。

 胃が。胃があああ。




 /


 ――少年は逃げ惑っていた。

 己の実力を過信し、ソロで冒険に出た慢心を腹の底から悔いていた。


 冒険者として確かな才があり、将来を嘱望しょくぼうされる若人によくある過ちだといえる。ベテラン冒険者の手解きを受けながら日々順調に依頼をこなしていると、あるときふっと、「もう自分一人でも大丈夫じゃないか」というに襲われる。なにをするにも「まだ若いから」「新米だから」と前置きされ、思い描くとおりの冒険ができない毎日に嫌気が差すのだ。


 しかして少年もまた、そうやって失敗したルーキーの一人となった。


 俺はもう一人でもやっていける、いつまでもガキ扱いするな、俺の実力を認めさせてやる――そう息巻いて、ギルドが反対するのも構わずソロで依頼を受けた。なんてことはない、街道周辺の魔物を一定数討伐するだけの単純な仕事。街道の治安を保つためギルドが定期的に発注しているもので、危険な魔物が出たわけでも、今まさに困っている誰かがいるわけでもない。


 新米冒険者の訓練用にあるかのような依頼だ。

 それすらもソロでは難色を示される現状が、我慢ならなかった。

 みんな、「才能がある」「将来が楽しみだ」と口では言うくせに。

 どうせ内心では、まだガキだから、青臭いルーキーだからと笑っているに決まっているのだ。


 街道の近辺に出る魔物など、所詮は魔狼バンディット小鬼ゴブリン程度。そんなの何体も倒したことがあるし、苦戦した記憶だってほとんどない。自分一人で余裕だと本気で思っていた。


 結果、このザマ。

 狩る側だったはずの少年は狩られる側となり、たった三体の小鬼ゴブリンから情けなく逃げ惑っている。


 初手は完璧だった。街道からすぐ傍の森で三体の小鬼を見つけた少年は、一息で飛びかかって鮮やかにその一体を斬り伏せてみせた。


 そこからなにもかも想定外だった。残り二体の小鬼は仲間がやられたと見るやすぐさま散開し、少年の左右に距離を取った。この時点で少年はわずかに焦る。今までパーティで戦ってきて、左右を魔物に挟まれた経験などなかったからだ。


 これがパーティであれば、片方の魔物は仲間がカバーしてくれる。

 しかしソロは文字通り己の身ひとつであり、武器は右手の剣一本のみ――それが戦いにおいてどれほど心許ないことなのか、少年はうっすらと気づき始めていた。


 草木の陰に更に二体の小鬼がひそんでいたと気づいたのは、突然後頭部に投石を受けてからだった。


 軽鎧に織り込まれた防護の術式が作動したため、血が出るほどではなかった。けれど予想だにしないタイミングで襲ってきた衝撃と痛みは、いとも容易く少年をパニックに陥れた。

 あまりに大きすぎる隙だ。左右の小鬼が同時に飛びかかってきて、必死の抵抗でなんとか一体は斬り伏せたものの、道行く人間から奪ったと思しきナイフで右腕を浅く斬られた。


 利き手が痺れて剣を握れなくなってようやく、そのナイフに毒が塗られていたと気づいた。

 左手で剣を振る訓練などしているはずもなく、もはや少年には逃げるしか選択肢がなかった。


「くそっ、なんで……なんでだよっ……!」


 少年は、どうして自分が逃げているのかよくわかっていない。パーティのときは苦戦した記憶すらない雑魚モンスターなのに、ソロになった途端なぜこうも呆気なく負けたのか理解できていない。


 己の慢心をなにひとつ認められぬまま、少年は無様に逃げ惑っている。追ってくるゴブリンは三体。対して少年はポーションと毒消しを飲みはしたものの、右腕になお痺れが残り、満足に剣を振るうこともできない。いくら若気のたぎる少年であっても、己が絶体絶命の危機に瀕していると理解するには充分だった。


 まさかこのまま、こんなところで、こんなやつにやられて、こんなにも呆気なく俺は死んでしまうのか――。


 最悪の想像が、背筋を駆けのぼりすぐ喉元まで迫ってきているのを感じた。




 少女。




「――ッ!?」


 少女がいた。すれ違った。たった今。少年は脊髄反射で立ち止まろうとし、その瞬間、限界まで張り詰めていた神経の糸が切れて肩から転倒した。


 痛みに呻いている暇もなかった。身を起こし振り向くとやはり少女がいる。脇目も振らず逃げ惑うあまり、こうしてすれ違うまでまったく気がつかなかったのだ。

 少女も、少年を振り返って驚いた顔をしている。どういうわけか彼女もまた、今の今まで少年が目に入っていなかったかのように。


「ふえ――だ、大丈夫ですかっ?」

「ぁ、な、」


 小さな女の子だった。

 少年より年下に見えた。

 気が動転して、あるいは喉が干上がってまったく声が出てこない。まずいどころではない、最悪も最悪だった。どうしてこんなところに女の子がいるのかは不明だが、迫りくる小鬼が彼女にターゲットを替えるのは火を見るより明らかだった。


「に、逃げ、」

「?」


 声を絞り出したときには、すでに手遅れだった。


 ただ見ていることしかできなかった。


 背後の脅威に気づかず首を傾げる少女も、

 最高の獲物を見つけ喜々として飛びかかる小鬼も、



 その小鬼が三体全員、一瞬で首を飛ばされて死んだのも。



「――――――ぇ、」


 小鬼は最初――否、最期まで己の身になにが起こったのか知覚できなかったのだろう。舌なめずりをした表情のまま一切の生命活動が終わり、放り出された首と胴体が地面をめちゃくちゃに転がって、それからようやく理解が追いついたかのように傷口から血を噴き出した。


 ほんの束の間だ。事切れた魔物の体はすぐにひび割れて崩れ、わずかばかりの戦利品ドロップを残して消滅した。


「…………は?」


 少年もまた、目の前でいったいなにが起こったのか理解できていない。


 少女が、剣を抜いている。剣先にほんの少しばかりついていた赤黒い血を払い、流れる所作で鞘に納める。

 あ、と小さく声をあげ、


「ご、ごめんなさいっ。もしかして今の小鬼、あなたの獲物でしたか? あの、そのぉ、いきなり出てきたので、つい……」


 つい、なんだ。

 斬ったのか?

 この子が?

 いつ?

 あの一瞬で?

 どうやって、


「あ、あのー……」

「――あ、ああ。ごめん、……ぼーっとしてた」


 少年は覚束ない足で立ち上がり、少女を見た。


 少年が言える立場でもないが、彼女は本当に、まだほんの子どもだった。どう頑張っても同い年にすら見えない。平均よりやや小柄な少年と比べても更に背が低く、体つきは触れれば手折れそうなほど華奢で危なっかしい。肩口で整えたふわりと柔らかな桜色の髪、左のこめかみあたりにかわいらしい花の髪飾り。控えめで丁寧な話し方もあって、まさしく花のような少女という印象を少年は受ける。


 しかし左の腰には、この国では珍しい細身の片刃曲刀タルワール。すなわち彼女も少年と同じ冒険者であるはずだが、白を基調とした身綺麗で優雅な装いは、むしろ育ちのいい深窓のお嬢様と言われた方が納得できるくらいだった。小鬼ゴブリンを一瞬で斬り捨てた実力に対し、見た目の印象がなにひとつ一致しない。


 ただ、目もくらむほど可憐な少女であることだけはわかった。

 不覚ながら、少年はしばし見惚れてしまっていた。


「えと、慌ててたみたいですけど……」

「えっ――ああいや、その、」


 ハッと正気に返り、大慌てで答えを考える。君が倒した小鬼からほうほうの体で逃げ惑っていた、と馬鹿正直に認めるには、わずかばかり残っていた見栄っ張りな男心が邪魔をした。


「な、なんでもないさ。それよりごめん、ぜんぜん気づかなくて」

「い、いえ。こちらこそ考え事をしてて、ごめんなさいっ」


 少女が大袈裟なほど丁寧に頭を下げる。声も透き通る朝の日差しみたいにきれいだ。一輪の花を思わせる慎ましやかな振る舞いに、少年は気づけばまた見惚れてしまう。


 言葉が次々と浮かぶ。君は何者なのか。名前は。どうしてこんなところにいるのか。俺と同じ街から来たのか。冒険者なのか。一人なのか。あの剣技はいったい――。


 しかし声にはならない。口にしようとすると自分でも不思議なほど緊張して、反射的に躊躇してしまう。少年、人生十五年ではじめての経験である。

 当然、そんな少年の困惑を少女が知るよしもなく、


「……あ、あの、わたし、人を捜してますので行きますね。戦利品ドロップは差し上げます。道中お気をつけて」

「あっ……」


 立ち去ろうとする少女を、少年は咄嗟に呼び止めようとした。せめて、名前だけでも聞いておきたくて――



「――違う、違う、違う違う違う違う違う違う。足りない。こんなんじゃぜんぜん足りないなにもかも足りない。先輩ならもっと速い、もっと鋭い、剣を血で汚すなんてありえない。なんで、なんでわたしはこんなに弱いの。こんなんじゃ先輩を守れない、なにも任せてもらえない、もっと強くならなきゃ、強くなって守らなきゃ、先輩をぜんぶわたしが、絶対に、絶対にわたしが――」



 ――少年に、その異様なつぶやきが聞こえたわけではない。ただ少女の背中から、抜き身の刃がごときただならぬ気配を感じて、思わず手を引っ込めてしまっただけである。


 な、なんかほんとに忙しそうだしやめておこう。戻ってギルドに訊いてみるか。あんな小さな子だし、同じ冒険者なら名前くらいわかるだろ――そう考えて。


 そのとき少女の瞳から光が消えていたのにも、もちろんのこと、気づかなかった。

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