第8話 ゼノン・ノヴァレインという男
ゼノンにエスコートされて客室を出て行ったレベッカをイグニスとカローラが見送った。二人の姿が見えなくなると、イグニスがぼそりと呟く。
「まさかアイツが人の婚約者を好きになるとは……相手のレベッカ嬢が可哀そうだ」
「何をおっしゃいますか! イグニス様はレベッカ様の婚約者を知らないからそんなことを言えるのですよ!」
「ほっんと誰それ構わず口説くんですよ! 隙あらば触れてこようともしますし! 自分より位の高い家の子はさすがに手を出しませんが、私の友人の間では危険人物で通っているんですから!」
同世代の間では有名な男だ。中には手ひどく振られて泣き寝入りしてしまう子もいれば、変に正義感の強い令嬢がレベッカに「婚約者の手綱くらい握ってなさい」と突っかかっていく姿を見たこともある。
レベッカがちゃんとトーマスをどうにかしようと手を尽くしていたことを知っているカローラは、見ていてとてもつらかった。
社交界シーズンが過ぎれば、さすがのトーマスもメイティン家に婿入りするだろうと噂された時、カローラの母が「メイティン伯爵家とは潮時かもしれませんね」と言っていたのを聞いてカローラはゾッとしたものだ。
レベッカもレベッカの両親もいい人達だ。商売人としても信頼ができる。だからこそ、トーマスのせいで不幸になってしまうのが許せなかった。しかし、他家の者、それも王族に嫁入りする自分が口を出すわけにはいかない。レベッカも今更トーマスと婚約解消しても相手を探すのに苦労をするだろう。そこをゼノンが現れてくれて本当に良かったと思った。性格は少々難があるが、見てくれも頭も悪くない。おまけに公爵家の次男坊。伯爵家の婿養子にはもったいない男である。しかし、隣にいたイグニスの口からはため息が漏れ出ていた。
「リグ家のクズ三男坊の話は風の噂に聞いている。だから、レベッカ嬢が可哀そうだと言っているんだ。男運がないな。女たらしのクズ男の次はゼノンか……本当に男運がない」
イグニスが知るゼノン・ノヴァレインという男は、いわゆる完璧超人だった。家柄、容姿も申し分なく、剣術、体術、学問も秀でており語学も堪能。幼いうちからその頭角を現していたゼノンを父親は持て余していたという。
彼の父親から幼い頃のゼノンの話を聞いたのは、イグニスが学校に入学する十六歳の時。幼いゼノンは恐ろしいほど手がかからず、聡明と言葉にするには、彼の考えが読めない子どもだったらしい。そして、子供らしからぬ冷めた目をしていたと。もし彼がこのまま大人になれば、人が考えつかない問題行動を起こすのではないだろうか。そう不安に思うほどに、彼に子どもらしさが抜け落ちていた。しかし、イグニスの友人候補となったおかげでそれなりに人間らしくなったと彼の父親は涙ながらに語り、『王族にこんなことを言うのはどうかしているが、どうかこれからも息子をよろしくお願いしたい』と頭を下げてきたのだ。
それを聞いたイグニスは気が遠くなったものだった。
ゼノンとイグニスが出会ったのは、六歳の頃。友人候補として一つ下のゼノンが選ばれた。
当時、イグニスは周囲の大人からも同世代からも持て
幼いながらに得体の知れない気味悪さを感じ取ったイグニスは、ある日ゼノンにこう言い放った。
『人形みたいで気持ち悪いんだよ! オレより少し頭がいいかもしれないけど、それしか表情が作れないなら人間として終わってんじゃねーの? 悔しかったら、泣いたり怒ったりしてみろ!』
その時、初めてゼノンは表情を変えた。
『……ハッ!』
イグニスを鼻で笑ったのである。
『どうやらバカに手加減はいらないようですね。一応訂正しておきますが、貴方よりも少し頭がいいんじゃなくて、かなり出来がいいと自負しています。ご自身の頭の悪さを自覚してください』
『な、なんだよ、いきなりペラペラと喋りやがって! オレは王族だぞ! 敬えよ!』
『何か気に入らないことがあれば、そうやってすぐに自分の肩書ばかり口に出す。同じ言葉を繰り返すくらいなら、鳥にだってできるんですよ!』
この瞬間から、ゼノンは一切イグニスに手加減をしなくなった。チェスは駒が一つも欠けることなくイグニスの駒を全て奪い取って勝利する。剣術では合図開始直後に持っていた木剣を容赦なく叩き落とし、体術ではイグニスは立っている時間よりも地面に転がっている時間の方が長い。
怒りと悔しさに
こうしてイグニスはひねくれた性格を残しつつも、わりと真っ当に育った。というのも、大人を震撼させる腹黒さと陰湿さを兼ね備えたゼノンの存在が反面教師として作用したのだ。さらに言えば、イグニスがゼノンの優秀さを認めて、彼に頼るようになったのも大きな成長である。また、彼が他国に留学した時は心の底から安堵を漏らしたものだったが、意外にも彼に頼り過ぎていたことに気付かされ、良い経験となった。
(まさかあれが女に執着する日が来るとはな……)
幼少の頃から彼を知っているからこそ、レベッカには同情する。当時を知らないカローラは「まあ、男運がないなんて失礼な!」と頬を膨らませた。
「イグニス様に代わって、このカローラがゼノン様のお手伝いをいたしますわ!」
クレソン侯爵夫人に似て恋愛話が大好きな彼女はいうと、さっそく近くにいた侍女に声を掛けた。
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