第3話 酔い潰した男


 二人でつまみを一緒に食べたり、おかわりを飲んだりして時間がしばらく経った。彼は読書や卓上旅行が趣味らしく、たまに旅行にいくらしい。レベッカの趣味と言えば、酒と言いたいところだが、自分も旅行が好きだ。母によく連れられて海外に行ったことや幼い頃は国外で過ごしていたことを話すと、彼は少し驚いたように相槌を打ち、互いに各国の観光地の話をした。食べ物や風習、そして音楽。お酒が回っていたレベッカは国内外問わず民に親しまれている曲をいくつか歌ってみせる。実は歌や楽器が得意だ。歌唱力はある方だと思う。飲んでいた他の客からも好評で拍手喝采だった。


 周囲も巻き込んで飲めや踊れやのどんちゃん騒ぎをした後、先に限界が来たのは、やはり青年の方である。


 完全に飲む手が止まり、うっつらうっつらと船をこぎ始めた。



「貴方、大丈夫?」

「ええ、だいじょうぶで……う」

「大丈夫そうな呂律ろれつしてないけど? ジョン、水」

「ほらよ」



 出されたグラスを受け取り、彼は寝ぼけながらも口に運ぶ。ちゃんと飲めている辺りを見ると、泥酔しているわけではなく酔うと眠くなる体質のようだ。彼はグラスを置くと、そのままカウンターに突っ伏してしまう。顔色も悪くなく、呼吸も荒くなく規則正しい寝息を立てていた。



「ジョン、この人の勘定は私が持つわ」

「いいのか? お前が勝ったのに」

「いいのよ。いい男と楽しく飲めたしね。あ、最後に一杯いい?」

「へいへい、最後のソイツはオレの奢りにしてやるよ。まったく……なんでこんないい女が、クズ男と婚約してるのかねぇ……」

「それは言わないで」



 エールを手に取ったレベッカは、残った干し肉をちぎって口に放り込む。


 今日はずいぶん騒いで飲んだ。これなら今回の社交界シーズンも乗り切れそうだ。おそらくこの社交界シーズンを過ぎれば、父もしびれを切らして婚約者に結婚をするように迫るだろう。そうなれば、こうして飲みに来ることもできなくなる。最後の飲みには相応しい思い出だった。



「ねぇ、ジョン。奥さんとは仲良くね」

「なんだ、いきなり気持ち悪いこと言いやがって」

「ふふっ……なんとなくそう思っただけ。ここの料理もお酒も美味しかったわ」

「は?」

「ジョン~! ちょっと来てくれない?」



 厨房から彼の奥さんの声が聞こえ、ジョンが厨房に消えていく。店内に残っている客はもうレベッカと彼だけだ。



(もうこんな飲み方もできなくなるのか……そして、待ってるのはストレスフルな結婚生活……)



 そう呟いて寂しい気持ちを一気に湧き上がり、それを吹き飛ばすように、レベッカはジョッキを仰ぐ。



「はぁ~~……幸せになりたい……」



 不意に出た言葉に嘘偽りはない。どこかに働き者で女が外で働くことに口を出さない男はいないだろうか。できれば歳は近い方がいい。これ以上の高望みはしない。


 レベッカはエールを飲み終わったことにはジョンが戻ってくる。勘定を済ませた後、控えていたレベッカの使用人に貴族向けの宿を手配するように伝える。そして、自分の馬車は彼を乗せて宿に運ばせ、レベッカは適当な馬車を捕まえて別邸に帰った。


 ◇


 あれから数週間が経過した、いよいよ社交界シーズン到来である。


 最初の日は社交界デビューを迎えた紳士淑女が出席する大きな舞踏会が王宮で開かれる。この日はレベッカの両親だけでなく、トーマスの両親や兄弟も参加するからか、レベッカをエスコートするのはトーマスだ。触り心地が良さそうなブロンドへアに丸く愛嬌のある目が微笑めば、どんな女性も虜にしてしまう。しかし、そんな彼が仕方なくと言った顔でレベッカに腕を差し出す。



(少しぐらい隠しなさいよ)



 遊び相手には散々口説いて贈り物を渡すくせに、レベッカには贈り物どころか褒め言葉一つ寄越さない。本当に嫌な男である。



「ファーストダンスはお前と踊らないからそのつもりで」



 不意にそう言われ、少しむっとしたが、あえてレベッカは顔に出さなかった。



「あらそう。どうぞ、瑞々しい花々を楽しんできて。私はお酒でも飲んでるから」



 レベッカが嫌味を込めて言うと睨まれた。こちらを恨むなんてお門違いである。


 会場に入り、ある程度挨拶をすませると、彼は本当にどこかに行ってしまう。新しい女でも見つけにいくのだろう。こうなれば、レベッカは壁の花に徹して酒を飲むだけである。


 給仕からグラスをもらい、香りを楽しんだ後、軽く舌で味わう。



(やっぱりこういうところで飲むお酒は味が違うわね。大衆酒場で飲む安酒も悪くないけど……)



 上品に飲むよりも誰かと騒ぎながら飲む方が性に合っている。しかし、結婚後、トーマスと飲んでも絶対に楽しくないだろう。これを機に飲み仲間でも作ろうかと考えていると、耳障りな笑い声が聞こえてきた。


 目をやると、先日レベッカに突っかかってきたトーマスの遊び相手が、友人と一緒にこちらを見ていた。扇子で口元を隠しているが、明らかにこちらに向かって何かを言っている。


 無視して背を向けて、新しい酒をとると、今度ははっきりと声が聞こえてきた。



「婚約者にも相手にされず、他の男性にも声を掛けられず一人でお酒を飲んでいるなんて可哀そう」

「やめてあげなさいよ。どうせ、壁の花になるしかないなら、食べるか飲むしかして楽しむしかないわ」

(貴方達だって相手がいないんだから壁の花でしょうが。あ~、アルコールが足りない。お酒はジョッキで欲しい)



 口直しのつもりで新たに給仕から白ワインを受け取った時だった。



「お嬢さん、少しよろしいかな?」

「はい?」



 不意に声を掛けられ、振り向いたレベッカは身動きを止めた。太陽のような輝きを放つ金髪に、海色の瞳を蠱惑に光らせた青年は、レベッカを静かに見下ろしていた。

 彼は、レベッカの手元を見ると、先ほどの給仕に声を掛ける。



「彼女が手にしているものは何かな? 私も同じものを頂きたい」

「こちらでございます」

「ああ、ありがとう」



 白ワインを受け取り彼は軽く礼をいうと、固まって動けないレベッカに微笑んだ。



「どうかしましたか?」

「な、なななっ!」



 どうしたもこうしたもない。この間、ジョンの店でレベッカが酔い潰した青年だ。今日はきちんとした正装に身を包んでおり、ただでさえ美青年なのにさらに磨きがかかっている。



(な、なんで、普通は知らないふりをするべきでしょ⁉ それに胸のブローチの紋章は公爵家のものじゃない!)



 メイティン家よりも格上も格上。ノヴァレイン公爵家の紋章である。ノヴァレイン公爵家には子息が二人いることは知っている。長男は顔を見たことがあるが、次男の顔を知らなかったレベッカはてっきり長男と歳が離れているのだと思っていた。しかし、なぜ今まで社交界にも学校にも顔を出していなかったのだろう。


 レベッカが頭の中で大騒ぎをしている最中、不意に彼はアイコンタクトで誰かを呼び寄せる。それはレベッカの父の仕事相手でもあるクレソン侯爵夫人。王妃とも仲が良く、社交界の華と称えらえる女性だ。



「まあ、ゼノン様。ご留学先から帰っていらしたのですね」

「久方ぶりです。クレソン侯爵夫人もお元気そうで何より。向こうの学校を卒業しまして、ようやく戻ってきた次第です」



 わざとらしい挨拶が目の前で繰り広げられたあと、クレソン侯爵夫人と目が合い、レベッカはドレスの裾を捌く。



「久方ぶりにご挨拶申し上げます。クレソン侯爵夫人」

「メイティン伯爵令嬢もお元気そうね。そうそう、こちらの方をご紹介してもよろしいかしら?」

「は、はい……」

「こちらはノヴァレイン公爵子息のゼノン様。そしてゼノン様、彼女はレベッカ・メイティン伯爵令嬢です」



 簡単に紹介をされた青年、ゼノンは愛想の良い笑顔をこちらに向けた。



、メイティン嬢。ゼノン・ノヴァレインと申します。以後、お見知りおきを」

「は、……ノヴァレイン様。レベッカ・メイティンでございます」

「それでは、あとはお若い方同士で。おほほほほほっ!」



 クレソン侯爵夫人が颯爽とその場から離れていき、レベッカは再び彼の方を見る。そこには酒場で見た優し気な笑みではなく、悪巧みが成功した子どものような笑みがあった。



「今宵、貴方の隣は空いていますか? まあ、勝手に居座るつもりですが」

「な、な、なんで貴方がここに……っ⁉」



 もう二度と会うことはないだろうと思っていた。会ったとしても酒場でどんちゃん騒ぎをした女と知り合おうなんて思うはずがない。



「おや、不思議なことを言いますね。私と貴方は初対面のはずですが。どこかの誰かと勘違いをされているのでは?」



 どうやら約束通り、酒場で飲んだことには触れず初対面のふりをしているらしい。彼は声を押さえて笑うと、レベッカに空いている手を差し出す。



「ここは少し熱いので良ければ、風の当たるところでご一緒しませんか?」

「…………喜んで」



 レベッカはその手を取り、バルコニーへ移動するのだった。

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