魔法が解けるその前に - 4

 けっきょく私は一睡もできないまま、朝を迎えた。

 アラームが鳴って、起き上がった慶がシャワーを浴びる。私は少し待ってベッドから這い出し、カーテン一枚を隔てて慶がシャワーを浴びている横で顔を洗う。

「おはよ」

「おはよー」

「寝てないの?」

 声だけで見事に見抜かれた寝不足に、私は目を丸くする。

「あーうん、さすがにちょっと眠れなくて」

「まあそだよね。私も何回も起きちゃった。千明、タオルとって」

 カーテンの隙間から慶の細い腕が伸びてくる。私はその手にバスタオルを渡そうと振り返って、慶の手が微かに震えていることに気づいた。

 当然だ。慶だって怖いのだ。いくら軽々しく、あるいは雄弁に死ぬことを語ってみせたって、踏み出せばもう後戻りのできないそれは誰だって怖い。

 私はそのことに安堵していた。慶だって私と同じ一八歳の女のコなのだという、ごく当たり前の事実が愛おしかった。

 そんな慶となら、どこまでだって一緒にいける。素直にそう思えた。

 それから私たちは、いつも以上に気合いを入れてメイクをした。

 カラコンはブラウンマリアージュの一四・三ミリ。POLAの化粧下地は透明感が出るという茉莉ちゃん激推しの一品で、ファンデーションは乾燥肌の強い味方であるリキッドタイプ。四種類のアイシャドウと二種類のアイラインで目元を作り込んでいく。最近のお気に入りはローラのアイカラー。下まぶたにもしっかりと引いて、潤んだような愛らしい目元を作り上げる。目頭から鼻にかけてシェーディングをして、鼻梁とあごとおでこ、それからほっぺの上に軽くハイライトを乗せる。仕上げのリップは二月の誕生日に慶がくれたディオールのローズボビー。

「やっぱその色、千明にぴったり」

 気付いた慶がファンデをブラシで馴染ませながら言った。私は嬉しくなって、ふふんと鼻を鳴らす。

「まあ私、ディオールが似合う女なんで」

「はい、すぐ調子乗るー」

「調子くらい乗らせてよー。今日でこれ使うのも最後なんだし」

 私はあえて冗談めかすように明るく言って、唇にリップを馴染ませる。

 慶が言っていた劇的な死がどんなものか、まだよく分からないけれど、少なくとも湿っぽく逝くのは私たちらしくない。

「ま、千明がディオールなら、私はシャネルとイヴサンローランだしね」

「は、なんで二つ」

 私がマジトーンで慶を睨むと、慶は声を上げて笑った。

 二人とも、それはもう変なテンションだった。その原因がただの寝不足じゃないってことくらい、たぶん二人とも分かっていた。

 メイクを終えて、私たちはお互いの髪を巻いた。普段はストレートの慶の髪を巻くのは文化祭でドレスを着たとき以来だ。仕上がりに満足して、ホテルのガウン姿でくるくると回ったり跳ねたりする慶はとても可憐で、春風に揺れる桜みたいに綺麗だった。

 顔と髪が完成して、私たちは持ってきていた制服に着替える。JKという魔法の終わりを拒絶して死ぬ私たちに、これ以上ぴったりな死に装束はありえない。

「ねー、リボンとネクタイどっちがいいかな」

 慶がそれぞれを掲げて見せてくる。私はこんがらがったネクタイを解く手を止める。

「んー、リボンじゃない」

「その心は?」

「なんとなく」

「はー、てきとうじゃん」

「じゃあ両方」

「え、両方ってなに? だいじょぶそ?」

「ほら、頭にネクタイ巻いてみ? カチューシャみたいでめちゃ盛れるかも」

「千明が意味わかんないこと言ってるよー」

 最後に私が「やっぱ令和JKはティアラじゃなくてネクタイ鉢巻っしょ」と付け加えると、慶は笑い転げてベッドに身体を投げ出した。仰向けになったまま、なんか悪いキノコでも食べたんじゃないかってくらいに笑う慶に向かって、私は解けたネクタイを放り出して飛び込む。

「ぎゃーっ」

「その声どっから出してんの」

 慶がおかしな悲鳴を上げて、私も同じように笑った。ベッドの上で跳ねたり転がったりしながらじゃれ合った。この時間が、このまま永遠に続けばいいのにと私は思った。たぶん慶も同じことを思っていた。

 私の手がサイドテーブルに当たって、テレビのリモコンが床に落ちた。落ちた拍子にテレビの電源がついて、私たちの意識は光る画面に向けられる。

 何の因果だろうか。ついたテレビはちょうどニュース番組で、中学生の女のコが自殺したと生真面目そうなキャスターが原稿を読み上げているところだった。

 私たちは黙ったまま、表情の変わらないキャスターの顔を眺めた。いじめの事実がどうとか、家庭環境がどうとか、いたずらに墓を掘り起こすような憶測だらけの情報が続いて、大学教授とか小説家とかたいそうな肩書きをぶら下げた大人が渋い顔でコメントをした。

 ようやくCMに切り替わって、人気女優が美味しそうに冷凍餃子を食べる映像が流れる。私は深く息を吸い込んで、自分が息をするのも忘れてテレビに見入っていたことに気がついた。

「……行こっか」

 慶が言った。私は頷いた。

 自殺を認めた街で溢れかえる、認められていない自殺のせいで、この自殺特区には本来使われるはずのないと呼ばれる場所がいくつか生まれてしまっている。

 私たちが選んだのはそのうちの一つ。街の外れにある廃校舎だった。

 電車とバスを乗り継いで三〇分。廃校は高いフェンスとあちこちに貼り付けられた進入禁止の仰々しい看板で封鎖されていたけれど、裏手に回れば裂けたフェンスが入口になっていて、気づきさえすれば誰でも簡単に入ることができた。

 人気のない校舎の周りをぐるりと歩く。自殺の名所だけあってあまり人が寄り付かないのか、地面は雑草が生い茂り、校舎の壁も蔦で覆われている。グラウンドには投げ込まれたっぽい空き缶なんかが転がっていて、テニスコートの破れかけのネットが春の冷たい風に当てられて寂しそうに揺れていた。

「ローファー脱ぐ?」

「いや脱ぐ意味でしょ。ルーソ汚れるよ」

 私はどうしてこれから死ぬのに靴下の汚れを気にするんだろうと思ったけれど、長い間掃除されていない廊下は埃や砂でいっぱいだったので、土足のまま校舎に上がることにした。

 階段を上がる。どうやら元は小学校だったらしい。途中で覗いた教室に並ぶ机や椅子はどれも小さくて、壁にはスプレーの落書きの他、剝がし忘れたらしい時間割なんかの掲示物が色褪せたまま残されていた。

 血痕とか白骨遺体とか、そういうものに出くわす可能性も頭の隅にあった私は安堵した。そんな私を、慶は「ないない。役所の人とか業者が定期的に片づけにくるんだよ、自殺特区だもん」と言って笑った。

 慶と私は鍵の壊れた扉から屋上へと出る。もし慶の言う通り、本当に役所の人が出入りしているというのなら、まずは壊れた扉をなんとかすべきだと思ったけれど、彼らの怠惰のおかげで私たちはこうして飛び降りを試みることができるのでよしとした。

 一口に自殺と言っても、動機は十人十色だし、方法一つをとってみても色々な方法がある。

 そんな数ある方法のなかで私たちが飛び降りを選んだ理由は二つあって、一つは二人でタイミングを合わせやすいから。もう一つは青春っぽいという、慶の希望だ。

「ね、慶。遺書とか残す?」

「んーどうしよっか。でもペンないし」

「私、スマホに残しとく。なんか辛いことあって死んだみたいに思われるの嫌だし」

「あーね。私も残しとこっかな」

 私たちは軋むフェンスに寄りかかりながら、メモ帳アプリに簡単な遺書を書き記す。内容は簡潔で、死ぬ理由と両親への謝罪。元気に死んだと分かるよう、楽しそうな絵文字を文末にたくさんつけておく。

 なんとなくのノリで遺書を残し、私たちはフェンスを乗り越える。屋上の縁に立つと、冷たい風が吹いてスカートを靡かせた。

「けっこう、高いね」

 慶が遥か下のコンクリートに視線を向ける。私はやけに渇いて張り付く喉を強引に振るわせて「ね」とだけ返す。それから慶と同じように足元を覗き込んだ。

 五階建ての校舎の屋上。高さがどれくらいか、正確な数字は分からないけれど二五メートルくらいはあるだろうか。なんにせよ、一歩踏み出した先で待っているのは冷たい空気と固いコンクリートなので、ここから飛べばまず助からない気がする。

 私は深呼吸を繰り返す。だけど冷たい空気は私の口のなかの水分を根こそぎ奪い取っていくばかりで、全然気分は落ち着かなかった。

「痛いかな」

 胸を打つ早鐘を誤魔化すように、私は隣りの慶に話しかける。

「どうだろ。落ちてる途中で気を失ったら痛くないって、なんかのサイトに書いてあった」

「どうやったら気失うんだろ」

「失わなくてもきっと大丈夫だよ。一人じゃないし」

 慶が左手を私に向けて伸ばしてくる。私は右手でその手をしっかりと握る。

 日が高く昇っていた。春の日差しは暖かで、冷たい風は新芽の匂いがした。どこからか名前の分からない鳥の声が聞こえ、葉擦れの音は私たちの決断をひそやかに見守っている。

 一歩踏み出せば全て終わる。私たちの魔法を輝かしい魔法のまま、永遠のなかに閉じ込めることができる。

 だけどその一歩が世界で一番遠かった。

 笑っちゃう話だ。死ぬためにここに来たはずなのに、私たちはまだ――いざ死ぬその時になっても、迷っている。

 たぶん大事なことを決断するのに、一八歳の私たちはまだまだ子供すぎた。自分で選んだ死を引き受ける確信も、魔法の時間の終わりを受け入れてこれから何十年と続く人生を背負う覚悟も、私たちは持ち合わせてなんていないのだ。

 それでも決めなくちゃならない。それだけは残酷で確かなことだった。

「ねえ、慶。ほんと楽しかったね」

「うん。めっっっちゃ楽しかった」

「やり切ったんだよね」

「うん。これ以上の三年間はないよ」

 慶は確信に満ちた声で力強く言って深呼吸を挟む。左手にぎゅっと力が込められ、私は大丈夫だと伝えるように握り返す。

「3、2、1、せーのでいこう」

「うん。せーので」

 私たちの間にはあと二つ、確かなことがある。それは私たちの友情が優勝ってこと。それとこの死が決して未来を悲観した結果なんかじゃないってこと。

 私たちは最高だから死ぬ。制服という無敵の鎧を着られる今が一番だから、人生の頂点に立ったまま終わるんだ。

「3」

 慶がカウントダウンを始める。

「「2」」

 私も声を重ねる。

「「1」」

 と言ったところで、ぴろんとスマホが鳴った。メッセージに続いて電話がかかってくる。

「……誰?」

 首を傾げる私の隣りで、慶はブレザーのポケットからスマホを取り出す。見せられた画面には茉莉ちゃんと亮さんのツーショットの写真が表示されていた。

「もしもし……?」

 慶が通話に応じる。私にも聞こえるようにスピーカーにしてくれた。

『あ、慶? ねえ、今どこ?』

 茉莉ちゃんの声はいつもより上ずっていて、興奮気味なことがスマホ越しにも伝わった。

「あーえっと、今千明と旅行中」

『えーいいないいな。どこ行ってるの』

 茉莉ちゃんはいつだって喜怒哀楽にみなぎっている。さすがに自殺特区だよとは言えなくて言葉に詰まる慶を助けるように、私は会話に割り込む。

「仙台!」

『あー千明~。めっちゃ羨ましいんだけどー。てかあたしも誘ってよ~。牛タンじゃん牛タン!』

「ごめんごめん。今度行こ」

『絶対だよ? 約束したかんね?』

 今度なんてないけれど、この場を手っ取り早く収めるために嘘を吐いた。ちくりと胸の奥が痛む。

「それで、どしたの? また亮さんと喧嘩?」

 茉莉ちゃんと亮さんはよく喧嘩をする。理由はいろいろで挙げるときりがない。でも結局は仲がいいので、数日するとけろっと仲直りしているのがいつもの流れだ。

 けれど今日はどうやら違うようだった。

『違う違う。報告。あたし妊娠した』

 私たちは一瞬茉莉ちゃんの言葉が呑み込めなくて、その場で固まった。スマホから茉莉ちゃんの「いえーい」という呑気な声が聞こえていた。

「は? え? なに? 妊娠?」

 私と慶は混乱して、要領の得ないまま声を並べる。もう身体的には十分にあり得る話でだと分かっていたけれど、いざ突き付けられると現実味のなさに困惑した。友達がママになる、という文章が脳みその表面をものすごい速さで滑っていく。

茉莉ちゃんは楽しそうに――というよりも嬉しそうに手を叩いて笑っている。

『びっくりしたっしょー。二か月だって』

「お、おめでとう」

「うん、おめでと」

 私と慶はまだうまく状況を呑み込めていなかったけれど、とりあえず茉莉ちゃんにそう声を掛ける。たぶん私たちの驚きは茉莉ちゃんにも伝わっていて、茉莉ちゃんはさっきからずっと嬉しそうに笑っている。

『もー二人ともめっちゃ棒読みじゃん。だいじょぶそ? ま、帰ってきたら会おうよ。名前とか相談したいし――って気早いかな。うける。でもさ、亮ってばネーミングセンスとか全然ないんだよ。青に光って書いて〈サファイヤ〉とかやばくない? 冗談でもやめてって感じ』

 そう言いつつも、茉莉ちゃんはすごく嬉しそうだった。目に浮かぶ笑顔に私たちはなんだか照れくさくなってしまう。

『あ、てか旅行の邪魔してごめんねー。とりまそんなわけだから、帰ってきたら遊ぼ』

「はいはーい。またラインする。またね」

 幸せいっぱいの茉莉ちゃんと果たせるのか分からない約束をして、慶は電話を切る。

 私たちはしばらくの間、喋ることも動くこともできなくて、ただ頭上に広がっている嫌味なくらいに青い空を眺めていた。

 私たちの前には未来が延々と広がっている。それはたぶんすごく複雑だけど単純で、幸せだけど不幸せだ。もし一度その未来に身を投げてしまえば、私たちは今のままではいられない。JKという無敵の鎧は脱がされ、制服という記号は大人の身体に合わなくなっていく。

 だから私たちは死のうと思った。そんな未来は拒絶してやろうと、青い春を駆け抜けた勢いのまま高く飛ぼうと思った。

 未来はどうしようもなく不確かなくせに、失っていくものだけははっきりと分かっている。たぶんもう、私たちの人生にこんなマジックアワーは訪れない。だけど魔法は、解けると分かっているから魔法なのだろう。それはつまり、シンデレラがそうだったように、その先は自分次第なんじゃない? ってこと。

 私には慶がいて、慶には私がいる。二人でどこまでもいけるなら、この走り抜けた輝かしい時間を抱えて歩いていくことだってできるのかもしれない。

 失っていくものの大きさを数えるより、今この手に握っているきらめきの眩しさをちゃんと掴まえ続けていられたらと願う。

「いこっか」

「そうだね」

 私たちはもう一度手を繋ぐ。それから前を向いて、小さな一歩を踏み出した。

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魔法が解けるその前に やらずの @amaneasohgi

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