魔法が解けるその前に - 3

 その後も慶は私にハンドルを譲ることなく運転し、そんな意地の甲斐あってか私たちは日が暮れる前に自殺特区へ到着した。

 指定のパーキングにレンタカーを乗り捨て、車を降りて街を見回す。

 一体誰が買い物をするのかよく分からないアパレルショップに、私たちの地元にもあるチェーンの焼肉屋さん。趣味が高じて開いてしまったような、少し小洒落たスパイスカレーの専門店もある。

 そのカレー屋の向かいにある、背の低いマンションの階段を小学生くらいの男の子が駆け下りてくる。二階で身を乗り出したお母さんらしき女性が車に気をつけなさいと声をかける。子供たちは無邪気に手を振りながら、走り去っていった。

 正直言うと、着いて少し拍子抜けしていた。きっと私は勝手に、自殺特区なんて言うくらいなんだから、もっと閉鎖的で殺伐としていて寂れたような景色を想像していたのだろう。だけどそこは私や慶が暮らす街と地続きどころか、そう変わらないただの平凡で平穏な街でしかなかった。

「なんか意外」

「何が意外?」

 後部座席から引っ張り出したスーツケースを引きずりながら慶が言う。私は慌てて反対の扉を開けて、自分のを取り出す。

「いや、なんかこう、もっと寂しい感じの街かなって思ってた」

「あーね。たしかに意外と普通かも。運転してても、気が付いたら着いてたって感じ」

「私たちの街と変わんないもんだね」

「まあ言っちゃ日本だしね」

 たぶん私は自殺特区に期待をしていたのだろう。そこにはたぶん、人が自ら死を選ぶための非日常があって、生きる理由や死ぬ理由が私にも見つけられるはずなのだと。

 だけどそこにあったのは、私たちと何も変わらない生活と街並みだった。

 慶が伸びをして、深く息を吐く。

「さすがに疲れちゃった。ホテル行ってちょっと休んだらごはん食べよー」


 ホテルは相部屋のツインルーム。淡いグリーンの壁紙に、北欧風のベージュ基調のソファやテーブルが置かれている。テーブルの上のクリップボードには宿泊時の注意事項を書いた紙が挟まっていて、フリーWi-Fiのパスワードの下に市民以外の自殺は認可対象外との説明が青い文字ではっきりと書かれている。私はようやく見つけた自殺特区らしさに、どうしてか安心を覚えた。

 じゃんけんの結果、慶が窓側のベッドを、私は壁側のベッドを使うことになった。散々あいこになる激戦の決着がついて、私たちは別にどっちでもいいじゃんねと笑った。

 思いのほか広くてふかふかのベッドに寝転びながら、インスタを眺める。ホテルから少し歩いたところに繁華街があって、いくつものグルメアカウントがおしゃれで美味しいお店を紹介している。

「自殺特区になって、お店増えたんだって」

 うつ伏せになって脚をぱたぱたと振っている慶が、私と同じようにインスタを眺めながら言う。私は可愛く盛り付けられたカルパッチョの写真を二回タップする。

「へぇ、そうなんだ」

「自殺特区になって、観光に来る人が増えたんだってさ。ちょっと悪趣味だよねー」

 ちらと見た慶は唇を尖らせていたけれど、私たちだって同じようなもんだろうと私は思った。それに素直に感心もした。自殺特区にはそんな経済効果もあるんだ。

 インスタを眺めていたはずが、画面はいつの間にかTik TokとかYouTubeに替わっていて、気が付けばあっという間に時間が過ぎていた。このままじゃ店が閉まっちゃうと、慌ててメイクを直し、インスタで見つけたなかから二人がちょうどいい具合によさげと思ったカジュアルなイタリアンレストランへと急ぐ。

 途中で予約していなかったことに気付いたけれど、ラッキーなことにちょうど席を立ったカップルと入れ違いで私たちはすんなりとテーブルにつくことができた。すらりと背の高い女の店員さんがスマートに私たちを案内してくれて、お水とおしぼりを渡して下がっていく彼女の後ろ姿を眺めながら、やっぱり美人は骨格ストレートだよなぁなんて思った。

 店内はそれなりに賑わっている。美術館みたいにお洒落な内装とオレンジ色の間接照明でほんのりと暗いムーディな雰囲気のせいか、周りの席はカップルばかりだ。何語の曲か分からないメロウなBGMも、アイランド型の厨房から香るチーズとかの匂いも、すごくセンスがいい。

 私たちはベルを鳴らし、さっきの綺麗な店員さんに注文を伝える。私はきのことバジルのパスタで、慶は季節野菜のボロネーゼ、二人でシェアすることにして小海老のアヒージョとバケット、それからカプレーゼを頼んだ。

「お飲み物は何になさいますか?」

 店員さんがドリンクメニューを指し示す。メニュー欄のほとんどはワインの銘柄らしいカタカナが並ぶ。ロッソ、ビアンコ、エトセトラ。ソフトドリンクはメニューの右隅にこじんまりと記してある。

 私は慶をちらと伺った。

 たぶん店員さんは私たちが未成年であることに気付いていない。むしろ気付かないのが普通だろう。メイクをして、それなりに着飾ってしまえば制服を着ていない女子高生をそれだと見分けるのは難しい。

 もし私たちがここでお酒を頼んだとして、誰がそれを咎めるというのだろう。仮に誰かが咎めるとしても、これから死ぬのだから怖いものなんて何もない。一ミリだってする気はないけど、もう終わりにする命だと決まっているなら人殺しだって何だってやってしてしまえる気がする。飲酒なんて朝飯前だ。

「そしたらー、私はジンジャエールで。千明はどうする?」

 慶は言った。私は心のなかを満たすもやもやを隠すように笑って「同じので」と言う。

 最初にジンジャエール、次にカプレーゼがやってきて、しばらくすると香ばしい匂いのアヒージョがテーブルに並ぶ。最初は熱くて食べられなかったアヒージョのオリーブオイルが冷えたころ、二人分のパスタが運ばれてきた。カプレーゼもアヒージョも一口ずつ分け合ったそれぞれのパスタも、全部がとても美味しかったけれど、どれもがとても味気なかった。

 理由は分かっている。

 これじゃただの旅行だ。頼んだ美味しい料理は普段サイゼとかマックでだべったりする私たちからすれば豪華と言えるかもしれないけれど、最後の晩餐にするにはあまりに普通だった。

 別にお酒を飲んだり煙草を吸ったりしたいわけじゃなかった。ママが飲んでいて味見させてもらったビールは苦くて美味しくなかったし、パパが吸っている煙草だって臭すぎて嫌になる。

 だけど死ぬつもりの片道切符の旅をしてさえ、私たちは小さな逸脱すら選ぶことができない。普通とかこうあるべきみたいな色んな枠組みや線引きのなかで右往左往しながら生きているだけだった。そもそも自殺を考えて自殺特区に向かうあたり、このことをよく表していると言える。

 きっとこれからもこういう人生が続くのだろう。遊んだり勉強したりしなかったりしながら残り三年だか四年だかの学生生活を過ごす。周りの雰囲気に呑まれるようにして体に合わないスーツを着て就活をして、本当に入りたいのかもよく分からない会社に就職をする。それで職場かコンパか友達の紹介か分からないけれど、知り合った男の人と付き合って、子供ができたりできなかったりして結婚する。洗い物で手が荒れて、短く切った爪にはもうネイルはしなくなる。子育てに追われて染めた髪の半分くらいは真っ黒で、洋服や靴だってかわいいやつは着なくなる。だんだんと化粧乗りが悪くなっていって、ほうれい線も濃くなって、たまの息抜きのランチの席で、あの頃はさぁなんて目尻にしわをつけながら笑いあって、旦那の愚痴で意気投合したりする。

 そんな人生が続く。それは平凡でありきたりで、想像でしかないけれど、それなりに幸せでそれなりに不幸なんだろう。悪くないと言えば悪くないかもしれないけれど、延々と続くそれはきっともう今みたいなキラキラした時間とは程遠い。

 私はそれがすごく怖くなった。得られるものの尊さよりも、失っていくものの輝きばかりが大きく見えて、一八歳の私の肩に重く圧し掛かる。

「ねえ、慶」

「んー?」

 震えを押さえた私の声に、食後のコーヒーを含んだ慶が耳を傾ける。

「私たち、明日死ぬんだよね」

「うん。その予定」

 慶は頷き、私は悟る。これまで勝手に冗談だろうと思い込んでいた慶の死ぬことへの渇望が、最初から決して冗談なんかではなかったのだと思い知る。

 この旅は制服を脱ぐための儀式なんかじゃない。

 きっと慶はなんとなく気付いていたんだろう。人生というやつの行き着く先がどれくらい幸せで、どれくらい不幸せかってこと。

 デザートのパンナコッタとアフォガードまでしっかりと堪能した私たちは、やっぱり夜遊びをするでもなくホテルへと戻った。せめてもの抵抗にと、私は途中のコンビニでポテチやじゃがりこやコーラを買って、部屋に戻るやシャワーも浴びずにネトフリで映画を観た。慶が眠くなったとベッドに入っても、私は暗い部屋のなかで目をこすり、スマホの画面を観続け、ポテチを頬張り、コーラで喉を潤した。映画は一〇年くらい前の邦画で、一見すると何一つ不自由ない円満な生活をしていながら夫との関係に空虚感を感じている主人公が、勤め先の銀行で横領を繰り返し徐々に暴走していくという話だった。

 好きな俳優が出ているからとりあえず選んだ映画だったけれど、私は観ているうちに、ああやっぱりという気持ちに駆られていった。これから先、私はきっとこの主人公みたいに満たされない。今この瞬間が最高潮で、私という器は満たされ切っているから。先の人生で起こるのは、ため込んだキラキラを吐き出しながら、少しずつ傷ついて罅割れていく器から思い出が漏れ出して色褪せていくのを悲しんだり、嘆いたりすることばかりなんだろう。

 映画が終わって、そのまま寝てしまおうと布団を被ったけれど、なんだかあまりに子供じみた反抗に思えて虚しくなって、私はすやすやと眠る慶を起こさないように注意しながらメイクを落としてシャワーを浴び、ホテルのロゴが入ったガウンに着替えて歯を磨いた。再びベッドに横になったのはもう三時になろうかという時間で、普段ならとっくに寝ている時間だし、ただでさえ長距離を移動して疲れ切っているはずだけど、私はちっとも眠ることができなかった。

 眠ろうとすればするほど目も頭も冴えていった。時計の針が進む音が、骨に直接響くみたいに大きく聞こえた。とうとう閉め切ったカーテンの隙間から頼りない朝陽が漏れ出した。その光はひどく冷たく弱々しくて、部屋に落ちる闇を晴らすには全然足りなかった。


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