ブルームーンに揺れる

一日二十日

ブルームーンに揺れる

 こんな恋、誰にも言えるはずがない。

 十七歳、高校生。少し伸びすぎたショートカットと制服のスカートを揺らしながら夏を駆け抜けていた時だった。

 七月の夜、私は塾終わりに父が経営するバーへ向かった。ちょっとしたおつかいだった。

 まだ店は準備中だったのに、からんからんとベルが鳴ったのだ。

 ジャケットを腕にかけ、ベストを着たスーツ姿。黒い髪を後ろに撫で付け、少し薄い色をした瞳。そして、その目元や口元に刻まれた皺のある肌。

 彼は父の古い知り合いらしかった。どうも昔はここの常連だったらしいのだが、仕事でしばらく遠くへいたらしい。

 父は一つのグラスをカウンターに出した。

 準備中だったのは、彼を待っていたからだったらしい。その日は久しぶりの再会で貸切だったのだ。

 私はただ、バーという風景が珍しくて、その人が見慣れなくて十代特有の能天気で言った。

「イケオジですね!」

 実際とてもかっこいいと思ったからそう言った。

 失礼な私にあの人は優しそうに笑った。目元の皺が深くなった。


 それからおつかいや掃除の手伝いをしに塾の帰りにバーに寄ると、あの人にたびたび会った。そのうち名前も覚えて、私の名前も覚えてくれた。

 彼はいつも開店と同時に店に来た。だから彼を迎えるのは、いつしか私になっていた。

 彼と色々な話をするようになった。彼は私よりずっと大人だったから、色々なことを知っていた。

 けれど父より、ずっと魅力的だった。

 店に二人目の客が来るまでのほんの少しの間はバーに居座ってあの人の隣で話をした。他愛もない会話だ、けれど、学校で話す誰よりも楽しかった。

 最初は本当にただ、両親と先生以外の大人と話せることが貴重な経験だったから、それが新鮮で話をした。

 でも、日に日にそれは形を変えていったんだと思う。

 あの人の皺の寄った目元を見ていると、たまに目が合う。私はある日、そのまま目を逸らしてしまった。

 私は別に人と目を合わせて話をするのが苦じゃないから、そういう状況になったとしても別に気まずさを感じたりはしない。

 だからその時、すごく不思議だった。なんで私は目を逸らしたんだろうって。

 気づかないまま時間を重ねた。

 その度に自分が動作不良を起こしていく。

 あの人がネクタイを緩めると、ため息が出る。時計をした腕が肩に触れそうになると、熱帯夜みたいな気分になる。皺のある指がグラスの縁をなぞるたびに、その動きに釘付けになる。

 その指に光る輝きがないことに気づいたとき、私は聞いた。

「指輪、してないんですね」

 彼は答えた。

「結婚してないからね」

 その時、周りが水で満たされてしまったみたいに息ができなくなった。

 ああ私は、恋をしてしまったのだ。


 ある日私は補習仲間の友人と話をしていた。その話の延長線であの人の話が上がった。

「そうそう、なかなかイケオジでさー」

「まじ?見たいわー。ねえ、写真とかない?」

「あるよ、これ」

 あの人が久しぶりに来店した、私が初めてあの人と会ったあの日、記念に写真を撮った。もちろん、父とあの人と私の三人が写った写真である。

「うわ、まじイケオジじゃん!えー、かっこいい」

 友人は言った。

「だよね。まじイケオジ」

 私は淡々と答える。

「こんなイケオジと結婚したいわー」

 友人の発言にピタ、と体が固まった。

「...ほんとにね」

 言葉ではいくらでも言えた。けれど、本気の文字を隠したままだ。

 こんなことを友人に話せるはずもない。

 親子ほど年の離れた人に本気で恋をしてしまったなんて、言えるはずもない。嫌悪され、否定されるに決まっている。

 たとえ目の前の彼女が認めてくれる人間だったのだとしても、言えるわけがない。自分自身、とてもイケナイことをしている感覚だからだ。

 言えない。

 言えるわけがない。

 それでも、私はバーに通った。

 父は近頃お気に入りの番組があるらしく、常連の彼だけを置いて奥の方でそっちを見ていることが多い。だから彼に酒を出したあとは、しばらくの間二人きりの時間だ。

 だから気にせず、話をした。

「付き合ってる人とかいるんでしょ」

「いないよ。ほら、独身貴族ってやつだから」

 彼がそう答えるたびに、私の心はやめて、と悲鳴をあげた。

 そんなことを言わないで欲しかった。私が欲しい言葉は、今誰かと一緒にいて、馬鹿みたいに幸せなんだって、壊して欲しくないっていう言葉だったのに。

 なのに、あの人はそんなことを言わない。

 私が止まれなくなる言葉ばかりを言うの。

 今ここに、彼の左の薬指に輝きがあればなんて、いくらでも考えた。けれどそこには何もない。私が大好きな大きくてゴツゴツとした皺が刻まれた手があるだけ。

 触れて欲しい。

 その手に包まれたなら、どれほど幸せだろうか。

 彼の隣は水面みたいだ。頑張って上を向いていないと、あっという間に沈んで息ができなくなって、溺れてしまう。

 溺れて堕ちて、戻れなくなりそうになる。

 だからベルの音に助けてもらった。他人がその扉を叩いて、私をここから追い出してくれる。もうそうでもしないと、彼から離れられなかった。

 自分自身ではもう、止めることなんてできなくて。

 バーから家に帰る時、驚く。

 自分が着ている制服がとてもみすぼらしいものに見えるから。みすぼらしくて、これを着ていることがぞっとするほど恥ずかしく感じる。

 こんなもの脱ぎ去ってしまいたい。

 そうすれば、少しはあなたに近づけるかな。そう思ったりなんかして。


 夏が深くなって、恋も深くなる。

 けれど私とあの人の関係は、知り合いの域を出ない。当たり前だ、別に頭ではわかっている。

 彼が愛用のグラスを傾けてアルコールを飲む。その仕草を見るたびに、とてつもない絶望感に襲われる。

 私の前に用意された安いグラスの中身はただのジュース。客でもない私に、父は水だけを寄越す。けれど時々、ジュースをくれる。今日はその日だった。

 似ている。彼が飲んでいる酒と、私のグラスのジュースは見た目はそっくりだ。

 けれど、何もかもが違う。

 そのグラスの質も液体も、飲んでどうなるかも、全部全部違う。

 まるで私たちみたいだ。

 大人と子供、男性と女子、皺のある手と瑞々しすぎる肌、声の高さも生まれも社会的立場も、何もかも違いすぎて、嫌になる。

 せめて一つだけでも何かが一緒なら。

「カクテル言葉って、ありますよね」

「よく知ってるね。若いのに」

「今飲んでるそれ、なんていうんですか」

 彼の前に置かれたグラス。その中の私の正反対みたいな色をした紫が揺れる。

「これ?これはね、ブルームーンっていうんだよ。カクテル言葉は確か、『めったにない』、『幸福な時間』とか...」

 まるでこの時間みたい。言いかけてやめる。けれど私にぴったりだ。

「あとは『叶わぬ恋』、とかね。ていうかこんなこと、高校生に教えるものじゃないね?」

 ああそうか。私は勘違いをしていた。

 私はきっと、後者だ。

 ならやっぱり、ぴったりじゃないか。

 私こそが、ブルームーンだ。


 もし一つだけ願いが叶うなら。

 今までは大金持ちになりたいとか、頭が良くなりたいとか、そんなことを望んでいた。

 けれど今ならはっきりと言える。そんなもの、現実でいくらでも手に入る。自分の努力次第だ。本当に手に入らないものは、もっと他にある。

 今なら言える。

 あなたが叶えたい願いは、何か。

「私、大人になりたいです」

「大人?」

 私はいつものように、あの人の隣で呟いた。

「そう?僕は子供になりたいし、高校生になりたいよ?」

「...それならそれで」

 いいのかもしれない。

 私の願いは、あなたの隣に立つことだから。

 ただ隣に立って、その手を握って、その背中に縋りつけただけで、それでいいのに。

 それ以外、望んだりしないのに。

 それすらも叶えてくれないなんて、神様は。

「大人って大変だよ。いろんなことを気にしなきゃいけないし、がむしゃらにやればいいってもんでもないし。だから高校生、いいなって思うよ?僕は」

「そうですか?高校生だって、いろんなこと気にしてますよ」

「そうなんだけどね。でももっと複雑なんだ。ちょっとしたことなんだけど、それが大きくなったりして、気にするようになるから」

「ちょっとしたこと?」

「そう。仕事上の立場とか、出世とか、結婚とか恋愛とか。もう、いろいろね」

「...そうなんですか」

 恋愛なら、高校生だって十分に。

 十分すぎるくらいに。

「大人って難しいですね」

「そうだよ」

「でも私、一つだけわかりますよ」

 触れる寸前まで指を伸ばして。

「大人の恋愛は、好きって言ったらダメなんでしょ?」

 久しぶりに見つめたその瞳が、こんなにも愛おしい。

 いけないとわかっているのに。どうしようもなく、惹かれるから。

「そうかもね」

 嘘ばっかり。

 子供だって、好きなんて言ったら終わりなのに。


「だから最近、そのイケオジに教えてもらったんだー」

「へー、なんか大人。すっごいね」

 夏休み最後の補習の日、いつも通り話をしていた。ただの女子高生として、話をしていたのだ。

「まじであんな旦那さん欲しいわ」

「また言ってる。でもさ、実際はすごい大変だろうね」

「え?」

 友人は長い髪の毛先をくるくると指で巻きながら言った。

「年の差カップル。親子ほど年の離れた人と恋愛できるのかなあ。お互い大変じゃない?自分の親みたいな人と、自分の子供でもおかしくない人だよ?」

 友人の言葉が耳鳴りのようにも思えた。

「いや別に、否定するわけじゃないけどさ。そういう人たちだっているわけだし。幸せならいいんだけど。相手が産まれた時には自分は立派な大人って、結構よね。社会の目も厳しそうだしさー。ま、ドラマみたいにはうまくいかないってわけよなー」

 その瞬間、シャボン玉が割れた。

 今までずっと見惚れてきた虹色に輝く球体。それがふわふわと宙に飛んでいくのをうっとりと眺めていた。

 それが一気に、壊れた。

 パン、という破裂の音も立てずに壊れて、消えた。

 ああ、そうか。

 そうだよ。

 そうなんだよ。


 その日、私はバーへ向かった。あの人は店の前で待っていた。

 中へ案内し、いつもの席へ誘導する。父が酒を準備すると、またいつものようにお気に入りのテレビ番組を見に店を任された。

 幸せな夢から覚めたあとってどうしてこんなにも寂しいんだろう。ずっとずっと幸せな空間に居たかっただけなのに、それを手放した時の触れられない感覚って、なんでこんなにも涙が出そうになるんだろう。

「ブルームーン」

 呟いた。あの人がこちらを振り向く気配がする。

「受け取り手によって解釈が変わるんですよね」

 ネットで調べた。ネットで調べるしか手段がないのが、いかにも子供っぽい。

 だから私は、いつも制服なんだ。

「一ヶ月に二回ある、珍しい満月だから、めったにない。意味が転じて叶わない恋...ほんと、嫌になりますね。大人って。ストレートに言ってくれなきゃ、わからないじゃないですか」

 子供だから、わからない。

 明確にゼロだって言ってくれなきゃ、信じてしまうじゃないか。

 私は一パーセントをあきらめられるほど、大人じゃない。

「あのね、私...」

 あなたのこと、好きだったんです。

 なんて、言えるわけもなく。

「勉強に集中するので、ここに来るの今日で最後にします。そのうち学校も始まりますし」

 だから。

「だから...今日でお別れ」

 あなたと。

 あなたを好きになってしまった私とも。

 無責任で無意味な恋とも。

「今日はそれだけ言いにきたんです。ありがとうございました」

 出会ってくれて。

 少しだけ、そばにいてくれて。

 あとは、特に思いつかないけれど。

 私は制服を引きずって店を出る。

 自分で二人の時間を終わらせるベルを鳴らしたのはこれが最初で最後だった。


 誰にも言えない恋だった。

 女子高生とおじさまの恋なんて許されないし、相手に迷惑をかけかねない。だから誰にも言わずひっそりと、始めて終えた。それで良かったとも思う。もし、仮に成就なんかしていれば、きっと私の世界は壊れていたから。私はあの恋を幸せにすることなんて、きっとできなかっただろうから。

 それぐらい危うくて、素敵な時間だった。

 さながらカクテルね、なんて。

 あの時、カクテルに言葉を託す意味なんか面倒くさいと思っていたけれど、今ならわかる。

 誰にも言えないから、誰にも言えない気持ちだから、受け取り手に任せるのだ。

 夜空には満月が光っている。それはブルームーンなんかじゃない。

 だからやっぱり。

 あの出会いは、ブルームーンだったのだ。

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