ご自由にどうぞ

天音

ご自由にどうぞ

 会社からの帰り道。駅から自宅まで15分歩く。

 その途中に掲示板がある。所々ペンキが落ちた古いのが。

 掲示板の右下の端に、何を引っ掛けるのかわからないフックがついていた。「ご自由にどうぞ」という札と一緒に、だ。

 そんな札があるから何かご自由にとってもいいものがぶら下がっていることがあるのかと思っていたが、会社に勤めはじめて早2年、そんなものは一度もお目にかかったことはなかった。子供の頃に住んでいたマンションの供用スペースには、たまに大家が畑で採れた野菜を同様の文句が書いてある紙を貼った段ボールに入れて置いていたものだけれど。流石に2年も何もないとなると、このフックは過去の遺物なのだろうと納得していた。昔はそこにご自由にしていい何かがあったに違いない。

 何もないフックは毎日の通勤時、意識の端に引っかかっていた。


 いつものごとく最寄駅に着いたのは日付が変わる直前。

 勤めて2年。業務はほとんど変わらないが、自分の精神状態は変わっていることに薄々気づいていた。

 食事が喉を通らない、とか。朝ドアを開けようとすると涙が出る、とか。

 それでも生活のためにどうにか服を着て、家を出て、電車に乗って会社まで運ばれて行っていた。乗ればどうにかなるからまだ大丈夫なはずだ。

 前だけを見ながら、誰もいない商店街を歩く。どの店もシャッターが降りきっていて、ヒールの音がやけに甲高く響いた。歩きにくいからぺったんこなパンプスなのに、この音はとても虚しい。

 仕事はいつも通りだったけど、突然ぽこんとダメになってしまった。今日のわたしは何がダメだったんだろうと思い返してみるが、靄がかかったみたいに思考がはっきりしない。

 寺島さんは優しい上司だ。うまくできないのはわたしが無能なだけ。一気にたくさんやらなくちゃいけないことが回ってきて、片付けてて、「わたしがやった方が早いね」と言われて……。それから、なんだっけ。そう、なんとか終わらせて、傘を持って会社を出た。朝降ってたから。雨の日は極力家から出たくないなあ。……あれ。でも、いま傘持ってないや。

 どこに忘れてきたんだろうと、そこまで分散した思考を動かしていたら、いつの間にかあの掲示板のところまで帰ってきていた。電柱の真下。ここには街灯があって、掲示板を気持ち程度に照らしているのだ。

 そんな薄暗い中でぼんやりと浮かぶ影を見つけ、なんだあれと思い近寄る。

 いつも何もない掲示板のフックに、吊り下がっている見慣れない何か。

 そこには、縦長の紙袋が一つかかっていた。

 ワインとかが入っていそうな形状の黒い袋の中には、黒い筒が一本あるようだった。

 うまく働かない頭を動かすけれど、どう考えてもこの長い袋がご自由にしてもいいものだということで結論を出してしまう。

 ご自由にしてもいいものにしては大きくないだろうか。もしかして落とし物だろうか。それとも不審物か。

 朝にはなかったはずだ。流石にこんなものがあったらいかに憂鬱な出勤時のわたしだって気づく。頼むから気づいてくれ。

 検分するように眺めるが、いまいち正体はわからない。

 真上にある古い蛍光灯がかすかに音を立てた。ジジっと、空咳のような音が遠くで聞こえる。

 その点滅を合図に、わたしはおもむろに紙袋を手に取った。

 だって「ご自由にどうぞ」って書いてあるしと心の中で言い訳を呟きながら。

 何もかもがどうにでもなれ、が本音ということもできるかもしれない。


 家に帰り、電気ケトルのスイッチを押してから鞄やらジャケットやらを部屋に放った。だるい、めんどいがデフォルトの状態だが、とりあえず夕食を作らなくてはいけない。

 お湯を注ぐだけのカップ麺だけど食べないよりはマシだろう。なぜかケトルだけはケチらずに買ったせいか、お湯が沸くのは比較的早いのだ。そこは楽でいい。

 すぐに沸いたお湯を注いで、ベッド前のローテーブルに運んだ。スマホで3分タイマーを設定した時、ようやく自分がご自由にもらってきた何かに目を向けた。

 鞄と一緒に放った、長細い紙袋。

 今更ながら恐る恐る自分の方へと引き寄せた。

 外装はなんの変哲もない黒い長細の紙袋だ。若干光沢のある素材だということだけが特徴で、ロゴや柄も入っていない。

 そっと袋を斜めにしてみると、中からズッと黒い筒が出てきた。少しだけギョッとする。大きめの水筒のような、何か。しかしとても軽く、素材はおそらく紙だと思った。

 振ってみるとシャカシャカ音がする。何度が揺すっても特に危なそうなものが入っているとは思えなかった。

 ご自由にいただいてきたものを検分していると、ちょうどタイマーがなった。ひとまずカップ麺の蓋を開け、麺をかき混ぜた。器から溢れる湯気は粉末スープの匂いを纏っていて髪に絡みついてくる。

 夕飯をテーブルの中心に追いやってから、もう一度筒の何かを手に取った。そして気づく。筒の底から白い紐が出ていることに。

 ははあこれを引っ張るんだなと働かない頭は無条件に納得し、何も考えずに白い紐を引っ張った。そして。

 

 天井。それが次の瞬間にわたしが目にした光景だった。紐を引っ張った直後、わたしは床にひっくり返っていて、しっかりと背中で床の感触を確かめていた。

 見慣れた天井を背景に、視界めいっぱい部屋中を舞うカラフルな紙吹雪。勢いよく飛散するメタルテープ。

 呆然とするわたしの顔に、ゆっくりと何枚かの紙吹雪が降りてきた。

 ――クラッカー。

 ご自由に持って帰ってきたものは特大のクラッカーだったんだと、ようやく理解する。

 ノロノロと体を起こして目にしたものは、あまりにも悲惨な部屋だった。

 数着しか服がかかっていないハンガーラックには、これでもかけてろとばかりに幾条ものテープが絡まっている。ベッド、テレビ、その裏、あらゆる場所に飛んでいる紙吹雪。最悪なのは結構な量のクラッカーの中身がラーメンに着地していることだ。色彩豊かな麺と具が増えている。

「……は。あはは」

 どうしようもない状態に、不意に腹の底から笑いが込み上げてきた。次第に笑いは大きくなり、元凶の筒を抱えて大爆笑する。

「クソうぜえ〜……」

 ひとしきり笑った後に顔を上げると、部屋中を勝手に陽気にしていた紙吹雪とテープは跡形もなく消えていた。驚いて手元を見ると筒もなかった。

 ご自由にもらってきたものは何もかもが消えていて、目の前にあるのは湯気を立てているカップ麺だけだ。もちろんさっきまでビシャビシャとスープに浸かって麺に擬態していたテープも一本もない。

 久々に腹筋を使ったせいか少し息が上がっている。若干汗ばんだ首元を確かめるように手で擦った。髪が揺れて、インスタントラーメンの匂いがする。

 大笑いで吐き出したものを取り戻すように、もしくは自分を落ち着かせるように一度深く息をした。パチンと音を立てて手を合わせる。このポーズをとるのはいつぶりだろうか。

「いただきます」

 余韻で未だ口角を上げてしまう頬をどうにか宥めて、わたしはちょっとのびたラーメンを啜った。

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