第2話 凍てついた瞳

 レフィは悪魔だ。

 以前のお茶会でこっそり借りた下世話な恋愛小説の内容を知っていて、こういうことをする。ぎゅっと抱き締められたあとは、十三の子供にするように頭を撫でられ、銀縁眼鏡をかけ直して綺麗な一礼をした。


「では、おやすみなさいませ。お嬢様」


 ねぇ。あの本ではキスはもっとたくさん、唇にも落とされて、一緒にベッドに入るのよ? レフィはその先も知ってるのかしら。部屋を出るその背中に名前の知らない感情が湧き出ようとする。

 子供にする「おやすみ」の挨拶に、酷く邪な想いを乗せてしまったような気がして、わたしはレフィの触れた額を手の甲で乱暴に拭った。まだ細く開いていたドアが、小さな音を立てて閉まる。

 疲れているはずなのに、胸の奥が火照ったようになって、その夜は遅くまで寝付けなかった。


 *


 父様は最近、議会だけでなく宮中の方とも交流があるらしい。時々使いの者がやってきて、書類をやり取りするのだけれど、そんな時、よくレフィも呼ばれていく。

 わたしの家庭教師だなんて言っておきながら、父様も教わっているなんて、なんだかおかしい話。そのうちこの家は、あの悪魔に乗っ取られてしまうのじゃないかしら。

 自習の見張りにつけられたメイドにそうこぼしたら、軽やかに笑われた。


「レフィ様は他領地の方ですから、こちらで結婚でもなさらない限り、そうそう自由にはできませんよ。旦那様も他領から見た参考意見を聞いているのに違いありません」

「そうなの? じゃあ、私がしっかりしていれば大丈夫ね」


 メイドは意味深な含み笑いを漏らして「えぇ」と頷いた。

 その日は珍しく、午後からの予定が丸々空いてしまった。突然自由になると、人は何をしていいか判らなくなるものなのね。普段しないこと……と考えて、メイドを伴って散歩がてら街に出てみることにした。

 買い物はだいたい、家に職人を呼んで済ませることが多いので、次々と変わるウィンドウの向こうのキラキラした商品を見て歩くのは楽しかった。人が多いのだけは辟易したけれど。

 噴水のある広場で一休みして、揚げ菓子など買い食いする。煤けた服の子供たちが、おつかいはないかとか、靴を磨こうかとか声をかけてきた。


「ないですよ。あっちに行って!」


 メイドがしっしと追い払う手の先で、一人の男性が一度足を止めてから近づいてきた。


「ナンパもお断りです」


 毅然とした態度に、その人は苦笑する。


「従兄のクレマンだよ。リラだろ? 珍しいな。そろそろ帰らなくていいのか? 変なのに声かけられる前に送っていこう」

「クレマン?」


 わたしは驚いた。寄宿学校に通っているのは聞いていたけれど、そういえばもう卒業しているのか。スーツを着こなして、そばかすの薄くなった彼は、やんちゃな暴れん坊ではなく、もういっぱしの紳士に見えた。

 クレマンのエスコートで馬車に同乗させてもらう。一人前の女性として扱ってもらえたようで、なんだかドキドキした。


「そろそろ社交界デビューだったかい?」

「ええ。来年の誕生日を過ぎたら」

「そうか。それは楽しみだ。一曲お相手願おうかな」


 その笑顔には、確かに昔の彼が残っている。だから、その視線に少し居心地の悪い思いをしたのが何故なのか、わからなかった。

 屋敷に着くと、クレマンは「伯父上に挨拶を」と迎えに出た侍従に告げた。一緒に出迎えたレフィが、いつもより冷ややかな顔でクレマンを見ていた。


「お嬢様はこちらへ」

「リラ。今度一緒にピクニックでも行かないか」


 踵を返しかけたレフィに薄く笑いながら、クレマンはわたしに声をかけた。突然の誘いに戸惑うわたしの手を引いて階段の方へと押しやり、レフィはクレマンをさらに冷ややかに見下ろす。


「行きません。お嬢様のお相手は、私より教養も容姿も優れた方にお願いいたします」

「なんだと!?」

「この程度で感情を乱される幼稚な方には、お預けできませんと申しております」


 ふっと侮蔑を込めた冷笑は、確かにカッとなったクレマンの数倍美しい。二の句を塞いだ悪魔は、「さあ」とわたしを部屋へと促した。


「……レフィ、少し言いすぎではないの?」

「いいえ。あの手合いは曖昧にするといつまでも解ってくれませんので」

「でも……クレマンがお父様に告げ口すれば、レフィが叱られたりするのではなくて?」


 使用人風情が、なんて言い回しはよく聞くことだ。気分屋の主人だとすぐに首がすげ変わる。レフィは父様のお気に入りだし、そんなことはないと思うのだけど……


「おや。彼とピクニックに行きたかったと? お嬢様に心配いただくほどのことはございません。私がお嬢様のためにしているということは、旦那様も解ってらっしゃいます」

「そう、なのでしょうけど……どうしたの? レフィ。何かあったの? なんだか、少し怖い感じ」

「怖い?」


 パチパチと二度瞬いたアイスブルーの瞳は、凍てついたそれから僅かに溶けだして、わたしを見つめた。フ、と微かに鼻で笑われる。


「今まで怖くなかったのであれば、私が甘すぎましたね。溺愛もほどほどにしなくては」

「え!?」


 わたしは耳を疑う。溺愛という文字を今すぐ辞書で調べたくなった。


「ではお嬢様。夕食の時間までにこの国の主要農産物と輸入品について、夕食後には先日間違えられた計算式を……」

「いぃぃやぁぁ!!」


 藪蛇だ。聞きたくないと耳を塞いだ手は、丁寧に引きはがされ、自室まで誘導されながら作付面積を復唱させられる。涙目のわたしに、悪魔はにっこりと微笑んだ。


「ピクニック、そうですね。いいアイデアです。あまり時間はないのですが……行ってみるのも、いいかもしれませんね」

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