躊躇

 会社の暑気払いの夜、夫のスマホを覗き見た。

 一番見たくないものを、とうとう確認した。

 この話をいつ、どのように切り出そうかと、どんな風に彼を罵倒してやろうかと、そればかりを考えながら既に2週間が経った。


 そうやって過ごしてみて、私は少しずつ自分自身の本心に気づき始めていた。

 ——私は多分、彼に怒りをぶつけるタイミングを見計らっているのではない。

 私は、この話を夫に切り出すことを、躊躇っている。


 私へのものではないメッセージが夫から私に誤送信され、その相手の存在を突き止め、端末に残ったやりとりの言葉から二人の関係の濃さまで感じとり。

 どれだけ強い態度で夫を責めてもいい証拠が、もう揃っている。

 なのに、私はそれをできずにいる。


 こんなにも強い怒りと悔しさが胸に波立っているのに、よくわからない堤防が私の感情を囲っている。

 この堤防は、一体何?


 それでも、何食わぬ顔で仕事から戻り、私の作った料理を当然のように食べ、その日の下着を雑に洗濯カゴへ放り込む夫とは、もう視線を合わせることすら不愉快なのだ。

 怒りを吐き出すこともできず、かと言って夫を許すこともできない。

 破裂しそうに膨張した爆弾を抱えながら、導火線へ着火できないもどかしさに、私はひとり苦しいため息を繰り返した。


 彼への怒りに、火をつけられずにいる理由。

 もう薄々、わかっている。

 けれど、独りきりの薄暗いリビングでその理由をはっきり自覚してしまうのは、どうしても嫌だった。




 自己内の矛盾がギリギリまで蓄積したその翌日、土曜日。

 今日は、私の所属する市民オーケストラの練習日だ。

 楽器を奏でて音楽を楽しむ市民で結成された吹奏楽団。市民オーケストラと言っても、力のある指揮者の指導のもと、それなりにレベルの高い演奏で聴く人々を楽しませている。毎週土曜日の18時から3時間ほどの合同練習があり、公民館の一室を借りて集まれるメンバーで音を合わせる。 

 学生時代に吹奏楽部でフルートをやっていた私は、3年ほど前にこのオーケストラに入団した。音楽を愛する仲間達の熱の篭った音が一つに重なり、楽曲の世界観を全身全霊で創り上げていく瞬間は、たまらない高揚感に全身の感覚がゾクゾクと躍る。ここで活動していて本当に良かったと、今の自分を救ってくれるオーケストラの存在を改めてありがたく思う。


 いつもは自分から誘ったりはほぼしないのだが、今日はそんなブレーキも効かず、時々飲みにいく気心のしれた顔ぶれに私から声をかけた。

 クラリネットの三谷みつやさんと、トランペットの古賀こがくん。三谷さんは22歳の女子大生、古賀くんは26歳の社会人だ。二人とも気さくで精神年齢が高く、年齢差はあっても一緒にいてとても心地よい。二人とも「姐さん」と親しみを込めて私を呼ぶ。


「珍しいですね、姐さんから誘ってくれるの。めっちゃうれしいです」

 練習場から繁華な街中へ向かう夜道を歩きながら、古賀くんが楽しげに私を振り向いた。今をときめく男前が、アラサー主婦との飲みをこんなふうに喜んでくれる。長身から見下ろすその眼差しがなんだかくすぐったい。

「そー、このメンツで飲むのすごく楽しいよね! 大学の同期で集まって飲んでもなんかつまんないんですよねー。なんでだろ」

 私の横を歩いていた三谷さんも可愛らしい笑みを浮かべたが、途中でふと首を傾げた。

「それはさ、三谷さんの中身がおっさんだからでしょ」

「うあ、古賀さん鋭い」

 いつもの二人のボケツッコミ調の会話のリズムに、私も思わず笑わせられる。顔馴染みの居酒屋の暖簾を潜り、いつものテーブルに座った。


 それぞれ好みのつまみと酒を好きなようにオーダーし、好きなことを喋り、時に言い合いながら笑い合う。すべきことも、してはいけないことも考えなくていい時間。最近はこういう時間こそ幸せだと思う。

「今日の三谷さんのクラの音、なんかすごく艶っぽくなかった? 聴いててめっちゃ気持ちよかったんだけど」

「え、すごい! 姐さん耳いいよねー。そういうのまで解っちゃうんだ」

「え……もしかして三谷さん、とうとう恋愛成就とか!!?」

「えへへ、そうなんです〜!」

「まじか……すげえ」

 古賀くんは本気で驚いた顔をする。

「え、古賀くん、三谷さんの恋のこと、何か知ってるの?」

「あ、最近姐さん誘っても出られなかった飲みが何回かあったじゃないですか。あの時、俺ら二人で飲みに行って、その時にちょっと三谷さんの恋の悩み聞いたりしてたんで」

「その人、大学のサークルの先輩なんです。同性の」

 三谷さんが、幸せそうに頬を染めてそう告白する。

「……え、そうなの?」

「でも、叶うわけがないってずっと思ってたから……好きになればなるほど、苦しくてたまらなかったんです」

「で、で、どんな展開になったの?」

 古賀くんが目を輝かせて恋バナの続きを催促する。

「どんな結果になっても、この気持ちをちゃんと伝えなければ絶対に後悔するって思ったんですよね。もしも断られても、伝えられたことで自分の想いに区切りがつく気がして。先週の金曜、お茶しませんかって誘って、思い切って。

 ——そしたら、『いいよ』って」

「……わあ……それは嬉しかったね! 三谷さん、おめでとう!」

「ってことは、その先輩も、同性が恋愛対象だっていうこと……だよね?」

 古賀くんが、ふと真面目な顔でそう呟く。

「んー……その辺は、先輩自身もよくわからないって言ってます。でも、私とならば、どんなことも絶対楽しい気がする、って。

 どんな返事よりも、嬉しい言葉だった」

 一言一言噛みしめるようにそう話す三谷さんは、一瞬微かに瞳を潤ませてから、眩しいような笑顔を輝かせた。

 確かに予想外のニュースだが、お互いの想いが通じ合った喜びの真っ只中にいる彼女は、誰が何と言おうと世界一幸せだ。

 その笑顔が、私にはどうしようもなく羨ましかった。







 明日の予定があるからと、三谷さんは一足先に帰っていった。

「いいねえー若いって。彼女の幸せ、私もちょっとお裾分けして欲しいよ」

 そんなことを言いながら梅酒のグラスを傾ける私の向かい側で、古賀くんがハイボールのジョッキを呷ってぼそりと呟いた。

「姐さん、今日何か話したいことがあったんじゃないですか?」


 唐突な言葉に、私は思わず顔を上げて古賀くんを見た。

「……」

「やっぱりね」

 私の目を覗き込むようにしてから、彼はふっと小さく微笑む。

「自分の話をこんな後回しにして、どうすんですか」

「いや、それはさ」

 私は、視線を落としてグラスの中の氷を見つめる。

「……もしかして、姐さんもまさかの恋バナ?」

 古賀くんのそんな言葉に、私は思わず吹き出した。

「何言ってんの。

 それどころか、夫の浮気話だっての。笑えるでしょ?」

 もうなんだかどうでもよくなって、私は自嘲まじりにそう言いながらグラスをからりと雑に呷った。


「は……? まじですか、それ」

「んー、マジマジ。この前こっそりダンナのスマホ覗いたらさ、どっかの女と高校生レベルのピュアーな会話しちゃってて。唖然とした」


「それで……どうしたんですか。夫婦の修羅場になったとか?」

「それがね、まだなーんもできてないのよ。情けないことに。

 怒りはもう喉元までこみ上げてるのに、『浮気なんかしやがってふざけるな!!』って、夫にぶちまけることができないの」

「どうしてですか。普通、妻なら鬼のようにキレるところじゃないですか」


 私は、古賀くんをじっと見つめた。

 彼の眉間は、納得がいかないとでもいうようにぎゅっと険しく寄せられている。

 今なら、この人に受け止めてもらえる。怒りをぶつけられない訳を。


「——だって。

 怒りをぶちまけて、その相手との関係を切らせて、力ずくで彼を引き戻しても——引き戻した後、蘇るように家の中が幸せな空気に切り替わることなんてないって、わかってるのに。

 夫を暗い空気の中に引き戻して、それでその先、あんたたちはどうするの?っていう問いが、私の中でずっとリピートしてる。望んでる子供もできないまま、ただ味気ない夫婦の暮らしを再開するのかって。

 浮気を彼に認めさせて、強制的に終わらせて、それで何がどう解決するのか——わからなくて」


 私は、無意識に掌で顔を覆う。

 家庭内の事情が、これで全部古賀くんに知れてしまった。

 それでも、今の自分の苦しみを誰かに聞いてもらえたことで、私の胸にはやっと新しい酸素が流れ込んだ。


「……あなたは怒りすら爆発させられずに、ダンナは外で身勝手な恋を楽しんでる。

 それじゃ、あんまり不公平じゃないですか?」

「公平とか不公平とか、そういう話じゃ……」

「いいえ、そういう話ですよ」

 私の力ない呟きが、彼の強い声に遮られる。


「そういう状況ならば——あなたも、そんなつまらない家の中ばっかり見つめるのはやめたらどうですか。

 さっさと家に帰らないで、もっと身勝手に楽しめばいい。

 例えば、今だって」


「……え?」


 古賀くんの眼差しが、私を真っ直ぐに見つめていた。



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