発覚
そんな疑惑が生まれた日から、ひと月程経った金曜日。
チャンスは巡ってきた。
8月に入り、暑さが一層猛威を奮い出す頃、私たちの会社では例年暑気払いが行われる。この行事の開催時期はもう伝統のように8月第一週の金曜と決まっており、暑気払いに出るから遅くなるという夫の話には私も疑わずに了解することができた。
「もーおっさんなんだからさぁ、勘弁してくれよなあ」
その夜、いつになく泥酔して帰ってきた夫は、愚痴ともなんともつかぬ言葉を漏らしながらどさりとリビングのソファに倒れ込むと、電源をぷつりと落したように小さないびきを立て始めた。
「将希、そんなとこで寝ないで……」
そう言いかけて、私は口をつぐんだ。
夫は、深酒をして眠り込んだ時は簡単には目を覚まさない。
これは、あの疑惑を確かめる申し分のない機会じゃないか。
床に放り出されたビジネスバッグの口が、無造作に開いている。
手を差し入れれば、いつも彼が決まってスマホを入れる鞄の内ポケットのスマホを簡単に取り出せるだろう。
私は、足音と息を殺してバッグに歩み寄り、夫の様子を慎重に窺いながらそっとかがみ込んで中に手を入れた。
あった。冷たく角張った感触。
自分の鼓動すらも抑えるようにしながら、端末をそっと鞄から抜き出す。
彼のスマホは、指紋認証でロックが解ける。
認証ボタンを、ソファから垂れ下がった彼の右手の親指に静かに押し当てた。
ぐ、と微かに力を込める。
暗かった画面が、パッと明るく灯った。
——開いた。
無我夢中でLINEのアプリのアイコンを探し、タップした。
だいぶ前、彼が何気なく教えてくれたLINEのロックナンバーが変更されてしまっていれば、この作業はここで断念しなければならない。
自分のスマホメモに残していたその番号を見直し、震える指で入力する。
四桁の番号を入力すると、スッと画面が開いた。
ロックが開きませんようにとどこかで祈っていた自分は、一瞬で消え失せた。
開いてしまったのだ。もう止めようがない。
最近会話をしたらしい相手のアイコンと、その横の名をざっと物色する。怪しいものと怪しくないもの。そこに漂う色なのか匂いなのかわからぬまま、自分の目と勘が選別していく。
『白川さん』
どこか寂しげに美しい夕空のような風景をアイコンにした名が、目に飛び込んだ。
叩くようにタップし、トークルームを開けた。
どうしよう。怖くて、どこまで遡ればいいかわからない。
そうだ。あの日私に誤送信されたメッセージがここに届いていれば、相手がこの「白川さん」だということが確定する。
汗ばんだ指で、画面をスクロールする。
記憶に刻み込まれたあの日の日付が、目に飛び込んだ。
『少し遅くなりそう。先に店に入って待っててくれる?』
目の奥に焼き付いたそのままのメッセージが、そこに表示されていた。
怪しい相手をビンゴで引き当てる自分の嗅覚に、思わず嘲笑が出る。
その日は、それきり彼らはLINEでの会話はしていない。
その翌日の日付に、一言だけやりとりがあった。
『宮本さん、昨日はありがとうございました』
『うん。会えて嬉しかった』
気が動転したまま、画面を下にスクロールする。その日以降しばらくメッセージのやりとりはなく、最新の会話の日付は今から1週間ほど前だ。
『宮本さん、今日はご馳走様でした。仕事忙しいのにランチ誘っていただいて』
『ん、全然。外回りで近くに行ったついでだし。前もって白川さんの都合も聞かずに急に呼び出して、迷惑じゃなかった?』
『迷惑なんて。美味しくてびっくりしました。あんな場所に小さなイタリアンがあったんですね。
でも、いつもお店の支払い宮本さんに出してもらってばかりだし。ちょっと困ります』
『あれ、困らせてる? それは俺もちょっと困るな。じゃ今度は君に出してもらうから安心して』
『……すみません。いつも、ありがとうございます』
一旦会話が途切れ、「白川さん」の言葉は再び続いた。
『宮本さん。この前言ったことは、忘れてもらえませんか。
あんなこと言うつもり、本当になかったので……あの時は少し飲みすぎて、つい取り乱してしまって……』
『飲みすぎて、つい?
じゃ、あれは酔ってただけで、君の本心じゃなかったということ?』
『それは違います。そうじゃありません』
『あの時の君の言葉、俺が忘れずにいるのは、迷惑?』
『そういう言い方、ずるいです。そんなこと、あるわけがないでしょう』
『なら、君は何も考えずにいてほしい。全部俺が勝手にしたくてしてることだから』
『……困りました』
『ん?』
『嬉しくて』
『そっか』
は?
何、これ……。
こんな、高校生の恋みたいなやりとり。
こんなものを見るくらいだったら、「また会いたいわ」「俺もだよ」くらいな低俗で薄汚いやりとりの方がよほどマシだった。
ギリギリと、歯が砕けるほどの歯軋りが出そうになる。
——「この前言ったこと」というのは、あの誤送信のメッセージが届いた、あの夜にあったやりとり……なのだろうか。
「忘れてください」って、何? 「全部俺が勝手にしたくてしてることだから」って、何?
「……ん……」
その時、背後のソファで、もぞりと動く気配がした。
はっと我に返り、同時に背筋がギクリと硬直する。
——バレたか。
恐る恐る、肩越しに振り返る。
首を反らせて一つ窮屈そうに息をついた夫は、もぞもぞと身体を動かしながらソファの背の方へごろっと寝返った。
幸い熟睡からは目覚めていないようだ。
思わず安堵の息が唇から漏れる。
私は慌てて夫のスマホを手にしたままキッチンへ移動し、自分のスマホを開けて今見ている会話の画面を写真に収めた。彼が言い逃れできない証拠にするために。
すぐに画面を閉じ、スマホを再び元通りに鞄に戻した。
夫の背中は、相変わらず深い寝息を立てている。
一度キッチンへ戻り、グラスに水を注いで一気に呷った。
ふうっと大きく息をひとつついてから、私はいつも通りの顔と声で夫に歩み寄った。
「将希、そんなとこで寝ないでよ。ちゃんとベッド行かなきゃ。将希」
「んん……わかったから」
瞼を微かに動かして怠そうにそう返す夫の横顔を、私はじっと見つめた。
白川さん。
その人と向き合う夫の心は今、まるで高校生くらいの頃に戻っているのだ。瑞々しくて眩しい、あの時代に。
子供を授からない侘しさも、心の通わないセックスの冷ややかさも、全部巻き戻して。
言葉にならない奇妙なものが胸の奥底から込み上げるのを感じながら、私は夫の寝顔をただ見下ろし続けた。
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