ヒトはインコに非ず

aoiaoi

疑惑

 インコのある種類(コザクラインコ、ボタンインコ等)は、非常に愛情深く、つがいとなった相手を生涯深く愛する。

 そのため、番の一方が死ぬと、残された一羽はその悲しみで食欲などが衰え、衰弱死してしまうことも少なくないという。

 その愛情深さから、彼らは「ラブバード」とも呼ばれる。


 私たちには、愛情深さは「本能として」インプットされてはいない。

 ヒトは、少なくともインコではない。





 梅雨の雨が続く七月初旬。金曜の夜、7時少し前。

 今日は、夫は会社の飲み会で遅くなる。

 自分だけの気楽な夕食の支度をしようかと立ち上がりかけた私の手元で、スマホがメッセージの着信を知らせた。

 さて立ち上がろうという時に限って、メッセージや電話がくる。このタイミングは不思議だ。小さく苦笑しながら座り直し、画面を確認する。


『少し遅くなりそう。先に店に入って待っててくれる? 俺の名前で予約取ってあるから。ごめんね』


 それは、夫からのメッセージだった。


 ん?

 内容の違和感に首を傾げた瞬間、そのメッセージは送信取り消しの処理により画面から消えた。

 送信されてから取り消されるまで、ほんの四〜五秒、だっただろうか。


 ——何? 今の。

 送信ミス?

 目の中に焼きついた文字の残像を、脳に繰り返す。


 少し遅くなりそう。

 俺の名前で予約取ってあるから——

 ごめんね。


 少なくとも、私宛てのメッセージではない。

 今日の飲み会絡みの同僚たちへの連絡か何か?

 いや——会社の飲み会で、あんな会話を他の社員とやり取りするだろうか?


 不思議と、匂いがするものだ。例えたった一行でも。

 仕事関係でも、飲み会絡みでもない。

 あれは、何か内密な約束への言葉だ。

 間違いなく。


 今日の飲み会というのも、この約束を私に隠すための嘘だったのか。


 どんどん早くなる心拍と、まるで脳内に強風が吹くかのようなざわつき。知らず知らずのうちに、握り込んだ掌が冷たい汗をかく。

 食器棚からグラスを出そうとする指が、小刻みに震えた。


 たった5分前の自分が、俄かに腹立たしくなった。

 なぜあの時、あと1分早く、キッチンへ立ってしまわなかったのか。

 ——なぜ知ってしまったのか。夫の知らない顔など。



 上の空で作ったパスタを、味も何もよくわからないまま食べ終え、機械作業のように皿を洗った。

 どうしようもなくざわつく思いを鎮めたくて、シャワールームへ向かう。

 湯の温度を上げ、水勢を強めたシャワーを頭から浴びた。


 肌を叩く熱い湯に、冷え込んだ心の震えが少しずつ治まる。

 同時に、思考が冷静さを取り戻し、脳が回転を始めた。


 いや。あのメッセージが、「特別な関係」の相手への言葉と思い込むのは、まだ早いかもしれない。

 例えば、部下から仕事について悩みや相談を持ちかけられ、個人的に話を聞いてやる約束をしたとか。

 上司のセクハラなんかで悩んでる女子が相手だったりしたら、メッセージもああいう雰囲気になるかもしれない。優しく、気遣うような。


 そう思いつつも、そんな考えはただの気休めだという囁きが耳元から離れない。


 ——思えば、いくらでも起こる可能性のあることだ。

 中堅電機メーカーの営業部門にいる夫は、現在33歳。長身とすっきりした醤油系の顔立ちで、一般的には結構イケメンの部類だろう。営業部でも成績はいいはずだ。私が退職する前も、そうだったから。

 私はかつて、夫と同じ会社の総務課に勤務していた。営業部の若手の中でも有能で人柄もいいと評判の2歳年上の夫は、私の目にはいつも颯爽と輝いていた。やがて私たちはお互いを意識するようになり、彼からの告白を受けた時は天にも昇る幸せを噛み締めた。

 1年ほどの交際の後、私たちは結婚した。私が25歳、彼が27歳の時だ。

 会社の通例だったこともあり、私は当然のように寿退職した。それからの私たちは、新たな命を授かるのを今か今かと待ちわびた。


 けれど、その願いは叶わないまま、もう6年になる。

 そのことについてどちらから何か口にするわけでもなく、不妊治療に踏み出すわけでもない。何もできないまま、それぞれの心がなんとなく黙り込む。

 私の母も、なかなか妊娠できずに結婚後4年以上も過ごした。もしかしたら、私もそういう体質を受け継いでいるのかもしれない。

 隣の市に住む義母と義父は、以前は顔を合わせれば冗談交じりに子供のことを夫に催促していたが、今はもう何も言わなくなった。

 お互いにどこか投げやりな心と身体でひんやりとしたセックスをするのは、私にとって最早苦痛になりかけている。薄暗い寝室で諦めにも似た思いが軋むような気まずさと、子供を宿せない自分自身の情けなさが、体を重ねる度に押し寄せるのだ。

 夫も、最近は週末の夜も滅多に求めてこない。


 満たされない思いを抱えた男盛りが、外で様々な人間と接していれば——今回のような展開は全く不思議じゃない。


 ——夫は、本当にそういう男なのか?

 不思議じゃないからと、簡単に欲求を実行に移してしまう、そういう種類の男。

 種類とかじゃなく、男ってそういうものなのか?


 黒く粘りつく得体の知れない太い蔓が、いくら振り払っても心に巻きついてくる。

 その苦しさに、私は大きくため息をついた。



 夫は、私にあのメッセージを誤送信したことに気づいた瞬間、どう思っただろう。

 数秒で消去したとはいえ、私があの内容を読んだかどうか、気になっているはずだ。——後ろ暗い相手への言葉ならば尚更。

 今夜帰宅する彼に対しどのような態度を取ろうか。シャンプーを塗りつけた髪を力任せに指でかき回しながら、私はぐるぐると思い悩んだ。

 帰ってきた途端、不穏な空気を剥き出しにして問い詰めるか。さりげなく「さっきのメッセージって何?」とでも問いかけるか。

 それとも、あのメッセージに全く気づかなかったふりをするか。

 強く問いただしたところで、本当のことを話すかどうかなどわからない。問い詰められた時の上手い言い訳を既に用意している可能性だって高い。 


 散々考えた末、とりあえず今日は「どちらとも判別できない態度」を取ろうと、私は思った。

 機嫌の良い悪いを敢えて出さない表情と声、会話。あの内容を目にしたかどうかが明確にならない態度で、夫に接しよう。そうすれば、夫の心にも曖昧な不安を残すことができる。


 腹立ちまぎれに泡立てたシャンプーが、髪から顔まで垂れて目に染みる。

 再び押し寄せる情けなさに、私は花の香りのするその泡を足元へ叩き落とした。





 その夜、12時少し前。

 夫が帰宅した。

 静かに玄関のドアの開く音がする。

 普段なら私は既に寝ていることも多い時間だ。ベッドに入ってしまおうかとも思ったが、帰宅直後の夫の様子をどうしても観察したかった。

 ダイニングテーブルの上の照明だけをつけ、私はコーヒーの入ったマグカップを目の前に置いて雑誌を広げていた。その内容は全く頭に入ってこないけれど。

 薄暗い廊下を歩いてドアを開けた途端、テーブルに座っている私の姿を目にした夫は飛び上がるほど驚いた。

「う、わ……! び、びっくりした!!」

「おかえり。そんな驚く?」

 私は彼を振り返り、小さく笑った。

「え、だって佳奈かな、俺が飲み会の日は決まって先に寝てるじゃんか……」

「あ、そうだっけ? なんか眠れなくてさ」

 自分でも意識していなかったそんなことを言われ、私は小さく首を傾げてしらばくれた。

「そっか、なんでもなければいいんだけど」

 彼は、心なしかほっとしたような笑顔になった。私が不穏な空気を出していないことに、とりあえず安堵したのだろうか?

「ひー、1週間疲れた。水飲も」

 ビジネスバッグをソファへ置き、食器棚へグラスを取りに歩み寄る夫の横顔を、じっと盗み見る。

 少し酒の酔いが漂う、満ち足りた口元。


 満ち足りた口元、という表現を自分で選んだくせに、そのいやらしさにふつふつと言いようもない怒りが沸き起こる。

 怒鳴り散らしたい衝動を、ぐっと抑え込んだ。

 待って。まだ何も突き止めたわけじゃない。


 ——はっきりした感情を外に出すのは我慢しよう。もっと確かなものを突き止めるまでは。

 そんな落としどころが不意に心に浮かんだ途端、昂りかけた感情はすうっと引いていった。


 そうだ。もっと確かなものを、突き止めてからだ。

 彼の逃げ場を塞いでから、この話を切り出すべきだ。

 私の口から、やっと自然な言葉が流れ出た。


将希まさきもコーヒー飲む?」

「ん、いいや。シャワー浴びて寝るよ」

 グラスの水を一気に飲み干すと、夫は浅く微笑んでビジネスバッグを無造作に肩にかけた。

 ネクタイを緩めて自室へ向かういつもと変わらない背中を、私は黙って見つめた。


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