第38話 8月21日-1 夏の掃除
部室棟に掃除の義務はない。白群高校の本館、教室棟は、クラスごとに教室の掃除と他の一室――例えば音楽室や美術室、トイレなどの掃除が割り当てられており、全体的に美観を保たれている。
部室等は使用する部員が清掃を行う必要があり、それぞれ各部活動の性格が出る。例えば不可解部のメンバーは基本的に綺麗好きであるため、誰かが思いついた時に掃除をしていた。五木は特に綺麗好きというほどのものではないが、埃が多くなってくるとアレルギーのような症状が出るので、積極的に掃除を行っている。
五木が部室に入ると、風名が掃除をしているところだった。ホワイトボードを磨いていた手をいったん止め、五木の方を見る。
「お、おはよう」
十九日、五木が風名に関する記憶を失っていることを教えられてから、何やら顔を合わせにくい。
「おはよう」
風名はそれ以上何も言わずホワイトボードへ視線を戻した。一人が掃除している中、座るというのも決まりが悪いので、五木は本棚の塵落としをすることにする。
五木があるお願いをしようとしていた剣はまだ来ていなかった。掃除をしていればいつか来るだろう。
確か本棚の近くにおいてあっただろう、不織布マスクを探す。埃が入ると鼻がむずむずし、目がかゆくなるから付けないわけにはいかない。
「五木、ボードの上の方拭いてくれない? 本棚は私がやるから」
風名は言いながら五木のいる本棚の方へ歩いてきた。手に持っていた雑巾を差し出す。
「ああ、わかった」
「ごめんね、ちょっと届かなくて」
風名が誇りに弱い五木を気遣って言っていることは当人にも分かった。風名の優しさはストレートなものではない。厚意に甘え、素直に作業へ移る。
ホワイトボードを磨く。本棚の方が天井近くまであり、背は高いが物を取るための踏み台が近くに設置してある。それに乗れば十分上まで届きそうだった。
「ありがとうな」
五木は小さくお礼を言った。風名は五木の方へ顔を向け、何か言おうとした様子を見せたが、本棚へ顔を戻すと黙った。
ホワイトボードを磨き終えた五木は、今度は机と椅子の水拭きへ取り掛かることにした。乾拭きをしなくてもいいよう、固く絞った雑巾を使う。
何かをしていてもあの日から風名とのことで何を忘れているのかをつい考えずにはいられなかった。風名が気にするようなことと言えば、姉の嵐呼日方のことで、自分が何かを言ったのだろうかと、五木は見当を付けていた。ただこれは全くの見当違いだ。
「ねえ」「なあ」
呼びかけようとした声が重なった。互いに顔を合わせ黙る。
「「そっちから」」
再び重なる。
「……昨日、一昨日と言いそびれたけど、僕は記憶を取り戻したい」
風名が手で合図したのを見ると五木は言った。
「理由、聞いてもいい?」
遠慮がちな調子で風名は聞いた。
「このままだと、何を忘れたままなのか知らないで過ごせば、風名を傷つけたままになる。風名は僕の、大切な人だから。いや、変な意味じゃなくて、剣もそう、仲間、だから」
大切なことを、決定的なことを言おうとすると、つい日和ってしまう自分を五木は情けなく感じた。
「だから、心から笑って過ごしてほしいって僕は思ってる。……それだけ!」
五木は一度顔を背ける。それでも風名の表情が気になり、再び視線を戻した。風名の表情は変わらない。また何か見当違いのことを言ってしまっただろうか。五木がそう思った。
「……そんなのいいのに。これだけは言っておくから、記憶がなくなっても、五木は変わってないよ」
そう言ってもらえるだけで、五木の心は軽くなった。変わっていない、ならば一体自分は何を忘れたのだろう。それでも風名が辛そうな表情をする何かを――。
「私はね、君のそういうところが好きだよ」
五木の思考は風名の言葉によって途切れた。突如言われた好きという言葉、そこにしか最早意識は向かない。好きってどういう、いやまさか、これってもしかして、何の意味も持たない思考が頭の中を巡った。わかりやすく混乱している。
微笑んで言った風名の表情を見ても真意はわからなかった。
「それは」
五木の足が椅子に当たると、倒れて大きな音を立てた。風名は音に驚いたらしく、一度大きく震えた。
脚に痛みは不思議と感じない。風名へと近付こうとする。その言葉の意味を問いただしたくて――。
「やあ、おはよ、う」
扉が開き、挨拶と共に入ってきたのは剣だった。思えば今日はまだ来ていなかったらしい。
「大きな音がしたけど、どうしたんだい?」
無表情で倒れた椅子を見ていた。五木は椅子を倒したもののそこまで離れていない位置にいた。当然、風名とも不自然に近い位置ではない。
「掃除を、してたんだ。うっかり椅子を蹴飛ばして……」
「お盆前から掃除してなかったでしょ? それでいろいろ時になってね」
やましいことはしていなかったが、言い訳じみたことを言っているように五木と風名は思った。掃除以上のことはしていない。ただ会話をしていただけだ。
「そっかぁ、僕はお邪魔だったかな? 少し出てくるから続きを――」「まったくお邪魔じゃない! 掃除するのに手伝いが必要だからお願いね」
部室を出ようとする剣を風名は止めて言った。剣が少し厭そうな表情を浮かべたように五木には見えた。綺麗好きと掃除好きは同居しない。それが剣だ。
しぶしぶやっているというのを感じられる動作で、剣は箒を手に取ると、床を掃き始めた。
掃除の続きは明日ということにして、この日は昼まで三人仲良く部室の掃除をした。
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