第32話 8月19日-3 雨の中で

 失態だった。風名はそう考えた。こんなことになるなら、もっとちゃんとシャンプーやら石鹸やらで洗っておくんだった。いやそもそも、雨が降るのを予報で知っていたはずなのに準備を怠った上、午後四時という時間に用もなく五木がいることに考えが及ばなかったのは自分だ。


 五木が傘のない人に傘を渡す人であることはわかっていた。嘘でも友達と帰ると言い、ずらして濡れて帰ればよかった。風名はそう思いつつ少し前のことを回想する。



「なあ風名、帰らねえの?」


 五木が記憶を失っていることを自覚し、気まずい中、午後五時少し前に五木はこう言った。青龍は言いたいことだけ言って退散してしまったのが憎たらしい。


「あー、うん。じゃあ帰ろっかな」


 鞄を持ち上げる。退室。施錠は五木が行った。五木はここで召喚士と邂逅し、戦闘したのだったろうか。その破壊の跡は綺麗に補修されていてわからない。


「っし、オッケー」


 施錠をし終えたらしい五木と並んで歩く。言葉はない。足音と雨音だけが、響いた。……雨音?


「あっ」

「どうした?」

「いや、なんでも」


 傘を忘れた。せっかく汗を流したのに、帰りは濡れて帰らなければならないのか。


 階段を降りた。部活棟の出入口。少し待てば雨が止むなんてことは――。


「風名? どうした?」

「え? あー雨が止まないかなって」


 我ながらこの返答は間抜けだったと後でも思う。


「なんだ、傘忘れたのか」


 ちょっと誇らしげな顔が憎たらしかった。普段はこちらがからかっていることへの意趣返しのつもりなのかもしれない。


「……なんなら入っていくか?」

「あら? 気が利くね。ありがと」

 

 こう言ってしまったのは失敗だった。これも後から悔やんだ。五木のことだからこう言えば面白い反応するかもと思って出た一言だった。


「いい、けど」


 一言そう言って、外に出た五木は折り畳み傘を広げた。



 そして現在、風名と五木は肩を寄せて歩いていた。所謂いわゆる、相合傘というやつだ。はたから見えている甘い雰囲気とは裏腹に、傘の下はどちらも一言も発さず、殺伐としていた。これもやはり傍から見れば初々しいそれに見えるのだろうか。


 風名は汗の匂いがしないか心配だった。シャワーの後に制汗剤を付けたから問題はないとは思っていたがそれでも気になる。というかなんか喋ってよ、風名は心の中でそっと呟いた。


「なあ」

「何?」

「これけっこう恥ずかしくないか?」

「ばか」


 恥ずかしいならやらなきゃいい、それを言う段階はとっくに過ぎていた。五木は風名が雨に濡れて帰ることを許さなかった。対して風名は五木が傘だけ渡して濡れて帰ることを許さなかった。お互いに譲らなかった結果がこれだ。


 妥協して白群高校前駅まではこの状態で帰ることにした。駅に着いたら風名へ傘を渡し、電車に乗った五木は最寄り駅にきょうだいを呼んで傘を持ってきてもらうらしい。

 少し遠回りになってしまうが、仕方がないだろう。傘を忘れ、軽口をたたいた自分が悪い。むしろ五木がいたおかげで濡れて帰らなくてよくなったことを感謝すべきなのだろう。


 雨が傘を叩く音が強くなった気がした。折りたたみ傘に二人は収まらない。五木の右肩は濡れ始めていた。五木の左腕をこちらへ引き付ける。胸が当たるが気にしない。


「きゅ、急になんだよ」

「……濡れたまま電車に乗ったら迷惑でしょ」

「だからって、これは……」


 顔を見なくても赤くなっているのは声の調子からわかった。自分も赤くなっているのは棚に上げる。


 迷惑、だったろうか。ちらりと五木の顔を見る。大丈夫そうだった。表情に乏しい剣と違って、五木は嫌だったら顔に出る。


 歩く速度は遅くなっている。お互いに無言の状況がさらに時間の流れを遅くさせていた。


「ありがとう」

「へ? え? 何が?」


 何に対してのありがとうかは口にした風名にもはっきりとわからなかった。少し考える。


「聞かないでくれて、ありがとう」


 ゴールデンウィークのことを秘密にするのは苦しかったが、自分の口からも言いたくはなかった。


「……それに関しては僕が全面的に悪いだろ。何か……大事なことだったんだろうし」


 五木は変わっていない。そう、ただ単に風名とのことを忘れている。というだけだった。人は変わっていない。風名の好きな、五木のままだ。


 ゴールデンウィーク、その最終日だって五木の気持ちはわからなかった。積み上げた一週間が自分を高揚させた。風名はそう述懐した。青龍は五木も風名が好きだって言ってくれたけれど、本当かどうかはわからなかった。別に記憶が戻らなくとも今の五木が私を好きになってもらえばいい、と考えると気が楽になった。


 白群高校前駅というだけあって、学校を出てからものの五分もかからない。ここまで誰かに見られていないか心配だったが。噂が立つならそれでもいい。テニス部の下山にざやまといい、意外と五木に目を付けている女子生徒はいるのだから。


「風名さーん……着きましたよ」

「ご、ごめん。考え事してた!」

「珍しいな。部活で疲れたのか?」

「うん、まあそんなところ!」


 少し思考に耽りすぎていたらしい。既に駅前のバス乗り場に着いていた。駅前のロータリーはバスやタクシーの乗り場になっており、雨避けの通路シェルターが設置されている。ここまででいいということだろう。


「気を付けて帰ってな。傘はいつでもいいから」

「ありがと。あとお疲れさま」

「おう、お疲れさま。じゃあ」


 通路シェルターの下を五木は歩いていく。


 今日はさよなら。ここで押せない自分を風名は少し情けなく感じた。


「だって、どうしたらいいかわからないんだもん」


 誰に聞かせるでもなく一人零した。

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