第30話 8月19日-1 シャワー室にて

 トスしたボールを目に捉えると、一瞬制止した箇所が太陽と重なった。眩しさに目を細めながら、伸びあがった肢体をバネのように使い、ラケットでボールを打つ。回転の少ないフラットサーブは十分な速度でネットを超えた。


 サービスエースが決まった。その確信を嵐呼風名あらしよびかぜなは得ていた。

 

「ゲーム 、嵐呼。トゥーオールタイブレーク。似鳥にとり、トゥーサーブ」


 ゲーム数は再び並んだ。練習試合なので一セットのみの三ゲーム先取としているのでここでタイブレーク。このゲームで最後。


 相手の似鳥という選手は他校の二年生だ。二ゲームを先取された風名が何とか食らいついている。そんな状況だった。


 不可解部中心で部活動を行うことを義務付けられていることもあり。風名の部活動の出席数は多くても週四回が関の山だった。


 タイミングがいいのか悪いのか、本日は他校二校を招いての練習試合だったらしく。今こうして他校の選手と試合をしている。


 魔法を使うための基礎体力作りで行っているのがこのテニス部だった。逆に言えば魔法がない場合、その身体能力は一般的な女子高校生と大差ない。




「ゲームセット。アンドマッチ似鳥。セブンスリー」


 魔法は使わない。正々堂々競技を行うからには当然相手が強ければ負ける。


「「ありがとうございました」」


 似鳥と声が重なった。ネットに寄り、握手を交わす。似鳥は風名よりは少し小柄だった。少し日焼けしていて、細い。見た目は華奢きゃしゃなのにショットのパワーは強かった。年数が一年多く、何かしらの技量があるのだろうか。


「嵐呼、って言うんだ」


 手を握ったまま似鳥は語り掛けてきた。日焼けしたその顔は耳すら出したショートの髪も相まって少年にも見える。顔を見ていると腕を引っ張られた。


「わっ」


 簡単にバランスを崩し、ネット越しに抱き留められる。似鳥が何を考えているのかわからない。


 ネットとTシャツ越しに似鳥の体温と筋肉を感じた。それに比べると自分はいささか柔らかすぎると風名は思った。決して太っているわけではなく、むしろもう少し体重を増やした方がいいと言われる彼女でさえそう思うくらいに似鳥は筋肉質だった。


「えと……すみません」


 あまりの急な出来事だったのでそれだけしか言えなかった。むしろ引っ張ったのは相手なのだから、こちらに責はない。


「いい試合だったよ! ありがとう」


 似鳥は離れると笑顔でそう言った。ラケットを持っていない左手で銃の形を作り、風名の眉間に人差し指を軽く当てた。


 この似鳥ってコ、同性にモテるタイプか、風名は離れていく似鳥の背中を見ながらそう思った。


 時刻は午後三時を少し過ぎた。似鳥との試合が本日の最後だった。他のコートではまだ試合が行われている。そろそろ不可解部に行かなければ。この時間なら誰もいないだろうけど、毎日部室に顔を出すのは義務だ。


 気候も相まって汗だらけだった。天気予報では雨が降ると言っていたせいだろう。空は雲に覆われ始め、何やら湿気も多く感じられた。


 シャワーを浴びて着替え、それから不可解部へ行くことにした。家までこの状態は耐えられない。


 部長に辞する意を伝え、テニスコートからグラウンドへ向かう。グラウンドの更衣室にはシャワー室がある。


「風名ー、惜しかったねー」

「もうちょっとだったのに」

「あー、うん。でも最後のゲームはほとんどやらっれっぱなしだったよー」


 話しかけてきたのはテニス部の一年生女子、つまりは同学年に当たる二人組だった。

 背の高い方、とはいえ風名よりは小さく、髪が首の半ばくらいの長さの子が上末うわずえ。語尾が少し伸びる。もう一人、上末より背が低く、今は髪をまとめているのが下山にざやまだ。ダブルスを組んでおり、流行に乗って、上下じょうげペアなんて呼ばれている。小学校の時から一緒らしく仲良しさんだ。

 

「もうあがりー?」

「うん、もう一個の部活に出なきゃだから」

「もう一個ってあの不可解部?」

「そうそう。顔だけ出さないといけないんだ」


 不可解部、正しくは地域不可思議解明部なのだが、この略され方でだいぶ損をしている感は否めない。


「風名は全然普通なのにねー。あ、ちょっと優等生過ぎるのが変なところかもー」

「あー確かに。学年一位でテニスでは二年と勝負できるし、生徒会!」

「ちょっと盛りすぎだよねー。顔もかわいいしー、スタイルもいいしー」


 あまり褒められると悪い気はしないが居心地は悪い。不可解部以外では地の性格はできるだけ出さないように、親しみやすい優等生キャラを演じている。そのせいか友人は多い。どっちも自分だ。

 

「ちょっと」

「照れてる! かわいー」


 上末に抱きしめられる。さっきの似鳥といい、抱きしめるのが流行っているのだろうか。


「でも不可解部って怖い人いるよね。風名は大丈夫?」


 怖い人、一体どちらだろうか。風名は少し考えた。目が少し鋭く睨んでる印象を与える五木? それともクールで冷たい無表情の剣? どちらだろう。二人とも怖い感じはしないけど、と風名は思った。

 

「ほらあのサムライみたいな人」


 ああ、剣か、下山が言った特徴ですぐに思い当たった。確かにあの風体はいささか現代離れしているからそんな印象だろう。


「剣くん? でも顔がいいよねー。美少年って感じー」


 そう言ったのは上末だ。確かに剣の顔は良い。髪で顔が隠れていないのもあるのだろうか。


「私はどちらかって言うとー、五行君の方が怖いかなー、いつも一人で友達少なそうだしー」


 上末の言う通り、確かに五木が友人といるのを見たことはない。鎌時君と、本屋さんという珍しい名前は五木の口から聞いたことがあるが、会ったことはない。風名も最近は実在を疑い始めていた。


「でもでも、あの人優しいんだよ。木から降りられなくなった猫ちゃんを助けてたんだ」

「へえ」


 五木はそんなことをしていたのか、そんな話を聞いて、風名は少し顔が熱くなったのを感じた。


「でも、木に登って猫ちゃんを抱きしめたところまではよかったんだけど、今度は自分が降りられなくなって、ふふふっ」


 下山はその時の光景を思い出したのか笑い始めた。確かに猫を抱いたまま降りられなくなっている五木を想像するとなかなかに滑稽だった。


「それでね、あっ、友達と歩いてたんだけど、急に彼が『そこのお嬢さんタオルかなんかを二人で持って広げて、できるだけ真下に近付いてくれないか?』って」


 下山がする五木の声真似が微妙に似ているのに風名は笑った。


「お嬢さんなんて言うから笑っちゃった。それで無事猫をキャッチしたら彼がスルスルと木から降りてきて、お礼を言ったときはなんだかドキッとしちゃった。髪の毛で見えにくいけど近くで見ると整った顔でね。面白くて優しい人だなって」


 語る下山の頬が少し上気しているように見える。あれ? このコもしかして。


「なんだー、不可解部って結局何ー? 美男美女を集めてるー……?」


 下山の様子には築いていない様子で上末は言った。不可解部が何かは風名も聞きたいくらいである。


「あっ、ごめん風名。部活行かなきゃなのに……」

 

 下山は申し訳なさそうに言った。困り顔がとても可愛らしい。


「あーいいよ。誰か待たせているわけじゃないし、だれもいないとおもうから」


 困らせるのは趣味じゃない。まだ時間はある。逆に試合の疲れと緊張感が去ってよかったくらいだった。

 

「じゃあ風名ー。またねー」

「ばいばい」

「また今度ね」


 二人と別れた。時間には余裕がある。シャワーで汗を流しても問題はないだろう。

 更衣室には誰もいなかった。これ幸いと、魔法で空気の流れを作る。更衣室は覗き防止の為、窓を潰している上にエアコンもない。夏は本当に暑い。空気が流れているおかげで体感温度はいくばくかマシに感じられた。


 自分のロッカー番号へ向かう。907とアラビア数字で書いてある。個人に決められたロッカーはない。空いているロッカーには鍵が刺さっていて、その中から適当に使うシステムだった。私物を長く入れておかないようにするためだとかで、時々チェックが入る。


 ロッカーの前に到着すると鍵を開け、鞄からタオルと替えの下着を出す。シャツとスカート、ニットベストはハンガーにかけてある。


 ジャージと短パンを脱ぎ、上下の下着を外す。汚れたものはビニール袋に放り込んだ。裸になったことによって汗が乾いていく。気化熱が心地よかった。


 タオルを持ち、シャワー室へ。すりガラスの引き戸を開ける。並んでいるシャワーブースのカーテンはすべて空いているから無人だろう。適当に選んで入り、カーテンを閉める。サーモスタットの表示を確認し、お湯を出す。


 低めの温度で体を、熱くなった筋肉を冷やす。時々肌を撫ぜ汗を落とす。お湯の方がいいのだろうが今はこのまま。しばらくしてから徐々に温度を上げる。シャンプーの類は用意されていない。髪を洗う。お湯の流れるままに任せる。


 五木のことを考えてしまう。さっきの下山のせいだ。五木のことを知れば彼が優しい人間なのはすぐにわかる。

 

 優しいだけではなく、降りられない木に登って猫を助ける勇気もある。木なら青龍の力でも借りればよかったのに、と思う。それなら登らずとも助けられたはずだ。もっとも木が自ら猫を降ろすなんて光景は誰にも見せられないだろうけど。


 一生のことを語る下山の様子を見て生じた気持ちに、自分が嫌になる。十日ほど前、雅金といた五木を見た時と似たような感情。彼は自分のものではないのに。どんどん欲しくなる。この気持ちはいつからなのだろう。あの時助けられたから? いや、それは自覚したときだ。それよりも前に、確かに彼に惹かれていた。


 自分の体に触れる。何度か握った彼の手、その感触を想像しながら。意志とは別に、体は電気が流れたように小さく反応した。

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