Big_Brother_is_watching_me.html

 腐れ縁たる二人の親友。男と女の両者とは、小学校からの付き合いだ。

 男のほうの名前は佐藤忍。女のほうは井上境子。二人は腐れ縁で親友――小学生時代は一緒に風呂に入っているほどの仲で、喧嘩こそあれど、今日に至るまで絶交にまで届くような巨大な亀裂を生じたことはない。喧嘩するほど仲が良い――それを体現したような関係性だ。

 忍は前髪が長く眼鏡をかけていて、薄い交友関係の者には地味な印象を植え付けているが、前髪を搔き上げ眼鏡を外すとそこには美男子が現れる。「眼鏡はステータス」などと宣っているが、僕から言わしてもらうと、彼は前髪をセットして眼鏡をコンタクトに変えれば、今以上に女性に好意を抱かせられるはずである。なぜそれをしないかと訊ねると、ステータス云々の話が確実に彼の口から飛んでくるため、彼にとって眼鏡は、彼を構成する一つの器官――アイデンティティーなのだろう。

 境子は茶髪で短髪。肩にかかるかかからないかぐらいのショートボブは、彼女の活発さを周りの人間に与える要素の一つだ。実際彼女は誰に対しても明るく分け隔てがない。いつも笑って明るく悩みがなさそうな女子――他人が受ける印象は大抵こうなのだ。

 彼女は女子バレーボール部に所属していて、最終的な立ち位置は部長かつエース。何度か彼女の試合を観に行ったことがあるが、一八七センチという高身長を活かし、僕が観たどの試合でも得点を大量に叩き出していた。部内では彼女の背が一番高いわけではないが、他の部員の心の支えとしては彼女の右に出る者はいない――紛うことなきエースである。

 ――正午を過ぎた。他の学校は知らないが、我が母校の卒業式は既に終了している時間だ。

 二人には、僕が体調不良で欠席していると担任から口頭で告げられているはずだ。卒業証書や記念品、上履きや体育館シューズといった学校に残してしまっている荷物を届けに家までやって来ると思われるため、二人とのLINEグループに僕の変貌について驚かないでほしいと詳細を省いて伝えた。直後に境子からメッセージが返ってきたが、それは当然疑問を投げかけるものだった。百聞は一見に如かず、ということで詳細は僕に会ったら分かると伝え、スマホの画面を消した。

 今日僕がやることは――二人に会って変わり果てた僕を説明すること。

 大学に係わる書類変更、申請などは親が全て行ってくれている。精神的に不安定な状態はまだ治まっていない。大学には全てこちらが掛け合うからなにも心配する必要はない、と父は言った。もちろん、僕抜きで話が収まるとは思っていないので、無事に入学するためにも幾分か我慢しなければならないだろう。それは、致し方あるまい。

 僕が大学のためにやること――証明写真の撮り直しだろうか。変わる前の僕と、今の僕の顔は、別人とまではいかなくとも、前の顔を参照して女性用に再構成、最適化されていて、おまけに可愛らしく加工されている。通うことになるはずの大学の学生証に載る写真は、願書提出に際し撮影した証明写真が流用される。これでは学生証の提示が必要になったとき、その写真と今の自分の顔が異なる。これではあまりにも不都合だ。

 女性の証明写真……メイクはするべきなのだろうか。いや……証明写真なのだから、素の顔が必要だろう。

 メイクを要求されたところで、僕がまともに自分の顔を魅せられるとは思えない。――どうしたものか。

 ――幾分落ち着いてきた心を更に鎮めるため、本棚の最上段にある読みかけの本を取ろうとして、つま先立ちになる。それも当然か。元の身長から二十センチは縮んでいるのだから。小さい背丈――これは、今後の私生活に支障をもたらす要因になり得るだろう。


「くっ……ううっ――と、取れない」


 最終的にジャンプして取った。


    ♀


 思い出し、着替える。まだパジャマ姿のままだった。

 サイズが合わない大きなズボンを下すと、それにパンツが続いてしまった。器官の周りに生えていたはずの毛が一掃されているが、これは誰の差し金によるものか。

 ともかく僕は、クローゼットからジーパンを引っ張り出し、裾に足を取られないように内側に折り畳んだ。穿いて、ずり落ちないようにベルトは一番きつくしまる穴の位置で固定する。

 胸あたりに『Big Brother is watching you.』と某SF小説の一節が黒色でプリントされた白地のトレーナーを着て、その上から青色のフード付きパーカーを着る。トレーナーもパーカーも、袖がかなり余る。

 ――萌え袖と形容される一種のファッションがある。これは意図的に自身に合うサイズよりも大きなものを着て袖を余らすことにより、自身を蠱惑的に魅せようとする恋愛における高度なテクニックだが、僕がトレーナーとパーカーを着た場合萌え袖どころではなくなる。袖の話だが、これではまるで長袴だ。ファッションにしても限度があるだろう。これではただただ邪魔になる。繁華街の食べ歩きには絶望的な服装だ。萌え袖を好んで行う女性のファッション根性には脱帽するが、さすがにこのレベルは女性らも遠慮願うだろう。

 溜息をつきながら、椅子に座る。

 ――腕をまくって、掌を広げてみる。小さく、細い。いかにも女性らしい。簡単に折れてしまいそうだ。

 腕を見てみる。華奢な腕が描く筋肉と皮膚の曲線は美しく、西洋の彫刻家が巨石から削り作った芸術品にも匹敵する。

 声を出してみる。高く、特徴的な声質だ。僕はあまり観ないので分からないが、こういう声は世間ではおそらく“アニメ声”と呼ばれる、声優が出していそうな声になるのではないか。確かに、自分で出していてもそうだが、この声を私生活で聞くことはなかなかないものだろう。

 いろいろ見て、出して、聞いて――本当に自分が女性になってしまったのだと、改めて実感した。

 この事象を便宜的に性転換と呼ぶが――僕に性転換を施したのは一体誰で、なんの目的があったのか。

 僕の就寝中に行われたこの性転換は、どんな目的であろうと人間が行ったものではない。人間以外のなにかが起こしたこの事態――人の迷惑を考えてほしいが、仮に性転換を実行したのが神だった場合、僕はその神を百代先まで怨む勢いで無神論者になり、近所の神社に火を放つかもしれない。

 神でなければ、悪魔か。悪魔の悪意か気まぐれかで、僕は女性にされてしまったのか。――悪魔なら、神よりも少しだけ腑に落ちる。悪魔はその名の通り悪だから、人に悪いことをしでかすのではないか――それはそれで、なかなかどうして質の悪いものがあるが。

 これから、どうやって生きていくのだろう。考えると気が遠くなり、頭が痛くなる。しかし――事前に考え、備えておけば、なにか性別に係る問題が発生したときに対処しやすくなる。

 例えば、プールに入るとき。例えば、温泉や銭湯に入るとき。例えば、出先でトイレに入るとき。

 例えば――女の体の不都合。

 課題は山ほどある。直面する前に対応策を考えておくことで、生活にも余裕が生まれるはずだ。


「……」


 ひとまず今は、本を読もう。僕は読みかけの本――とある有名なミステリー小説だが、一〇〇ページあたりに挟んだスピンから本を開き、親友の二人が来るまで読書に耽ることにする。


    ♀


 境子からの「そろそろ家に着く」というメッセージを見たのは、インターホンのチャイムがなってからだった。それまで僕は本を読むのに集中していて、周りの音が聞こえていなかった。

 小説を机に置き、階下の音に耳を澄ませる。母が親友二人を通し、二階に上がって僕の部屋に行くよう促している。

 不思議と、鼓動が早くなる。いや、これは必然か。いくら腐れ縁だからと言って、十数年と付き合ってきたからと言って、二人が今の僕を受け入れてくれるとは限らない。

 受け入れてくれなかったら、自分はその後、どうなるか。

 多分、立ち直れなくなると思う。どちらか一方に否定されても、一ヶ月は泣き腫らすと思う。

 ――鼓動が激しさを増す。両手はそれを覆い隠す袖を握りしめ、瞳は影を落とす。

 二つの足音が上がってくるのが分かる。もう少しで、僕の部屋の前に着く。

 深呼吸を一つ。不安は拭えない。でもやらないよりはマシ。

 そして足音は、僕の部屋の前で止まる。

 ノックが三回。


「来たよ。入るね?」


 女の声は境子のもの。僕は一つ間を置いてから「どうぞ」と答えた。


    ♀


 境子はこの僕の姿を見て、体の全機能を停止させた。これはもちろん物の喩えだが、表情の変化はなく、体はピクリとも動かなくなってしまっていた。

 その動揺方法は大体予想通り。後ろにいる忍の問いかけで、たっぷり五秒停止した境子は再起動を果たす。


「――え、え?」


 動き出してからも分かりやすく動揺する境子は、廊下に出てこの部屋が友人たる僕の部屋だったかを確認するが、長い付き合いである彼女は僕の部屋を間違えたりしない。LINEで「驚かないでね」と伝えたが、さすがに無理があったか。そこは反省するとし――境子、どうか安心してほしい。ここは僕の部屋であり、ほかの誰のものでもない。当の境子はこの僕が僕とは認識できていないようだが、致し方のないことだ。こればかりはしょうがない。僕だってどうすればいいか分からないのだし。


「……、女装か?」


 後ろから歩みより、しゃがんで僕の顔を見る忍。忍は、こうなった僕を僕であると認識できたようだ。母と同様、僕が女装しているのだと誤って認識している。――いや、現状そう認識するのはむしろ正常であり、誤っているのはどちらかと言うと僕のほうなのだが、しかし実際僕は女装していない。


「違う。これは女装じゃない」

「女装じゃない? となると――」

「いやここ緋彦の部屋じゃん! じゃあまさか――」


 自分の記憶が正しいか確かめていた境子が、ようやっと部屋に戻ってきた。

 しゃがむのをやめて顎に手を当てる忍と、駆けてきて僕の両肩を摑んで顔を覗き込む境子が、口を揃えて言った。


「なんで女になっているんだ? 緋彦」

「なんで女の子になっちゃったの!? 緋彦!!」


 ――それは、僕が一番知りたい。


    ♀


 動揺も興奮もしている境子を落ち着かせ、取り敢えず二人を座らせる。いまだ僕の顔を観察する境子と、僕の近くに腰を下ろし胡坐をかく忍。そろそろ境子の視線と顔の近さに耐えかねてきたので、話を始める。


「一応言っておくけれど、僕は正真正銘、戸田緋彦。……朝起きたら、いつの間にか性別が変わっていたんだ」

「声可愛い!」

「抑えろ」

「……もしかしたら寝ている間に僕が元々女だった場合の世界に飛ばされて、その世界の僕にこの僕の魂が憑依したとか、そういうことなんじゃないかって思ってた。それか、世界が丸ごと変わって、その影響で僕が女の場合の世界になってしまった、とか」

「だがそうではなく――緋彦だけが変化していた、ということか」

「うん」


 理解が早くて助かる。学校の成績が関係あるか分からないが、忍の洞察力や観察眼は凄まじい。ゆえに疑い深くもあるのが忍という男だが、僕の話はすんなり聞き入れてもらえた。僕を信頼してくれているからだろうか。そうだと嬉しい。

 境子は、どこか物珍しそうに――というかなにか楽し気に、僕の話を聞いていた。

 ていうか、顔が近い。そんな近くで見られると、さすがに緊張してくる。境子の肩を摑んで押し返すと、「あー」と口にしながら背後のクッションに倒れ込む。そんなに力を加えていないので、境子はわざとやっている。


「誰がなんの目的でやったのか分からない。僕の性別を変えて、一体なにが楽しいんだろう」


 この先、男として生きてきた僕に、女としての生き方を遂行しなくてはならない場面が多数出てくるだろう。それに、僕はしっかりと対応できるようになるだろうか。


「でも、こうして性別が変わってしまった以上、自分ではどうすることもできない。性転換手術は今のところ受けるつもりはないけれど、もしかしたらっていう場合もある。ただ、向こう数年は、多分このままだと思う。二人は――」


 再三言うが、佐藤忍と井上境子は僕の親友である。ともに笑い、ともに怒り、ともに悲しみ、ともに慰め、ともに歩んできた。性別が変わるというのは、傍から見たら衝撃的であり、友人であっても形容しがたい衝撃は心に深く突き刺さる。

 それでもこの僕に、二人は付いてきてくれるだろうか。


「――……」


 言葉が出なかった。二人がどう答えるのか、知らないうちに怖がって、体が拒否しているのだ。

 知りたくないなら訊かなければいい。だが、自分は知りたい。知りたいと思っているから、訊こうとしているのだ。

 息を吸う。たっぷり三秒。そして言う。


「――二人は、僕と友達でいてくれる?」


 言葉を聞いた二人は顔を見合わせる。そしてすぐ僕に向い、言った。


「当たり前だろ。何年つるんでいると思ってんだ」

「当たり前でしょ。女の子になっても緋彦は緋彦!」


 その答えが出てくるのを、心のどこかでは少なからず期待していたかもしれないが、面と向かって言われると、恥ずかしさもあるが、それに勝る喜びが僕を頭から爪先まで貫いた。

 嗚呼――僕は、二人の友達で良かった。


    ♀


 友情を確かめ合ったところで、僕は二人から質問責めにされる。

 男から女に変わって、肉体的な違和感は感じるか。女性は記憶を感情と結べつけるらしいが、その点の情動の変化はあるか。女性は感じ取れる色の量が男性のそれより多いが、普段見ていた光景と色鮮やかになった――そういった変化はあったか。

 女性になって人に対する感情の持ち方が変わったと思うが、今自分たちを前にして、どう感じているか。

 正直質問が多過ぎて――特に忍からの質問が多く、この場で全てに答えるのは少々至難の技だった。彼は気になることにはとことん突き詰めていくタイプで、例に及んで彼からの大量の質問――マシンガントークというより、マシンガンクエスチョンというべきか。忍には質問を紙でもLINEでもなんでもいいから文字に起こして送ってほしいと伝えた。

 境子からの質問はそこまで多くなく――それこそ片手の指で事足りる量だった。――月経と、それに係るホルモンバランスの変化について訊かれて、さすがにどう答えればいいのか分からなかったが。そも性転換して一日経ってすらいない。今後、僕の体がしっかり女性の躰に変化いるのであれば、至って自然な生理現象として月経が起こる。彼女の問いには、それを乗り越えてから答えよう。

 ――生理か。少し……ほんの少しだが、怖く思っている。生理そのもんではなく――生理痛に。

 生理痛は、人によって感じる痛みが違うらしい。下腹部に少々違和感を感じるだけで、痛みをほとんど感じない人がいれば――腹をハンマーで殴られたような激しい痛みを感じる人もいる。この例に倣うと、前者が境子で、後者が母。苦しみ寝込む母の姿をこれまで幾度となく見てきたので、母の体質を受け継いでいるのであれば――僕は、果たして生きながらえるか。


「……」


 どうしよう。怖い。

 明くる日の母を思い出す。あれは僕が小学六年生のときの話で、夏休みも最後の一週間に差し掛かった猛暑日の出来事。

 六年生で、その頃には距離が長い外出をある程度許されていたため、僕はその足で図書館に通っていた。――その日は昼食を済ませたあと、一人で図書館に向かい、本を読んでいた。

 閉館とともに帰宅したが、しかし僕は家に上がって廊下を進んだところで、普段はリビングから聞こえる生活音――母が食材を切る音や洗い物をする音がリビングから伝わってこないことに気付いた。不思議に思いながらリビングに繫がるドアを開けると、そこには下腹部に手を当ててフローリングに蹲る母がいた。

 母の生理痛の激しさはかねてから知っていたため、僕は気を動転させることなく母の手助けを遂行できたが……そうだ、母の子宮は、母が冷たいフローリングに蹲るほど激しい生理痛を引き起こしてしまっていた。もしそれが、僕にも起こるとしたら。


「怖い」

「なにが?」

「……生理痛が」

「ああ」


 境子が「なるほど」と左の掌に右の拳を打つと、鞄に手を突っ込んでなにかを探し始めた。

 なんだろうと疑問に思っていると、境子は十秒も経たないうちに、銀色の物体を取り出した。

 ――錠剤やカプセルを包装する、アルミとプラスチックのパッケージ。いわゆるPTPと呼ばれるものだ。プラスチックの覆いから透けて見えるのは錠剤で、桃色。

 もしかして、生理痛に効く薬なのか。なるほど。いくら境子といえど、こういう薬に頼らざるを得ない場面に出くわすこともあるのだろう。


「これはあれ。ロキソニン。私のじゃなくてお母さんのなんだけど、どういうわけか入ってた。多分朝、机に置いてあったやつが入っちゃったんだと思う。今朝はちょっとバタバタしてたからね」

「あ、境子のじゃないんだ。そうか――ロキソニン、母さんも飲んでるな」


 頭痛や生理痛、その他諸症状に効くロキソニンは、生理痛に悩む母にとって必需品だった。これを飲めば、飲まないよりも遥かにマシになるという。僕が見た限り、それほど大差ないように思えたが、感じている本人にはその違いが分かるのだろう。


「私はこれ、必要ないからね。――だからといって激しく動いたりはしないけど」


 薬を鞄に戻す境子。

 いくら生理痛の度合いが軽くても、それはそれ。生理――月経中の運動は、境子の言葉を汲み取る限りでは、控えたほうがいいのかもしれない。……まあ、月経あるなし関係なく運動は嫌いではある。やるかやらないかは――それはそれ、ということで。

 月経や生理痛に係る話はひとまず打ち切り。

 本来、今日は卒業式。卒業生の僕は出席する満々だったが、躰が作り替わった影響でやむなく欠席した。あれほど練習した合唱曲――『大地讃頌』と『河口』を音楽の時間、また学年集会などで練習し、歌唱力を着実に身に付けてきたのだが――無駄になってしまった。テノールパートで、クラスのパート内では結構上手く歌えていただけに、ほんの少し残念な気持ちになる。


「隣に立ってた葵、歌いながら泣いてたよ。でも涙が流れてただけで、歌は凄かった」

「ああ。たしか、葵さんは音楽大学に進学するんだっけ。声楽、だったかな」

「そうそう。だからその辺、私たちにとってはもうプロの領域なんだろうね」


 二人から渡された、卒業証書と記念品。「おっほん」と胸を張って偉そうな仕草をする境子――本人曰く校長の真似らしいが、そんな境子から受け取った卒業証書は、それを手に取っただけでも、高校生活が終わりを迎えてしまったのだなと実感させてくれる。心にじんわりと染み渡る一抹の寂しさは、三年間の高校生活が僕にとって充実したものだったという代えがたい証拠だろう。この気持ちは、大切にしていきたい。

 二人が僕の部屋に来て三十分。式を終えてからクラスでパイ投げが行われていて、そのなかでも境子が一番暴れ回っていたという話を忍に聞かされ耳を疑ったところで――部屋の扉が、なんの前触れもなく開いた。

 ノックもなく開けてくるのは、僕の部屋に訪れる者のなかでは――妹の朱乃あけの、ただ一人。

 当然、僕にも思春期はやって来た。忍やクラスメイト、または父から譲渡されたいかがわしい本やブルーレイでこともある。――そろそろというときに音も出さずノックもせず部屋に入って来るものだから、僕は朱乃にノックを徹底するよう言い込んだ。が、結果はこの有様だ。

 ……これは閑話だが、当時僕は布団を被りながら行為に走っていたため、妹に直接的な現場を目撃されはしなかった。その後は、体調が悪かったという理由をでっちあげて功を奏したが。

 ともかく妹にとって、僕という兄の部屋にはノックせずに入ってくるのが当たり前なのだ。

 そして今日も今日とて、ノックなしで入室を果たした。


「あっ」


 境子がしまったと瞠目し、


「……」


 忍がなにも言わず妹を見て、


「……っ」


 僕は顔を俯かせた。

 今しがた、僕の性転換について親から聞かされたのだろう。朱乃は怪訝な顔を見せている。――例えば僕が親から朱乃が朝起きたら性別が変わっていたという旨の話をされたら、いつも通り母がなにかよく分からない話をしていると僕は気にも留めないだろうが、しかし朱乃は僕の話が気になったのだろう。母から荒唐無稽な話を聞き、気にはなったので疑いつつ僕の部屋に訪れたのだ。

 さて、もう少しで朱乃が扉を開け放ってから、十秒を迎える。境子より倍長い硬直を経て――朱乃は廊下を走って行った。


「……ええと」

「話してなかったの?」

「うん。今日は初めて会う。……多分下で、僕のことを聞いたんじゃないかな」


 てっきりなにかネガティブな言葉を投げかけられると勝手に思っていた僕は、朱乃の行動がどういう意味を持っているのか分からず、僕の前に座っている、二人を見る。忍は開いて廊下が見える扉のほうを見ていて、境子は首を傾げていた。

 気が動転して、なにをどうすればいいのか分からず、取り敢えず自分の部屋に閉じこもったのかもしれない。その気持ちはよく分かるし、朱乃が男性に変化したら僕もその現実に耐えきれず卒倒するかもしれない。……しかしそれは、僕のような突拍子もなくなんの前触れもない性転換の場合の話であって、本人の選択による性転換ならまだ分からなくもないが――いや、それはそれで、完全に受け入れられるようにするまで時間を要するかもしれない。もちろん性転換が悪ということではなく、これは僕の心のキャパシティの問題であって。


「――なんか、暴れてないか」

「どったんばったんしてるね。暴れてなんとか心を落ち着かせようとしてるのかな」


 忍と境子が言うように、どういうわけか朱乃の部屋から、物が落ちたり壁に当たる音が伝わってきて、時折「これじゃない」とか「これでもない」と一体なにについて言っているのか分からない、独り言にしては声量の大きい声が飛んでくる。

 なにが起こる。妹は、朱乃は、これからなにをしようとしているのか。

 それからしばらくして、ガチャバンッと乱暴に部屋から出た妹は廊下を走り、同じく僕の部屋の扉が可哀想になるほど乱暴に開けられた。

 扉を開けた女は、荒い息を抑え、左手にメイク用品が入ったプラスチック製のかごを持ち、右手に白いフリルがふんだんにあしらわれた黒いドレス調の衣服をハンガーごと持っていた。

 目は血走っていて、口端から漏れ出る息は妙にいやらしい。この黒い服が似合いそうな女性を見つけて、なんとしても着せてやろうという――私利私欲を満たそうと興奮する女が、そこにはいた。

 ていうか妹だった。


「――兄貴! ゴスロリ着てっ!」

「へぇっ!?」


 それを――そのフリフリした、その黒く白く恥ずかしいそれを着ろというのか。

 生理痛以前に妹が怖かった。

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