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Schrödinger's MF

I_want_to_live_in_peace.html

 朝起きたら性別が変わっていた。こんなこと本当にあるんだなと、妹の部屋にある姿見の前に立ちながらのほほんと考えていたが、よく考えると“立ちながら”よりも“立ち尽くしながら”と形容したほうが現状を表現するには正しい。

 手を当てる――。自分の下半身に生えていたはずのものが、綺麗サッパリ消えてしまっていた。代替物というべきか、通っていないはずの、別の穴が開いていた。

 手術痕はなく、僕が寝ている間に誰かが切り取った可能性は万が一にも有り得ない。

 胸には乳房があった。痩せ型で鍛えてもいなかった貧相な胸板には、女性特有の柔らかな脂肪が付いていた。が――それはそれでかなり控え目。胸を張っても張れるものがこれではどうしようもない。

 臀部も丸みを帯びている。こちらも自己主張はそこそこだが、しかし女性らしい。

 背丈が縮んでいる。以前学校の身体計測で測ったときは一六八センチだったが、今の背は……一四〇あればいいほうか。

 呪いの人形かと頭を抱えたが、その頭から生えた毛髪は著しい成長を見せていた。膝丈まである黒い髪だ。艶やかでサラサラで、部屋の蛍光灯の白色を反射させている。

 おまけに顔は――随分と可愛らしい。小さくなった頭とその顔面に、二重の大きな瞳、ツンと立った睫毛にキリっとした細い眉毛、小さな鼻、桃色の唇……ファッション雑誌のモデルやテレビに出るようなアイドルにでもなれるレベルではないか。また、この顔――全く別人の顔ではなく、母と父から受け継いた遺伝子からの最適解――最も可愛く、それでいて美しくなるように再構成したかのような顔面だが、しかし顔のパーツと配置が完全に整っているがために、人間より人形の顔という印象を受け、僕はむしろ怖く感じた。創作でよく言われる“ご都合主義”とはまさにこのことだろう。

 ――姿見から離れ、躰全体を観察する。

 既存の言葉で言い表すなら、スレンダーがお似合いだろうか。女性特有の、下半身にかけて魅せる丸く美しい曲線美。背は小さいが、要所は既に完成されていて、この手の女性を好む男性には喉から手が出てしまいそうになるほどの逸材ではないだろうか。

 ああ、美しい。どういうわけか、寝て起きたら躰が変貌し終えていて、自分は自分ではなくなっていた。この自分のようでいて別人のような躰が、今日から自分になるのだと意識すると、胸が震える。

 実際に震えたわけではない。これは比喩表現だ。震えるような胸はついていない。

 しかし、僕は胸が震えるのを感じた。このときの気持ちは、誰にでも理解できるはずだ。


「――嘘だぁ」


 打ちひしがれ、僕はその場に崩れ落ちた。

 鏡は残酷なまでに現実を映し出す。そこに映る自分の貌を、僕は受け入れられず、受け止めることもできなかった。


    ♀


「ううううう」


 漏れる声を抑え、クローゼットを閉めた。もしかしたら世界丸ごと改変されていて、自分が女性だった場合の世界にトリップしただけかもしれない――と期待を込めて開けてみると、普段着や寝間着、制服などなにからなにまでそのままで、世界が変わったのではなく自分だけが変わってしまったのだと理解してしまい、またその理解を撥ね退けてしまいたい男としての理性が直面した現実とぶつかり合い、思考が混乱してしまう。


「……」


 に、この事態。僕は一体、どう動けばいいのだろう。

 ここで思い出し、立ち上がって部屋を出る。妹の部屋に下着を置き忘れていた。今は幾分か冷静さを取り戻したが、この事態に気付いたときはかなり気が動転していた気がする。その後、まるでゾンビかのような重く遅い足取りで自室に戻ったが、そのとき脱いだ寝間着や下着を妹の部屋に置きっぱなしだった。

 幸いなことに妹の眠りは深く、大きな物音――それこそ室内で音楽を大音量で鳴らしても起きないため、自分が部屋に忍び込んだところでバレはしない。

 特に今日は急がなくては。大事な催事があるのだから。

 思い至り、部屋を出ようと扉を開け、部屋を出ようとしたところで、


「あら――貴方、卒業式だからって、女装はどうかと思うわよ」


 僕と妹を丁度起こしに階下から上げってきた母と目が合い、僕は意識が遠のいた。


    ♀


 姿は変わり、僕自体に僕を証明できる痕跡は跡形もなく消え失せた。ここで僕が僕であると証明するための有効な材料は、一つたりとも残っていない。

 しかし母は――幸いなことにも勘違いしている。僕に女装の趣味はないが、卒業式という校則が一時的に緩んでしまう貴重な日であるため、ここは一つ仮装でもしてふざけておこう――母は、目の前の息子がそういう突拍子もない理由で女装しているのだと結論付けているのだ。

 これはチャンスだ。ひとまず僕は今日一日を、女装してふざけていることにして乗り切ろう。顔はどうすることもできないが、自分の生徒証に写る証明写真を参考に化粧をして元の顔に近づけられはする。髪は美容院に行き、元の短さに――いや、それでは逆に女性らしくアレンジされてしまうかもしれない。いつも行く散髪屋の店主に頼み込んでバッサリ切っていただこう。明日からのことは、それから考える――僕は現状を整理し、今はやるべきことを導き出し、行動に移そうとする。

 だが、悲しいかな。僕はここで、ある重要な事柄を二つ忘れていた。

 一つ――意図不明で意味不明に性転換したこの身には、男の象徴たる下半身の器官が消失し、女性の器官が設けられたこと。

 二つ――現在、僕がパンツを穿いていないこと。

 気付き手で隠した時点で、なにもかも手遅れだった。


「貴方って――ToLOVEるの世界の住民だったかしら」


 母の言葉に膝をついたが、それの意味については理解できなかった。


    ♀


 脱ぎ散らかしたボクサーパンツとパジャマを再度着て、一階に下りる。

 リビングのソファに座り、顔を俯かせる。その姿を見て、ダイニングキッチンにいるスーツ姿の大黒柱は口に含んだコーヒーを吹き出した。

 そこにすかさず母がフォローに入る。ネクタイを解いて液体に濡れた背広とシャツを脱がせ、新しいものを着せる。父はそんな母に戸惑っている。あの洗い立ての背広とシャツ、二階に下りる時点で既に持っていたため、父が吹いて衣服を汚すことを予測していていたらしい。それは結果的に大正解で、母は満足気に胸を逸らしている。


「い、いや、雅さんが……興奮? 驚愕? するのは分かるけれど――、いや、これはさすがに俺も驚くって」

「でも、あの黒髪ロングは間違いなく私と義雄さんの息子よ。どういうわけか性別と姿が真逆になってしまっているけれど、意外と私たちに似ているのよ」

「そりゃまあ血は繫がってるし……マジで緋彦あけひこなのかよ」


 着替えを済ませ、マグカップを置いた父は僕の前でしゃがむと顔を覗き込んできた。


「……」


 少しドキリとした。この胸を締め付ける嫌な感覚は、親に叱られるのを自覚していて、身構える感覚に似ている。僕はなにもしていない。されてはいるが他者からなにか強く言われる筋合いはない――と思う。

 ドキドキと鼓動が首を伝って耳に届く。変わる前もだが、顔をマジマジ見られたことはない。思春期特有の吹き出物を解消するために皮膚科に行き、医師に診てもらったとき以来だ。しかも今回は身内で、病院では診察のために必要なことなのだと割り切れていたが、実の親――それも父にこうしてじっくり見られると、かなり心の余裕がなくなる。もうどうにかなってしまうそうだった。

 そうしているうちに、父はおもむろに立ち上がると、こう言った。


「確かに緋彦だ。しかしこれは――目元は雅さん似だな。口は俺似」

「背の小ささは私たちのどちらでもないわね。あと両目ぱっちりで可愛いわね」


 人物判別も早々に、親特有のどこが誰に似ているかの論争を始めた。

 こんなときにも父と母は通常通り心が図太く、そんな姿を見て僕は人知れず安心した。


    ♀


「ひとまず――戸籍の性別変更はなしで、しばらくはLGBTQの範囲にいる男性、ということにしようか」

「そうね。今後、この状態で生きにくさを感じたら――そのときは遠慮なく言いなさい」

「うん……分かった」


 僕がこんな目に遭っても、両親はいつだって僕の親だった。元に戻ったときから、一生元に戻らなかったときまでの対応を、真摯に考えてくれた。

 少し、気が楽になった気がする。


「さて……この状態だと、出席は無理そうね」

「だな。俺から連絡しよう。卒業証書とか証明書とか、残った荷物についても一緒に相談する」

「お願いね。私はいまだに寝てるあの娘を叩き起こしてくるわ」

「え、まだ寝てるのか――てっきり身支度しているのかと」


 二人は自分がすべきことをしに行動する。この状況で、僕はどうしていようか。

 ここで頭に思い浮かんだのは、親しい二人の友人の顔だった。男と女で、両者とも小学校からの付き合いだ。四月から通う大学も同じで、正真正銘で完全無欠の腐り縁。二人とも背が高く、今はあからさまに小さいが元の状態でもふたりに挟まれると僕の背の低さが目立ってしまっていて少しばかり腹立たしかった。ただ、その辺も含めて、二人とは仲良くやっていた。

 この二人に、今の自分をどう説明したものか。一番良いのは、事実を包み隠さず全て話すこと。「自分は女であると今朝自覚した。この髪はウィッグで、急遽ドンキで買った」とか説明してみろ。いくら付き合いの長い二人といえど、これを言ってしまったが最後、二人の頭上には感嘆符が数百個浮かぶこと間違いなし。

 これは正直に言うべきだ。僕は立ち上がり、リビングをあとにした。


    ♀


 体育館でのお堅い式典は終わり、卒業生たる三年生は教室で最後の学活に臨んでいた。

 クラスによって行っていることは様々だ。レクリエーションを楽しむクラス。クラスメイトや担任の教師にお礼や思い出を語らうクラス。時間まで自由にしていいと担任が許して騒がしいクラス。学級委員の発案でパイ投げをして教室を滅茶苦茶にしているクラスもあるが――そのクラスのある生徒二人は、パイという名の生クリームの塊を巧みに避け、教室から脱出した。


「正気かよこいつら」

「勘弁してほしいわぁ……」


 しっかり自分らの鞄や荷物を持って避難したため、実害はない。今日休んだ友人の分も無事だ。

 二人はパイ投げが行われる直前――体育館から戻ってきてそれほど時間が経っていない頃、担任から休んだ友人の卒業証書を届けてやってほしいと言われたので、これを快諾した。ついでに残っている荷物も一緒に持っていこうと話していたら真横にパイが飛んできたので慌てて避難した二人は、ひとまずこの学活が終わるまでは廊下で傍観していることにした。


「――お、緋彦から」

「……校内でのスマホ使用は禁止だったはずだが」

「いいでしょ。今日ぐらい。パイが良くてスマホが駄目な理由よ」


 女は震えたスマホを大きく隆起した胸部にある胸ポケットから取り出し、届いたメッセージを確認する。

 そのメッセージを読んで、女は首を傾げた。


「緋彦、熱出したんじゃないって」

「え、じゃあ仮病か? いや、でもあいつはこういう日に休むような事情を持っているわけではないし」

「不登校どころか皆勤賞狙えてたんだけどね。なにがあったんだろう。――お」


 またメッセージが届いた。女は視線を画面に落として、届いた文章を読む。

 今度は、眉を顰めた。


「『今日僕の家に来るだろうけれど、なにを見ても驚かないでね』……だって」

「……? どういうことだ」

「さあ……要領を得ないし、これだけじゃなにがなんだか――ぶわぁ!?」


 急に声を上げて仰け反る女。顔面には室内から飛んできたパイがぐちゃりと当たり、膨らんだ胸元にパイを置く紙皿がずるりと落ちた。

 顔と前髪は生クリームに塗れている。男は女を見て「あーあ」と呟き、自分にも飛んできたパイをひらりと躱す。

 身を震わせる女を見て、男は廊下の窓ガラスにくっついたパイを土台の紙皿で掬い取り、それを女に差し出す。

 カッと目を開いた女はブレザーのボタンを外して脱ぎ捨てると、男が差し出した使用済みのパイを手に取って、


「野郎ぶっ殺してやるぁぁああああ!!」


 と教室に吶喊していった。その後しばらく、教室からの喧騒はより激しさを増した。

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