第三話

 実裕がひとしきり周囲を見回して視線を正面に戻すと、すぐ目の前に上弦の月的弧を描くベルトに支えられた腹があった。シャツのボタン沿いに視線を上げていくと極端な遠近法ですぼまった上半身に小さな頭が乗っかっていて、そこから冷凍された金目鯛みたいな不健康な目が実裕を見下ろしていた。顔の下半分が隠れていても知った顔だと認識するのに支障はないようで、実裕はそれが見知った人物であることに瞬時に気づいた。目が合うと相手も実裕を認識した。顔半分を隠したまま目を合わせただけで互いに認識し合ったとわかるのは、目玉という器官が粘膜の出張所であり、視線を交えるとはこれすなわち粘膜のコミュニケーション、つまるところ媾合交接性交だからである。もちろん実裕にしてみればこのような饐えた臭いを放つ巨体と交接するなど願い下げだったが、願うと願わざるとにかかわらず視線交わればもはや何もかも交わったも同然なのである。


 腹の突き出たこの人物は小宮山こみやま千春ちはるだと実裕は思い出した。風貌を見てすぐに名前が浮かんだが、どのようなプロセスで記憶から引っ張り出されてきたのかは定かではなかった。小宮山は今同じ会社で働いている上司であるか、かつて同じ会社で働いていた上司であったか、まったく関係のない人物であるかのいずれかだ。小宮山はこめかみから首筋にかけて汗の粒を浮かべながら濁った眼で実裕を見下ろしている。実裕は小宮山千春という人物をこの風貌とともに思い出したが、自分と小宮山の関係性ははっきりしなかった。この人物を知っていることが重要なのか、それともこの人物と自分の関係性が不明瞭であることを訝しんだほうがいいのかわからなかった。実裕が小宮山の顔を見上げながら周辺の記憶を探し求めていると、小宮山はふんと鼻で笑った。その鼻息が顔に届いたとたん、実裕の背後にデスクが現れた。実裕はちょうど今デスクの前に据えられた回転椅子を時計回りに135度回転させて小宮山を振り返ったところだった。通奏低音的回転翼の音は質、量ともに変化してデスクに置かれたコンピュータの内側に収まった。無限的書き割り背景も居並んだ地蔵のごとき乗客も喘ぎ声をあげる連結器も姿を消し、前戯的きしみと世界を駆動するようなたたたたたたんに代わってどこか離れたところで誰かが糾弾し弁解しくしゃみをし鼻をかみ咳き込み菓子の個包装を開け脇腹をかきむしり屁をひる音で辺りは満たされた。実裕よりも背が低い小宮山は座っているときにしか声をかけてこない。そんな小宮山の習性が思い出された。それはこの大きく突き出した腹を利用して遠近法的巨大感を演出するためだと想像された。これには小宮山の思惑をはるかに超えた効果があり、実裕はいつもその魚眼的遠近効果によって虚構的巨大さを獲得した小宮山に圧迫された。


 実裕は視線を小宮山のたっぷりとした腹まで降ろし、次いで周りを見回した。背後には飾り気のないデスクがあって黒いフレームのどこのオフィスにでもありそうなモニタが乗っている。つい今しがた小宮山に声を掛けられるまで実裕はこのデスクに向かって仕事をしていたと思い出させるのに十分なデスクだった。小宮山に声をかけられたという事実があるのか、たった今までここで仕事をしていたという事実があるのか、そういったことはわからなかった。ただ状況がそうした事実を思わせる。実裕はそれだけわかっていればいいという気がした。モニタには見覚えのないアプリケーションが表示され、判読できない文字が並んでいる。デスクの周囲を青い衝立パーティションが取り囲んでいて、周囲から実裕を切り離している。高さが身長ほどもないことを思うとこの衝立は平面的にこそ実裕を切り離すものの、空間的にはたいした意味を持たない。それでも椅子に腰を下ろしている限り実裕は衝立の世界に押し込まれる。高さのない二次元に閉じ込められ、画面の奥で茶番を演じ続けるゲームのキャラクタのように生かされる。オフィスのフロアにはこうした一人分の区画ブースがいくつも並んでいて、そのそれぞれに実裕のようなワーカー働き手ワーキングノードがぺたんこになって押し込まれている。オフィスはさながら巣脾であり、実裕たちワーカーの生み出した成果はどこかの誰かのものとなる。ワーカーはその成果を生み出すのと引き換えに生かされている。実裕はいつこのオフィスへ出社したのだったか思い出そうとした。さっきまで地蔵的死体に囲まれて列車に乗っていたのではなかったか。そもそも最近は在宅勤務でオフィスへは出社していないのではなかったか。冷や飯入りのラーメンを在宅勤務の終業後にすすりながらネットを彷徨ったのがいつであったか経費の請求が却下されたのはいつであったかどうやってこのオフィスへやってきたのかどうやって列車に乗ったのか列車の目的地はどこだったのかなぜ卒業アルバムの顔ぶれは誰も検索に引っかからないのか。どの記憶もついさっきのようでいながらはるか昔のようでもあった。同じような毎日が螺旋のように前進しているのか、同じ一日を円環のように繰り返しているのか、あるいはそのいずれでもなくまったくつながりのない個々の一日が離散的におとずれているのか。列車からオフィスまでの記憶が飛んだのか、なんらかの意図をもって虚構的省略が行われたのか、卒業アルバムと経費申請と列車とオフィスにはなんの関係もないのか。なにもかも判然としない。実裕という共通項があるだけだとも言えるが、それだって実裕だと自覚しているこの実裕が前段落の実裕と同じ実裕かどうかは判然としない。今朝目覚めた実裕が昨夜の実裕の続きだと誰に断言できるのか。ラーメンを吸いながらネット検索をしていた実裕、経費申請を却下された実裕、列車に乗っていた実裕、オフィスにいる実裕。それらが一続きの実裕である保証などどこにもない。ただ実裕自身がそう認識しているという極めて不安で不審な主張があるだけだ。自明の事実などなにひとつない。実裕はもう一度目の前のバランスボールみたいな腹から今にもちぎれそうなボタンに沿って視線を移動させ、鏡餅のてっぺんに乗っかったかぼすみたいな頭を見上げた。小宮山は実裕が見上げるたびに巨大化していくようだった。実裕の本能が小宮山を拒絶していた。対面したくないと悲鳴を上げていた。鳥肌が立ち、悪寒がした。いやだ。身体の奥底から嫌悪感が行列を率いて行進してきた。急速に増大したストレスと小宮山の体臭で実裕はほとんど嘔吐しそうになった。

「何か、御用ですか」

 実裕は吐き気を堪えながら努めて平静を装って言った。なにか言いかけていた小宮山は実裕の言葉に面くらって目玉を見開いた。濁った三白眼が腐った豆腐のように嫌悪感を煽る。

「え。あなた今なにを聞いてたんですかネ。寝てたんじゃありませんよネ。え」

 そう言って小宮山はふふふんと鼻で笑った。小宮山の放った言葉が実裕の脳裡でちかちかと警告灯のように点滅する。この陳腐な上司的言い回しは虚構の上司像として固着した煮凝り的思考停止の結果ではあるまいか。虚構内上司のステレオタイプはもはやギャグにもならないほど現実世界とかけ離れている。この虚構と現実の乖離は虚構内地域性が極端な方言の濫用によって現実からかけ離れる現象とも酷似している。誰一人そんな話し方をしないにも関わらず、虚構内では定型として通用すると思いこまれている。リアリティからほど遠いところで類型に収まったこの物言いによって小宮山の虚構性が際立ち、実裕は自分の今いるこのオフィスがすでに現実のものではない可能性を視野に入れた。同時に、でもそうだとするならここはいったいなんだという疑問が湧き出てくる。見覚えのあるオフィスだし見覚えのある小宮山だが小宮山と実裕が働くこの会社の名前はいったいなんだっただろうか。実裕はここでいったいどんな仕事をしていたのだろうか。

「ところであなた、今回の案件、てこずってるそうですネ。なかなかOKが出ないんですって。それはあれなの。原因はちゃんと把握できているのですかネ。社内のチェックが甘いのかあなたがちゃんと先方の求めてるものを理解できてないのか、どっちなのですかネ。もしあなたのセンスがちょっと古くて通用しないんであればネ、若手を抜擢するとかネ、あなたは窓口に徹してディレクションは優秀な若手にやらせるとかネ、そういう方法もあるわけですからネ、リテイクがかさむ原因はちゃんとはっきりさせておかないといつまでもこういう感じだとネ、信用問題になっちゃうんですネ、あなたわかってると思いますけどネ、このクライアントうちにとってとっても大事ですからネ。相手のニーズをしっかりくみ取ってそれを上回るものを出してかないとネ、いけないんですよネ、わかってると思いますけどネ、あなた責任ある立場ですからネ、そこんとこをネ、ちゃんとネ、考えてネ、煮てネ、焼いてネ、食ってネ、そんでもってネ、アイネクライネ寝んねしてネ、ごろ寝うたた寝鹿の糞」

 小宮山の言葉が糸を引きながら耳に粘り込んできて全身に鳥肌が立った。意味は次第に失われ、ただただ不快さだけが積もっていく。小宮山の言葉は歌謡曲のリフレインみたいに次第に薄まりながら遠ざかり、同時に遠近法的すぼまりの中にあった頭部がそのままさらに上昇してみるみる小さくなっていった。不快な粘り気を帯びた声とともに頭が消失点へ消えると、実裕の眼前で視界を埋め尽くしている腹がベルトのラインからぱっくりと裂け、その裂け目から巨大な小宮山の顔がまろび出た。実裕はあまりのおぞましさに悪寒がして身震いした。腹に現れた巨大な顔はその大きさに比して少々小さいのではないかと思われるマスクで下半分を隠していた。巨体でまわしが隠れてしまう力士のような卑猥さだった。

「のんべんだらりと生きてきて、三十路アラフォーどん詰まり、プランビジョンはナッシング、なにを言ってもバッシング、自己研鑽をどぶに捨て、暇をつぶして穀潰し、無能無自覚無知蒙昧、無毛無気力無修正」

 小宮山の巨大な顔はマスク越しでも湿気と臭気の残る生温かい息を撒き散らしながら大声で歌うように唱えた。全身に小宮山の呼気を浴びせられ、実裕は素っ裸で身体の隅々まで舐め回されているような感覚に支配された。吐瀉物の洪水に押し流され、潜ったり浮かんだりしながら汚物の中を泳いでいるような気がした。正気を保てないほどの不快感が頭蓋骨の内側を跳ね回るうちに電極が反転し、溢れ出たストレスがマゾヒスティックな快感となって脊髄をつたい降りる。分泌された体内物質がドーパミンに変化し、刺激された股間が急速にうずき始める。不快感。悪夢的腐臭。吐瀉物。股間がうずく。

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