第四話

 脈動する血液のバイブレーションが快感を増幅する。力の入り抜きと速度の緩急が生命の躍動を刺激し、精神を恍惚へと導く。括約筋の緊張と弛緩が排便のグルーヴを生み出し、細胞レベルの一体感となって脊髄を往復する。大腸から型抜きされた極太の一本をひねり出して恍惚が去ると膝のすぐ先に扉が見えた。肩を大きく上下させて息を整えながら見回す。咲坂実裕は狭く区切られた個室で洋式便器に尻を下ろしていた。足首のところに頼りなく引っかかっている下半身分の着衣を見下ろすとその下に靴をはいた足が見えた。実裕は鼻から深く息を吸った。全身を包み込んでいたはずの腐臭もろとも巨大な顔もなくなり、代わりに漂っているどこか懐かしささえ覚えるような自分の便臭が実裕の内側を満たした。腹をさすりながら尻のあたりに意識を集中させ、腸内にあった大便の大部分がすでに出ていったあとであることを確認した。個室内を見回すとどうやらペーパーのストックがない。しかし便座には洗浄機能がついているようなので用は足りるだろう。実裕は洗浄機能のボタンを操作して尻を洗浄した。心地よい刺激が穴の縁に到来し、噴射された温水は排泄に使用した器官を洗い流した上で大便を沈めた水たまりへと落下し、混ざり合った。股の間を覗き込むと、太すぎる便を出す際に裂傷を負った穴付近から血液が滴り落ち、たまり水はロゼワインのような美しさで飲み込んだ大便を黒々と浮き上がらせながら波紋に揺れていた。実裕は洗浄を止めて腰を浮かせ、中腰で股の間から便器を眺めながら「大」のボタンで水を流した。かつて地球の自転によって発生するコリオリの力の影響で北半球と南半球ではトイレの水流の向きが異なるというような馬鹿げた話があったが、水をどこからどっち向きに出すかで水流の向きなどいかようにもなる。この便器はけっこうな勢いで水が流れるようになっていて、実裕の大便は時計回りの渦にへし折られながら下水管へと連れ去られた。実裕は便器の中が一度すっかり空になり、そこに透き通った水が溜まっていく様をすっぽんぽんのまま股の間から見届けた。見届けた上で両手で尻を掴み、濡れた部位を乾かすべく左右の大殿筋を両手によって動かし、中央の谷に風を送った。穴の入口付近に風が当たり、気化熱として奪われた体温を穴は敏感に感じ取った。実裕はそうしてある程度乾かした上でそのまま下着をはいた。個室の扉を開けて外へ出ると、そこには同じような個室が片面にいくつも並び、もう片面は壁になっていた。たった今実裕の出てきた個室を除いて他はすべて扉が閉まっている。実裕はしばらく立ち止まったまま聞き耳を立ててみたけれど、特に排泄音も水洗音もせず、人の気配は感じられなかった。閉ざされた扉の列を横目に見ながら歩き、さすがに個室が多すぎるのではないかと思い始めたところへ大きな鏡と並んだ手洗器が現れた。実裕はその中の一つに向かい、手を洗って鏡を眺めた。股の間を見下ろしたせいで乱れた髪を濡れた手で整える。実裕は鏡に映る姿を見ながら、自分はなぜこの姿を自分だと認識するのだろうかと考えた。理由はわからなかった。鏡に映る顔を眺める。眺めながら卒業アルバムに載っていた自分を思い出す。屈託のない笑顔とは言い難いぎこちない顔で写っていたさきさかみひろ。その引きつった顔が鏡の中の顔に重なろうとするがうまく重ならない。実裕はなんとかして重ねようと、アルバムの顔を真似てみる。確かに自分であったはずの写真の記憶は目の前の自分に重ならず、面影などまったくないような気がした。実裕は半歩下がって鏡に写った全身を眺めた。これがあの卒業アルバムの写真と同一人物だというほうが無理だろう。たしかにあの当時の記憶は残っているような気がする。しかしそれはアルバムを見たことによって想起されたもので、記憶されていたものが呼び出されたのか、ありもしないものが捏造されたのかは判断がつかない。実裕は水滴のついた両手を見下ろして何度か裏返し、手の甲と掌を見比べた。あの小学生の手がこの手になったのだ。そんなことをなぜ信じられるのだろうか。実裕は両手を鋭く振って水滴を散らしながら廊下へ出た。


 手を振り回しながら細い通路を進むとほどなくだだっぴろいオフィスに出た。大量のコンピュータが並び、端末の一つおきにオペレータが座ってそれぞれがなにやら喋っている。互いに行き交わない声が空中にわだかまり、抽象画のように多彩な色で空間を塗りつぶしていた。咲坂実裕があっけにとられていると雲のようなノイズを裂いて声が飛んできた。

「咲坂さん、どこいってたんですか。ぼんやりしてないで、ほら、手上げ、対応して」

 見ると、デスクでコンピュータに向かって仕事をしているオペレータの横に立って何やら指示を出していたらしき徳丸とくまるあきらが首だけ実裕の方へ向けて叫んでいた。実裕と目が合うと顎で別の方向を示してから座っているオペレータの方を向いた。徳丸に指示されたほうを見ると座っているオペレータの一人が手を上げていた。手上げ、対応、とつぶやきながら実裕は手を上げているオペレータの方へ近づいた。歩きながら実裕はここが電話受付を代行するコールセンターであることを思い出した。コールセンターで仕事をしていたことはまったく覚えていなかったが、ひとたび思い出したらつい昨日もこのオフィスで働いていたような気がした。あの徳丸は上司ではなく同格だが先輩で、抜けの多い実裕に何かと口うるさく指示を出してくるのだった。初めてこのオフィスに来たとき、電話受付の仕事と聞いて電話をするものだと思っていたら電話は使わず、コンピュータで電話を受けるのだと知った。オペレータはヘッドセットマイクを身につけ、コンピュータを操作してかかってくる電話を受ける。話をしながら内容をコンピュータに入力し、対応状況がデータとして残されていく。そんなコールセンターの仕事をいつからしていたのだったかはっきりしなかったが、実裕の仕事はオペレータではなくオペレータを束ねてサポートするスーパーバイザ、通称SVエスブイと呼ばれるものだからきっとそれなりにベテランなのだろう。オペレータは通常のマニュアルで対応できない事態に遭遇すると手を上げてSVを呼ぶ。呼ばれたSVはオペレータから状況を聞いて対応方法を指示したり、手に負えないクレームなどでは電話を代わって対応したりすることもある。

「咲坂さんすみません、この人、手続きがうまくできてなくてキャンセルできなかったことを怒っていて、全額返金対応になったんですけど、今度は金で解決するのかって怒り始めて、上の者を出せって怒鳴ってるんです」

 オペレータは保護された絶滅危惧の小動物みたいな様子で実裕を見上げながら言った。

「え、上の者なの。わたしが」

 実裕が驚いて言うと、オペレータはもっと驚いた顔をした。

「え。だって咲坂さんSVじゃないですか」

「えすゔい。わたしが。そうね。わたしはえすゔい。しからば、お電話を代わりましょう」

 実裕はそう言ってオペレータからヘッドセットを借り受けて装着した。オペレータは不安げな顔で実裕の様子を見守った。実裕が回線の保留を解除するととたんに怒号が飛び込んできた。

「いつまで待たせんだよこら。あ。なめてんのかおまえ。あ」

 実裕はその任侠映画的凄み方にほとんど吹き出しそうになったがなんとか我慢して神妙な顔つきで言った。

「申し訳ございません。お電話代わりました。部門の責任者をしている咲坂と申します」

「ほう。責任者。で、どう責任とってくれんだよ。あ」

 実裕は相手が「あ」と語尾を上げるたびに笑いそうになり、それを必死に堪えるのは今にも噴き出しそうな下痢便を我慢しているような苦痛があった。その苦痛は快感と背中合わせのもので油断すると恍惚に至りそうだった。

「責任ですか。なんの責任ですかね」

「なんだとこら。貴様話聞いてないのか」

「いえ、キャンセル対応をさせていただくというところは把握しております」

「だから、金返してそれでおわりなのかっつってんだよ」

「ええと、では何か菓子折りでもお送りしますか」

「そうじゃねえだろ。あほかおまえ」

「なるほど。金でも菓子折りでもないとなれば一曲歌いましょう」

「なんだとてめえふざけてんのか」

 実裕の頭の中でふざけるという言葉が響き渡った。まさに探し求めていたパズルの最後のピースのように「ふざける」が輝きながらすっぽりと身体の真ん中に収まった気がした。実裕は大声で笑い始めた。オペレータは真っ青な顔で実裕を見上げた。

「ふざけている。すばらしい。ふざけているんですねあなたも。いいでしょう。わたしも真正面からふざけましょう」

 実裕は基本の行き届いた腹式呼吸による、それまでの三倍ぐらいに感じられるよく通る声で演説し始めた。

「ご自分の頭が悪すぎてキャンセル手続きをまともに終えることができなかったのを棚に上げてクレーム電話をかけ、シンプルな手続きの説明さえ理解できないことをまったく恥じもせずに文句を言い、さもシステムの方に問題があるような主張をぶちまける。いやあ、ステキですね。厚顔無恥。睾丸も無知なんじゃありませんか。はっはっはっは。バカっているんですねほんとに」

 実裕の耳には自分の発する演説が朗々と響き渡り、ヘッドセットから入ってくるはずの相手の声はもはやまったく届いていなかった。

「で、なんでしたっけ。そちらの落ち度でできなかったキャンセルをですよ。十万歩ぐらい譲歩して全額返金という異例の対応をしたら、金で解決すんのかと来たもんですか。いやすばらしい。バカも休み休み言ってほしいところですが休めませんよね。バカだから。はっはっは。うん。よくわかりますよ。バカはどうしようもない。出かかった下痢便みたいなものですからね。下痢便は急に止められない。バカも急に止められない。いやあ、いいこと言ってるんじゃありませんかわたし。あなたにどの程度理解できるのかはわかりませんしどうでもいいんですけどね。それでうちのオペレータが胃に穴が開くほど謝罪したわけですね。あなたの頭が悪すぎるせいなんですけどこちらが謝って、全額返金もすると言ってるわけです。それでもあなたは怒鳴るわけですね。いやあものすごいですね。で上の者を出せって言ってきたわけですね。上の者を出せっていう電話よくあるんですよ。わたし一応上の者だからそういうのよく聞くんですけどね。上の者を出せっつってきて上の者が出てきたらなにを言うのかちゃんと考えてた人なんてほとんどいませんからね。上の者が出てきても下の者に言ってたのとまったく同じ文句を言うだけ。がははははは。おつむがお留守ですね。脳みその代わりに下痢便が詰まってるからこういうことになるんでしょうね。ものすごい剣幕で罵詈雑言を並べ立てていらっしゃいますけどね、とどのつまりあなたは誰でもできるキャンセル操作を正しく行うことができなかったという事実を汚い言葉満載で喚き散らしているだけですからね。わかってますかその恥ずかしさが。で、結局のところなんでしたっけ。バカがナニしてくれって話で無知な睾丸がわめきちらしてるんでしたっけ。あはははは。まああなたの言い分はわかりました。金で解決するのは嫌いだってことですね。それなら返金はしないことにしますね。ええ。金で解決するのはよくないんで、はい、誠意を持って丁寧に対応してます。キャンセルは頭悪すぎてできませんでしたってことで返金はなしでキャンセルもなし。そのまま全額引き落とされますからそこんとこよろしく」

 天井を見上げながらゲタゲタと笑い続ける実裕をオフィスにいる全員が息を呑んで見ていた。オペレータも全員が黙り、コールセンターの業務は完全に停止していた。ひとしきり笑い終えた実裕は周りを見回してさらにひときわ大きな声で言った。

「股間に入らずんば虎視眈々」

 言い終えるとオフィス内を見回してからヘッドセットをオペレータの膝の上に投げ落とし、実裕はしゃなりしゃなりとぐねつきながらオフィスを闊歩した。誰一人声を発しなくなったコールセンターで、オペレータたちの装着したヘッドセットから電話の相手の「もしもし」と呼ぶ声があちこちでうっすらと聞こえていた。オペレータたちの視線は通路を通って今にもオフィスを出ようとしている実裕に集中していた。中の一人が立ち上がって拍手をし始めると、続いてオフィス中のオペレータが立ち上がって拍手をした。オフィスはさながらベテラン社員の退職日じみたムードになった。実裕は気分が良くなり、歩きながら上着を脱ぎ捨て、次いでシャツも脱いで放り投げた。靴を脱いで通路に置き去りにし、靴下を脱いで通りすがりのごみ箱へ投げ入れ、スラックスを脱いでコートかけに吊るし、下着を脱いで指に引っ掛けるとぐるぐる振り回した。オペレータたちの拍手はやみ、再び絶望的な沈黙がおとずれた。指先で回っていた下着がすっぽ抜けて飛び去り、徳丸の頭に引っかかった。実裕は完全に素っ裸、一糸まとわぬ姿となってエレベータホールに出ると下向きのボタンを押した。やってきたエレベータでは先客が二人話をしていたが、入ってきた全裸の実裕を見て絶句した。実裕は二人に会釈すると扉の方へ向き直った。臀部に集まる二人の視線が熱を帯びて感じられ、その熱が会陰あたりに流れ込んでくすぶった。実裕は膝を片方ずつ交互に前へ出して股間のうずきを散らそうとした。足の動きがなんらかのリズムを生み出し、エレベータがビートに合わせて脈動し始めた。眼の前の扉は実裕の足に駆動されるように波打ち、階数表示はオーディオのピークメータのように数字が上がったり下がったりしていた。膝を交互に動かしながらすり足で回転すると、背後にいたはずの二人はいなくなり、エレベータは四方すべてが扉になっていた。実裕は全身をよじりながらステップを踏み、次第に動作を大きくしていった。体温が股間に集まり、便意に似た快感が脈打った。実裕が我慢できずに放屁すると四方の扉が無数の細かい立方体になって落下し、真っ暗な空間が現れた。実裕が足を踏み出すと足元から正方形のパネルがぱたぱたと裏返って目の前に道ができた。一定のリズムで歩を進めると足の着地した部分から光の帯が前後に走り去る。足が地についた瞬間に足元から全裸の身体が照らされる。実裕は素っ裸で花道を歩きながらフラッシュを浴びているような気分になった。右足。フラッシュ。左足。フラッシュ。裸体。フラッシュ。丸出し。フラッシュ。股間がうずく。

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