第二話
聴覚を蹂躙する騒音と眠気を誘う揺れがもたらす半覚醒状態が五感を狂わせ、語感の互換性にも齟齬が生じた。視界はぼんやりと滲み、しかるのち、次第にはっきりし始める。見えているのは気が遠くなるほど長い書き割りの背景を延々巻き取っているような車窓と、それを背にして居並ぶ互いに無関係な顔。どれもが下半分を隠し、残った目玉は手にした端末を見下ろしている。逆光にふちどられた輪郭が苔むした地蔵のように並び、目玉はそのいくぶん緑がかった影の中に意思を失った鈍い光を滲ませて並んでいる。なんらかの電気的な仕組みが隠された
向かい側の座席に並んだ死体のような人々を眺め、咲坂実裕はいつどこからこの列車に乗り、どこへ向かっていたのだろうかと考える。記憶を遡ると始まりは居並ぶ目玉のイメージだ。それはたった今のことだ。それより前のことは曖昧になってしまっていた。実裕は我に返ったのだと知った。我に返ると我を失っていた期間が確定し、とぎれとぎれの意識が欠落部分を省略してつながる。五感の語感はラップ的音韻の中でファック的姦淫に耽る。断続的な意識の連結は連続的なものと誤認され、ありもしない現実が実存的虚構と入り混じる。こういうややこしい事態について少しでも深く考えようとすればたたんたたんがときおりたたたたんたたんなどとフィルインを織り交ぜつつ耳に襲い掛かってきて思考を妨げる。たたんを追い出そうとすれば今度はつり革と連結器の前戯が激しさを増し、ぎちぎちひいひいぎぎぎひひいとイ段変態活用的嬰イ短調を奏でる。不快なそれから目を背ければすかさずたたたたんの畳みかけ。気が狂いそうになる実裕をよそに空調機の回転翼は世界が無くなっても鳴り続けるという意思表示みたいに騒音をばら撒き続けている。列車は多彩な騒音で乗客を攻め立てながら空間を移動する。拷問部屋に入れられたまま移送されているようなものだ。この大音響など耳にも入らないかのように端末に目を下ろしている人々。死体のようなのではなく既に死体なのかもしれない。
隣を見やると一人分間を空けて若者が座っている。実裕はふと、このあいだ卒業アルバムで探した幼い顔の面影を求める。アルバムのページに昆虫標本みたいに並んでいた顔は記憶の中で互いに混ざり合い、そのどれとも異なる顔になって目の前の若者に重なる。下半分が隠れた顔は個の識別を困難にし、もはやどのような顔であろうと卒業アルバムで見たような気がしてくる。若者は耳の穴を小型のスピーカーに凌辱されながら艶のあるまつ毛を揺らして端末を見下ろしている。再び楽園を追放されたヒトという生き物は腰回りに次いで顔回りも隠すことになった。大部分を隠されてもなお外界に晒されたままになっている目は粘膜の代表器官として、耳は穴の代表器官として、それぞれ猥褻を合法的に露出するという貴重な役割を担うことになったのだ。耳の穴にスピーカーをねじ込むのは言うまでもなく肛門性愛的行為であり、コンタクトレンズは粘膜へのクンニリングス的フェラチオである。いずれも出張所を使用した遠隔自慰行為すなわちリモートオナニーであり、そのまま外出することで同時に露出欲求までも満たすという離れ業を披露しているのだ。すました顔で変態行為をひけらかすその横顔を眺めていると卒業アルバムから続く第二次性徴的モーフィングが脳内に捏造され、股間が加熱した。実裕は自身の制御が脳から股間に渡されそうになるのを感じ、慌てて精液の絡まった陰毛のように淫靡な艶を帯びたまつ毛からべりべりと音を立てて視線を引きはがした。はやる息を落ち着かせながら正面を向くと、向かいに座っている地蔵の一人が慌てたように手元の端末に目を落とすのが見えた。見られていたな、と実裕は判断した。実裕が正面を向くなり慌てて視線を外したということがそのまま、直前まで実裕を注視していたことの証明となっているのだ。Q.E.D.
実裕は見られていた分の借りを返すようにその一人を眺めた。髪は長くも短くもなく、特徴のない目が高所恐怖症の子犬みたいに細かく揺れている。鼻から下は隠されており、派手でも地味でもない衣服を身につけていてどこにでも売っていそうな靴を履いている。誰もが自分の人生では主役だという主張が嘘っぱちである証拠に、このような誰かの人生におけるモブキャラを演じるための風貌を自ら用意する人も存在している。実裕は相手の足元まで下ろした視線をそのまま手前へ引き寄せ、自分の靴を見下ろした。ショッピングモールに入っている靴専門のチェーン店で買った安物のスニーカーだ。細かく説明すればそういうことになるが、自分で買ったから知っているという要素を取り除けばどこにでも売っていそうな特徴のない靴とでもいうことになるだろう。服装は暗めの色で揃えたファストファッションの規格もので街を歩けば同じラインの製品を着ている人を見つけるのは容易い。髪だって長くもなければ短くもない。外見的特徴で言えば実裕だって他の誰かのためのモブみたいなものだった。実裕はもう一度車内を見回した。地蔵群はほとんど死んでいるようで誰一人特徴らしいものを持たず、隣に座っている若者はリモートオナニー状態であることを除けばやはり特徴的ではない。実裕自身も含めここには誰の人生においてであれ主役らしい者はいなかった。脇役ですらないモブ群衆エキストラを家畜のように運ぶ通勤列車。その向かう先がどこなのか実裕にははっきりしなかったが、この列車がどこに向かうのかなどということはどこかの主人公にとってのこの物語において大した意味を持たず、どうでもいいのだと思った。群衆など生きようと死のうと物語の大筋になんの影響もない。この列車はそんな物語になんの影響も与えないようなものたちをどこかへ運んでいる。その目的地がどこかなどということにやはり意味はあるまい。
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