明日の穴
涼雨 零音
第一話
炊飯器の中で二日前の犬の糞みたいになっていた冷や飯をインスタントラーメンのどんぶりに沈める。
インターネットブラウザの検索欄にカーソルを合わせ、どんぶりごしにキーボードを操作する。小学校の頃に好きだった人の名前を口の中で転がしながら入力する。検索欄に表示されたその名前をしばらく眺め、記憶の底にあるその人の像を呼び出す。小学生の姿で脳裡に浮かぶ。股間がうずく。手持ち無沙汰に開いた口へラーメンを運んで吸い込む。画面に飛んだ大きめの水滴を親指で拭い取って舐めてからエンターキーを叩く。検索欄に入力された名前が想像を超えた仕組みで検索される。財布の中でポイントカードを探すのにも苦労する実裕には、広大なインターネットの中で一瞬にして検索結果を表示するのにどんな仕組みが動いているのか想像することさえ難しい。文字通りまたたく間に表示された検索結果を眺め、実裕は右手をマウスに移して画面を転がした。同姓同名と思しきまったく違う人物の情報から始まり、苗字か名前の一方だけが一致するものがそれに続く。さらに転がすとなぜヒットしてきたのかさっぱり分からないようなものが並び、思ったよりもあっさりとリストの終わりにたどり着く。そこから今度は画面を逆回しに転がしてリストを上っていく。たったいま目を通したばかりのリストを逆順に眺め、やはり目的の人物に関する情報がないことを確認する。なにを期待していたのか定かでないにもかかわらず確かな失望を感じながら冷や飯入りのラーメンを吸い、視界の隅に飛んだごはん粒を拾って口に入れる。検索欄にカーソルを戻し、書かれている名前を消して次に思い出した名前を入力する。脳と脊髄が光回線よりも高速に通信して信号を運び、検索エンジン並みのスピードで股間を刺激する。エンターキーを打って身震いし、ラーメンをすすって口の周りを舌で舐めとる。表示された検索結果をマウスで転がし、一通り目を通して逆回しに戻ってくる。やはり目的の人物に関する情報はない。思い出せる名前を次々に入力しては検索し、画面を往復して目的の情報が見つからないことを確認する。
思い出せる限りの名前を検索し尽くした実裕はラーメンのどんぶりを飲み干して脇へよけ、立ち上がって首を回しながらクローゼットへ向かった。ハンガーにかかった衣類をかき分けて床置きされている段ボール箱から小学校の卒業アルバムを引っ張り出す。上面に息を吹きかけると積もっていた埃が舞い上がり、安住できる場所を求めてゆっくりと降りていった。実裕は降りていく埃たちが落ち着くまで見届けてからデスクに戻った。椅子に腰を下ろしてアルバムを箱から抜き取る。数十年閉じ込められていた空気が死臭を放つ。ページを開くと停滞していた時間が目の前に呼び戻された。まっさきに好きだった人の写真を探す。ひらがなで書かれた名前を見つけ、その名前を声に出して唱えながら写真を指先で撫でまわす。頭蓋骨の内側に鳥肌が立ったような感覚があって同時に股間が加熱し、実裕は頭蓋骨と股間だけになったような気がした。不思議なもので、性の知識などなかった当時の初恋はもっと純粋なものだったはずなのに、こうして時がたって振り返ればあるのは性欲に起因する好意であってそれ以外の何物でもない。知識などなくとも股間に駆動されていたのだと思わされる。実裕はもう一度その名前を検索欄に入力し、他にも住んでいた地名や関係しそうな学校名などを入れて検索してみた。どんな検索キーを使っても目的の人物に関する情報は得られなかった。実裕は開いた卒業アルバムを見ながらそこに載っている名前を順に入力して検索した。クラスのどの名前もインターネット上の当人の情報につながらないことを確認したあと、最後に自分の名前を入力して検索した。実裕自身のソーシャルアカウントの情報が一番上に表示された。検索結果の表示された画面を見ながら背もたれに体重を預け、肉厚なマグカップから冷めたコーヒーをすする。開いた卒業アルバムに目を落とす。そこに並んだ確かに同じ時を過ごしたはずの人たちは誰一人検索できず、実裕自身だけが見つかった。急に、そこに載っている人に今後再び会うことはもうないという予感がかなりの確信を伴って押し寄せた。過去は卒業アルバムのページに閉じ込められ、すでに現在へとつながる時間の流れから切り離されている。確かに存在していたはずの時間は曖昧な記憶のいたずらと化し、今となっては本当に存在したのかどうかすら疑わしい。
実裕がぼんやりと卒業アルバムを眺めているとモニタの隅にメール着信の通知が表示された。会社で経理を担当している
実裕は締まりなく開いた口からこぼれそうになったよだれをすすり上げつつ手の甲で拭ってその臭いを嗅いだ。あの鬱陶しい優等生は何という名前だったかと思い出しながら卒業アルバムを眺める。めんどうなやつという印象でしかなかったその優等生はアルバムの中で屈託のない笑顔を浮かべていて思いの外愛らしかった。その写真を見つめていると記憶の中の小谷の顔と重なっていき、まったく違う顔のはずなのに目も口も耳も似ているような気がし始める。小谷が屈託のない笑顔を見せながら言う。不備があるのでやりなおしてください。実裕は口腔内に過剰なよだれが分泌されるのを感じた。やりなおしてください。どこの誰ともわからない小学生が頭の中で笑いかける。やりなおしてください。股間がうずく。やりなおしてください。小谷があざ笑う。受け取れません。脳からなんらかの汁が溢れて脊髄をつたい降りる。受け取れません。やりなおし。受け取れません。股間がうずく。
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