青い花

コオロギ

青い花

 見に行っておいで。

 実家から下宿先のアパートまで送ってもらっている車中、運転している兄の話をぼんやりした頭で聞いていた。熱があるかもしれない。

「大きな木にね、青い花がいっぱいに咲き誇るんだよ」

「ふうん」

「ここ以外にあと二、三箇所国内に生えているところがあるらしいんだけど、全然共通点はなくて。寒いところだったり暖かいところだったり。でも、そこにしかいないんだ」

「そんなのがあるなんて知らなかった」

「見に行っておいで」

 ちらと兄の横顔を見る。街燈の光が、白い肌の上を通過していく。

 頭が痛い。

「大丈夫?」

「うん」

「眠っていいよ」

 その言葉を聞いた後の記憶がないから、たぶん私は、眠ったのだと思う。


 翌日、少し体調のよくなった私は、兄の云っていた青い花の自生地を訪れることにした。

 母と折り合いの悪い私は、大学進学と同時に家を出た。実家から通えないほどではなかったけれど、早く親元から離れたかったのだ。だから、実家に帰るのは夏休みの数日と、お正月だけだ。本当はそれだって避けられるのなら避けたかった。それでも、溜息をつきながらも帰っているのは、兄もいるからだった。兄は五歳年上で、すでに独り立ちして仕事をしており、私は兄の帰省に合わせて実家に顔を出すようにしていた。兄は博識で、ぺらぺらと色々な話をした。そんな兄の背中に隠れて、私は気まずい時間をやり過ごしていた。

 アパートから三十分ほどのところに、それはあった。

 特別宣伝もしていないのだろう。意識して探さなければ見逃してしまうような、木製の古い案内看板が山側に矢印を向けていた。その先は完全に獣道だ。ここに住み始めて二年以上経つけれど、兄に教えられなければ知ることも、もちろん来ることもなかっただろう。

 頭上を木々に遮られ、薄暗い、湿っぽい土の臭いのする道を進む。なんとなく、時間の感覚があやふやになる。幸い道は一本道なので迷うことはなく、ただひたすら道なりに進んでいく。しばらくすると、まるでここが出口だと云わんばかりに、俄かに道の先が明るく光っているのが目に飛び込んでくる。

 森を抜けた、という感じだった。実際には、森のど真ん中なのだけれど。

 丸く切り取られたような何もない空間の、その中心に一本だけ、巨大な樹木が生えている。太く短い幹は僅かに青みを帯びた白で、そこから横に横にと伸ばされた数多の腕には、モルフォ蝶の、あの明るい夜空のような青さを持った花が零れ落ちそうなくらいに咲き乱れている。

 桜の青バージョンみたいな貧弱な想像をしていた私は、あまりの違いに面食らった。名のある芸術家の立体作品ですと紹介されたらそのまま信じただろうと思う。どこか生き物離れした、作り物めいた美しさだった。

 どれくらいか呆けたように見惚れ、その後でスマホで何枚か写真を撮った。思ったような画にならず、今度ちゃんとしたカメラを持ってこようと心に決めて、後ろ髪を引かれつつ、その場を後にした。


『―――という植物の自生地になっているんだ』

 兄は、何と云っていたっけ。

 花の咲いているうちにもう一度行こうと思い、次の休みに出かけようと玄関のドアノブを握ったところで、私は固まった。

 どうやって行ったのだったか、道順を思い出せない。

 ネット検索をかけようとスマホに文字を入力しようとして、今度は指が止まる。

 肝心の植物の名前が出てこない。

 ならいっそ兄に聞こうかとアドレス帳を開いて、あれ、と今度は思考自体が停止した。

 違う。そもそも私に兄などいないのだ。 

 あれ。ちょっと待って。

 どこから違った?

 私に兄はいない。私は一人っ子で、毎月実家に帰るほど家族仲は良いし、そう、だからこの間も、ゴールデンウィークに帰ったのだ。

 下宿先に戻る日になって体調を崩した私に、もう一日泊まっていったらと心配した母に云われたのを、大丈夫と断って、その後、兄に、いや、兄はいないのだから、いつも通り電車で帰ったのだ、たぶん。

 そのあたりの記憶が、ひどく曖昧だった。

 念のためと思い、写真フォルダを開く。

 すべての写真をチェックしたけれど、撮ったはずのあの木の写真は出てこなかった。


 しばらくの間、表面上は取り繕いながらも、その下では大変に混乱したまま生活をしていた。けれども、段々と別人のような自分の記憶は私から抜けていき、今となっては「妙な夢を見た」ということで片付けている。

 ただ、どうにも気になって夢の中の兄が話していた植物について調べたところ、確かに近所に絶滅危惧種の植物の群生地があったものの、それはシダ科の植物で、現地にも行ってみたけれど、もちろん、青い花も咲かないのだった。

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