56日目 エウリュディケ

 母さんはどこに居るのか、と父に尋ねたら、「地獄に行ったんだよ」と答えが返ってきたので、僕は町を歩いて地獄を探し回った。

 地獄と言うからには地下にあるに違いない。そう考えた僕は、町にあるマンホールや下水溝などに入口がないかどうかを探した。もちろんマンホールなどは中を見ることは出来ないが、声が聞こえてこないかどうか、一つずつ耳を当てて確かめた。

 僕にだってもちろんわかっている。地獄というのはかなり地下にあるだろうから、そんな簡単に行ける場所にはないってことは。

 けれど、その時の僕は母さんに会いたくて仕方が無かったのである。


 地獄を探して二ヶ月が経ち、学校も夏休みに入ったので使える時間が増えた。そこで、地獄の入口の予感がする場所を僕は見つけることが出来た。

 その場所は普通のマンホールとは違っていた。工場の中にある場所で、鉄の四角い蓋が置かれているのだった。そこに耳を近づけると、人の啼き声や悲鳴が聞こえてくることがあるのだった。

 これが地獄の声なのではないか、そう考えた僕はなんとか地獄の蓋を開こうと試みた。

 その蓋には二カ所穴が空いている以外にはとっかかりがない。指で単純に持ち上げようとしても、びくともしない。夏休みということで、一日中頑張ってもまったく動く様子がなかった。

 そんなある日、改めて工場までやってくると、蓋が少しずれていた。僕はその場所から少しずつ間を広げていく。渾身の力をこめるとなんとか人が通れるくらいには広げることが出来た。

 そのまま地下に下りると、遠くの方に光があるのがわかる。地獄の光なのか、オレンジ色に照らされていた。

 地下は夏だというのに涼しい。けれど、変な臭いがした。光がある方に向かうと、僕はそこで一人の女の人を見つけた。その人は全身怪我だらけで、顔もはっきりとわからなかった。

「お母さん?」

 一度尋ねてみるが、身体の細さが全然違った。お母さんではなさそうだと思うと急に怖くなった。僕はここから抜けだそうと背を向けると、女の人は必死にうめき声をあげた。僕は仕方ないので、その人の縛られていた縄をほどいてあげた。その人はよく見ると全身血だらけで、さすが地獄、と僕は思った。


 地上に戻ったのだが、地獄から来た人は行き場所がないらしい。地獄に行った人はそうなってしまうのだという。僕は仕方なく、家に連れて行くことにした。

 女の人は、僕の家には親が居るのではないかと聞いてきたが、お父さんは夜遅くに帰ってくるだけだし、お母さんは地獄にいるらしい、と言うと、その人は悩みながらも着いてきた。

 僕の家で、まずシャワーを浴びさせて欲しいと言い、大人用の服がないか、と聞かれた。僕はお母さんの服を出してあげた。


 それから、女の人は僕の家でこっそり暮らし始めた。一緒に暮らすにあたって名前を聞くと、彼女はナミさんと名乗った。

 怪我が治ってくると、ナミさんの顔がちゃんとわかるようになり、お母さんよりも若くて美人だということが分かった。僕はやっぱりお母さんではなかったのだと、あらためてがっくりした。

 それまで僕はお父さんが置いてくるお金でご飯を食べて買っていたのだけれど、ナミさんがそのお金で二人分のご飯を作ってくれるようになった。

 掃除や洗濯についてもやってくれるようになったので、まるでお母さんみたいだな、と思った。けれど、洗濯物を外に出したり、ゴミを捨てに外に出ることは出来ないらしい。地獄から来た人は、あまり外に出られないのだそうだ。たまに夜中に出歩く以外は、極力ナミさんは外に出ようとしなかった。

 それに、他の人に会うこともできないらしい。だから、お父さんが居るときにはどこかに隠れておくことになった。お父さんはきっとナミさんのことも殴るだろうから、会わない方が良い、と僕は思った。

 僕はだんだんと、お母さんではないけどお母さんになってくれないかな、と思うようになった。けれど、僕が「ずっと居られるの?」と聞くと、その人は真面目な顔で答えた。

「私は、本当はここに居てはいけない存在なの。お金を貯めたらいなくなるわ」

 僕は残念だったが、地獄から来た人はそうなのかもしれない、と思った。


 その日、お父さんは帰ってこない日だったので、ナミさんは少し出かけてくると言って出て行った。

 僕はなんとなく嫌な予感がしていた。最近、お金も貯まってきたらしく、ナミさんの出かける頻度が多くなっていたのだ。

 そしてその予感は当ってしまった。ナミさんはなかなか帰ってこずに、深夜になってしまった。ナミさんがいなくなってしまうのでは、と思って、僕は涙が出てきてしまった。

 そのまま玄関先でうつらうつらしていると、ドンという音がして、玄関が開いた。そこにはナミさんがいた。僕はナミさんの姿に喜んだが、ナミさんはそのまま玄関先に倒れ込んだ。

 ナミさんの顔は真っ青だった。よく見ると、どこかから血が出ているらしい。

「聞いて。警察に電話して」

「死んじゃうの? やだよ」

「お願い」

「やだ!」

 僕は抵抗したのだが、ナミさんは僕を真剣な目で見て、かぼそい声で言った。

「お願い。私、死ぬならちゃんと死にたい」

 その言い方があまりに真剣だったので、僕はわかったと告げる。

 ナミさんが「私のことは何も知らないことにしてね。見知らぬ女の人が入ってきたって言うの」と言うのに従って、僕は警察に電話をした。


 その後、やってきた警察の人にナミさんは連れて行かれた。その頃にはナミさんは動かなくなっていた。

 僕が警察に通報したことで、お父さんが僕の事を放置していることがわかったらしく、僕はその後いろいろな大人に事情を聞かれた後で、お祖母ちゃんの家に行くことになった。

 そのことが大変だったので、後から聞いた話なのだが、ナミさんはもう何年も前に死んだ人であったらしい。

 やっぱりあの工場の下は地獄だったのだ、と僕は思った。

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