10日目 エレベーター恐怖症

 僕の同期の網中君は一際目立つ存在だった。新人研修で、彼が自己紹介した時のことも覚えている。

 研修用の部屋で前に出た網中くんは少年のようで、スーツは似合っていなかった。小柄な彼は、どことなく生意気な少年を思わせた。

「網中潤です。一つ言っておきたいことがあって、ぼくはエレベーター恐怖症を持っていて、会社でも階段を使います。驚かないでください」

 モテそうな見た目とエレベーター恐怖症という言葉のインパクトがあって、網中君は同期の中で一番最初に皆から覚えられた存在だったはずだ。

 彼のエレベーター恐怖症は本当で、新人研修の期間は毎日、研修の部屋がある十階まで毎日階段を使っていた。

 どことなく目立つ存在だったが、彼の仕事ぶりは堅実だった。ITの知識は深いし、コミュニケーション能力も高く、新人研修の課題の進め方も着実なものだった。新人研修が終わった後、配属先の先輩に「新人の中にエレベーター恐怖症の子がいるんだって?」と言われるくらい、その存在は知られていた。


 同期全員の飲み会では彼はほとんど喋らない。女子達は彼のことが気になるところもあったようで、話しかけるのだが、曖昧な返事を返すばかりだった。

 無口なのかと思いきや、男だけの飲み会ではその外見に合う生意気な様子を見せた。

「女子苦手なん?」

 同期の一人が網中君に聞くと、彼は認めた。

「なんだ。言えばいいのに」

「いや、別に何か悪い事したわけじゃないし、失礼かなって思ってさ」

 しかし、網中君の様子はただの女性嫌いというには深刻そうな気配がある。

「言いたくないならいいけど。嫌なことでもあった?」

 ぼくがそう言うと、網中君は参ったな、という顔で答える。

「この容姿で、エレベーター恐怖症というところで、察してくれ」

 結構なセリフだったが、彼が言うと様になった。

 場の雰囲気を変えるように、同期の一人が明るい声で網中君に尋ねた。

「いや、でもなんで、エレベーター恐怖症なのに階段を使わなくても良い会社にしなかったんだよ」

「ほら、それは社会にとって損失だろ」

 網中君が冗談めかして言うので、飲み会の雰囲気は暗くならずにすんだのだった。

 同期で飲みに行く時は自然と男女で別れることとなった。男子の会の帰り道は、どこでも階段を選ぶ彼に合わせて、皆で階段を登り下りするのが定番となった。


 三年ほど経った後、ぼくの入ったプロジェクトが炎上した時に網中君がやってきた。その案件の時の職場は二十三階だったが、網中君は変わらず階段を上っていた。

 三年も経つと、網中君は一際高い能力を持つようになっていて、ぼくが何も出来ないでいたプロジェクトに入り込んで、炎上の沈静化のために活躍した。

 泊まり込みで仕事を続ける中、少し落ち着き始めたので家に帰ろうとなった時、網中君と帰りが一緒になったので、一緒に階段で下りることにした。

 その途中で、ぼくは網中君に尋ねた。

「どうすれば、網中君みたくうまく出来たんだろう」

 彼は少し考えて、おれは後から来たわけだから少し立場も違うけど、と前置きした上で、言葉を紡いだ。

「僕はエレベーター恐怖症だから、いつだって階段を上っているんだ。でも、別に階段を上るのは別に楽しくはなくて、普通に辛い。でも、エレベーター選べないから、その対策はやっぱり一歩一歩上るしかないんだよね」

 だから、僕は忍耐強いんだ。

 今、網中君はアメリカに行って働いている。この前日本に戻ってきたときに行った飲み会で話を聞くと、普段は自宅で働いて、オフィスに出ないといけない時は、三十階まで階段で上っているのだそうだ。


 最近のぼくはダイエットの為に、職場にはエレベーターではなく階段を使うようにしている。そうしていると、ふと網中君の事を思い出すのだ。

 ぼくも社会人歴が長くなり、それなりに経験を積んできた。彼みたいにアメリカでバリバリ働きたいというわけではないが、腐らずに向上を続ければ、いずれどこかにたどり着けるのだろうか。

 階段を上っていると、運動不足のぼくはすぐに息を切らしてしまう。息切れしないで上れるのはいつになるだろう、と僕は思いながら階段からオフィスフロアへの扉を開けた。

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