2日目 朝の空白殺人事件
実家から出て一人暮らしを始めたので、職場へは地下鉄を使って通勤することになった。一人暮らしの場所は、本社との距離や、週末に遊ぶ場所への近さ、そして何よりも家賃の低さが決め手となった。そんな経緯だったので、職場へは電車で一本だが、都心を横断するような経路で少し長い時間乗ることになった。
大手町の駅を過ぎると、電車は一気に空き始めて、席にも座れるようになる。実家の方の電車はどこまで行っても満員で、電車の座席に座れたことはないから新鮮だった。
満員電車ならともかく座れるのであれば、長時間の通勤でも勉強も出来るし無駄な時間にはならない、なんてことを考えていたのだが、それは夢物語だった。
地下鉄という空間が良くないのだろう。外が見えず、朝か夜かもわからない。人がギチギチに乗っているときは現実の存在でしかないのに、空いた状態になった地下鉄は終電間際の電車のように、どこか不思議な場所に連れて行かれてしまうような感じがする。そんな中で、誰もが口を開かず、目を閉じているので、ある種の異界じみたものを感じる。
そんな空間にいると、朝の眠気も伴って僕はふわふわした状態になってしまうのだ。引っ越し当初から、勉強のための本を鞄に入れているのだが、長い間入れっぱなしになっていた。
加えて最近、ブルートゥースのイヤホンを買ってしまった。ノイズキャンセリング機能が優秀で、電車の轟音も遠い出来事になる。英語のリスニングの勉強をするから、という理由で買ったのだが、その用途で使われたことは一度も無かった。
その日もいつもと変わりなく電車に乗って通勤していると、突然悲鳴が聞こえた。悲鳴はノイズキャンセリングも貫通して、音楽に浸りながらぼんやりスマホをいじっていた僕の頭を覚醒させた。
電車は窓からは外の光が差しこんでいる。いつの間にか、終点に近づいて、地下から高架に登っていたらしい。
悲鳴の元を見ると、隣の扉の近くに人が数人集まっている。イヤホンを外しながら近づくと、その男に起こった出来事はすぐにわかった。その人のスーツの胸元に、折りたたみ傘の握りくらいの突起物が出ているのだ。血は流れ出ていなかったが、ふと鉄の臭いを感じた気がした。
次の駅に着き、人が呼ばれ、少し経ってやってきた警察に、事件が発生した時の状況を問われたのだが、僕は「スマホに集中してました」としか言うことができなかった。何度も何度も同じ事を聞かれるのだが、僕がわかることはなにもなかった。
いつもの通勤時のあの車内の雰囲気を伝えるのも難しい。皆寝ているのか、あるいは目を閉じて音楽を聴いて、皆が皆、自身の世界に閉じこもっているあの空間を。
周りの人も皆そうだったようで、警察には随分長い間疑われることとなった。ニュースでも「朝の怪事件」として取りあげられてしまったのだが、犯人自体は防犯カメラの映像で夕方には捕まった。
その後分かったところによると、犯人ナイフを刺したのは、大手町の二駅後のことだった。事件が起こって十分以上もの間、誰も気がつかなかったことに僕は心底ゾッとした。
奇妙な状況に、ネットでは気がついていたけど誰も通報しなかっただけなのだろうとか、スマホ見過ぎの極地などとコメントが書かれ、はたまた暗殺なのではないか、という陰謀論につなげる人すらいる。
それを見るたびに僕は、あの場は本当に時が止まっているような空間だったのだ、と言いたくなるのだった。
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