ついに、壁を探り当てる事に成功した

「ま、そんなとこだ」と壁のない街の住人である彼が答えた。黒柳が壁の内側の世界に戻って来た時、彼の鼓膜は激しい雷の音に満たされていた。鼓膜を震わせ脳天に突き抜けるその音色は壁の中の人間に現実感を取り戻させてくれた。壁の中の住人たちの表情に活きが戻ってきた。黒柳は自分が導き出した仮説が正しいのかどうかを確かめるべく、再び壁に耳を押し当てるのだった。

「わかったぞ! 土浦の部屋に耳朶が生えた理由が!ピアノ屋と土浦の関係が!土浦が耳にピアス穴をあけようとした理由が!すべてはここから始まった」


彼は壁の内部に居座りながら、耳を研ぎ澄ませているのだった。


そして彼は遂に確信を得た。「やっぱりそうだったのか」彼は嬉しそうに独りごちた。壁の内部に住む人間が発する音を耳にすることで、自分の推理を裏付ける証拠を手に入れることが出来た。


これで謎はすべて解けた、あとはその証明だけだ。彼は「よし」と言って、鞄を漁った。壁の内に存在する物質ならどんな物であろうとも壁の中に取り込む事ができる特殊なペンを取りだし、紙と筆記用具を取り出し、書き始める。そして耳を澄ませたままペンを滑らせるのだった。壁のある部屋の中からは耳栓をしている黒柳には何も聞こえないはずだ。だからといって黒柳の行為を止める者は居ないだろう。


彼は「壁の内側で耳を澄ませる者」なのかもしれないのだから……


黒柳が「仕事」を終え帰宅しようとした時に事件は起こった。黒柳の住むマンションの玄関ロビーに若い女の姿が見えた。黒柳は一瞬、見間違えではないかと思ったがすぐに駆け寄り声をかけた。「どうしたんです? こんな時間に」


「あのぅ、黒柳先生ですよねぇ」


黒柳が「そうですけど……」と答えると、彼女はホッとしたような顔をしたように見えたのだが、黒柳は彼女の顔を見て、背筋に悪寒が走るのを覚えた。何故だかわからないが、彼女に恐怖を感じているようであった。「よかったぁ」


彼女は笑顔を見せた。だがそれが作り物であることは明白であった。「黒柳せんせ、私の部屋まで案内してください」


彼女が甘えた声で黒柳の腕を引っ張る。「なっ、何を言うんです!」


突然の出来事に黒柳は狼籍した。黒柳が彼女から腕を振り払う。

「あらぁ、冷たいですね」と不満げに漏らすが、それでも諦めきれないようで黒柳にしがみついた。

「離してください」

「どうしてですかぁ?」

「とにかく、駄目なものは駄目だ。俺は帰るんだ」

黒柳は必死の形相だ。

「私、何もしませんからぁ」彼女は猫撫で声で言ったが、黒柳は聞く耳を持たないといった感じだ。すると、彼女の表情が豹変した。黒柳は本能的に危機を察知した。


逃げなければ、この女は危険だ、と頭の中で警鐘が鳴った。


しかし遅かった。気が付くと目の前から彼女の姿が消えていた。辺りを見回しても何処にも見当たらない。まるで煙が消えるように消えてしまったのだ。


幻覚だろうか? それとも…… 嫌なことばかり思い浮かぶ。


いや待てよ。


黒柳の脳裏に浮かんだのは、あの男の顔。

土浦の部屋に現れた謎の男…… あの男が今ここに居れば…… 黒柳は壁に張り付いた。

目を閉じて耳を壁に密着させた。

目を閉じた事で視覚以外の感覚神経に刺激を与え壁の気配を読み取ろうというのだ。


黒柳の額から冷や汗が流れた。

黒柳の身体に鳥肌が立った。壁に手を這わせた。

黒柳の全身が震えていた。心臓の鼓動は速まり、その鼓動は黒柳に苦痛を与えるほどだった。


しかし彼は壁を放そうとしなかった。


そしてついに、壁を探り当てる事に成功した。


黒柳はゆっくりと目を開いた。そこにはあの日見たのと同じ、あの男が立っていた。やはり間違いはなかった。彼は実在していたのだった。


男は黒柳と目が合うと、口元に笑みを浮かべた。黒柳は驚きのあまり目を剥いた。彼は何食わぬ様子でこう言うのだ。


お前が聞きたがっていた壁の向こう側で起こった事件を話しに来た、と……。


黒柳が男を連れて部屋に帰ると、壁の穴からは耳が生えてきていた。


壁の外の街から流れ込んできた耳のようだ。

黒柳の耳にその声が届いた。耳は囁くように語りかけてくる。耳が黒柳に話しかけてきたのだった。

耳の発している言葉は、壁のない街の人間の言語ではなかったが、何を言っているのか理解出来た。壁の内側に住む人間が壁の存在を認識する事によって生まれる新たな能力なのだという事を黒柳は知った。


耳が語ったところによると……壁の向こう側では激しい嵐が巻き起こっているらしい。それは凄まじいものだったという。その勢いたるや、壁を震わせるほどであったというのだ。その音は当然のように黒柳たちの居る街にも響いてきて、壁の無い部屋を包んだという。

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