壁の外にはね
数日後。再び黒柳は「壁のない街」を訪れた。黒柳は先日耳に入ってきた音を何度も頭のなかで繰り返し再生しながら、壁のない部屋を訪ね、壁のない住人に話を聞くことを繰り返した。そして黒柳はある仮説に行き着いた。黒柳の耳には壁を通してでも、他人の心を読み取る能力が宿っているということだ。その証拠が、この壁の内側にいる男だ。
深淵を盗み聞きする者は深淵に盗聴される。
黒柳の存在はすぐ察知された。そこで仕方なく彼らと紳士協定を結んだ。
「ねえ、最近どうしたの?」
壁の向こう側から女が尋ねた。黒柳が「どうもしないよ」と答える。しかし黒柳の心には「早くこの場から立ち去りたい」という考えしか存在していなかった。
それを知る術もないくせに「どうして?」と質問を続ける女性の声を聞いて黒柳の背中から冷や汗が流れ出た。
黒柳は「じゃあ、そういう事で」と早口でまくし立てるように言うと、その場から逃げ出した。
女性はしばらく沈黙した後、「何なのよ……」と毒づいた。
黒柳の鼓膜は女性の舌打ちを確かに捉えた。それはまるで直接耳に息を吹きかけられたかのように、黒柳は鳥肌を立て震え上がった。
これが何を意味するのか、黒柳はまだ気付いていなかった。
さらに一週間後の夜、黒柳は再び壁のない部屋に居座っていた。耳を壁に寄せて目を閉じる。
黒柳の意識は深い瞑想状態に入っていた。
「黒柳さーん、黒柳先生」。壁のない部屋の主と思われる男性と若い女性の声が響いてくる。その声で我に返る。
「えっ!?」
黒柳が驚く。いつの間にか寝ていたようだ。
黒柳の耳には男女二人の話し声が入ってくるが、何を言っているのか理解できなかった。
壁の無い街の言葉と壁のある街の言語が入り混じって聞こえた。壁がなくても、言葉は伝わるのだ。
しかし黒柳は壁がないおかげで耳栓の世話にならなかった。
耳栓をつけてしまうと耳が塞がれてしまい肝心の話を聞くことが出来なくなる。
耳栓をつけた状態で会話が出来るようになるまでには時間がかかるし、慣れるまでに相当な労力を要した。
「ああ、失礼」
黒柳が目を擦り起き上がる。
壁がないおかげで、こうして睡眠を取る事が出来るようになったのだから文句は言えないが、それでも不便なのは確かだ。
「どう?何か分かった?」
黒柳が聞く。
「いい加減教えてくださいよぉ」
若い女性が不満げに呟いた。
「もう、うるさいなぁ……わかったよ。教えるから」
男性は溜息混じりに答えた。黒柳は自分の予想通りだった事を知った。「じゃ、お願い」
男性が「はい、はい」と面倒くさそうに返事をする。
黒柳が息を飲む。心臓が高鳴る。鼓動の速度が上がっていくのを感じた。そして彼は語り始めた。
「壁の中にいるのにどうやって声を届かせるかだって?」
男は鼻で笑った。
「そんな簡単なことがどうして分からないんだ」
黒柳が黙った。「俺たちはね、壁に話しかけているんだよ」
「どういう事だい」
黒柳が尋ねる。
「あんたには見えないだろうけどね、この部屋にも窓くらいある。もちろん壁なんて無いけどね。その向こうには『外』が広がっている。壁が邪魔しない分、『外』はずっと遠くにある」
黒柳は男の言葉を疑うことなく受け入れて聞いていた。壁の存在しない世界が存在するということ。
そして壁のある世界で暮らしている人間たちは壁の存在を忘れ去ってしまうことがあるという事。
黒柳の耳にもそんな話は伝わってきた。しかし実際に目にするまで信じられなかった。だから黒柳の目は真実を求めていた。この世界の秘密を知りたいと、壁のない街の人間の言葉を信じようと決めた。
「壁の向こう側、つまりこの壁の向こう側にね」
男が壁の向こう側の風景を指差す。そこには空があった。
「空が」黒柳は言った。
「壁の外にはね」男は続ける。
「雲が流れているんだ」壁の外側では雨が降っていて風が強くて雷がなっているのだという。壁がある街に住む人間の常識を揺るがせるには充分だった。
「そしてあの雷の音だ。俺にはこの壁には防音機能なんか備わっちゃいないって聞こえるのさ。あの音が耳を伝って鼓膜を振るわせる。そして壁に反射して増幅され、この部屋を包む」
そうか、そういうことなのか…… !
黒柳の身体に衝撃が走った。
壁の内側に居る人間に壁の存在を思い出させる為に必要なのは壁を振動させる事だ、という事が分かったからだ。そしてそれを成しているのは、あの雷の響きに違いないのだ。
「じゃあ、あの雷は……」黒柳の思考回路に電撃が走り抜けた。
「壁の中にある街に向かって、鳴り続けているという事なんだね」
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