さあ、今夜は忙しくなるぞ

黒柳は料金を請求した。従業員一人分の月給に相当する額だ。それでも命を買うよりは安い。ピアノ屋が金貨で立て替え払いした。

「まいどあり」

「こちらこそありがとう。あんたのおかげで助かったよ」

「また何かあったらよろしく頼むよ」

土浦とピアノ屋の声を聞きながら、黒柳は悠々と去って行く。

耳朶がすっかり消えちまったところを見ると、ピアノ屋のパワープレイが奏功したのだろう。愛の巣は二人に乗っ取られたのだ。

「耳朶が結ぶ赤糸か。俺にも耳寄りな話はないかな」

黒柳は独り言ちる。

それにしても腑に落ちない点がたくさんある。そもそも土浦はなぜ耳にピアスの穴をあけようとしたのか。それに耳朶は婦女子の聞き役だ。土浦はピアノ職人と(誰がどう見ても)ゲイの関係にある。筋が通らない。

考えているうちに夜になった。

聴診器退治の仕事に出かける時間だ。どうもピアノ屋を通じて評判が広まったらしく黒柳のもとに依頼が舞い込んでいた。黒柳は仕事道具の詰まった鞄を提げて街に出た。

* * *

仕事を終え、自宅に帰る途中のことだった。

黒柳は急に喉が渇いて自販機を探し始めた。そしてふと思い立って、いつもと反対方向の電車に乗り継いだ。

黒柳の耳は特別製なので他の人と同じように自販機を探すことは滅多にしない。

硬貨を財布から摘み上げて投入口に投げ入れるなど考えられないからだ。だが今日に限って黒柳の耳は別のものを求めていた。

耳が求める音とは即ち耳障りだ。人の耳は雑音を好まないが、逆に言えば耳障りなものこそ真実だと思っている。


例えば音楽や歌声、あるいは楽器の演奏や演説は、人が生業とするに値しない雑音だ。そんなものに金を出してまで聴き入るのは時間の無駄であるばかりか人生の浪費でしかないと考えている。

だから黒柳の耳は普通の人とは違う。目的の駅で降りる。そこはいわゆる壁のある街の郊外だった。

駅前に人気はなかったがすぐに見つけることが出来た。自販機コーナーがあったので缶コーヒーを買い求めベンチに腰を下ろしてプルタブを外した時、耳がピンと立った。

耳の奥が痺れるような感じだった。黒柳の鼓膜は特殊な形状をしていて、壁一枚で隔てられた場所から放たれた声も聞こえるようになっている。そしてこの壁の向こう側は「壁のない街」と呼ばれている街だった。黒柳は壁に耳を当てた。するとかすかにだが会話の内容が聞こえてきた。壁の薄いアパートからだろうか。「壁のない街」の住民は大抵壁のない部屋に住んでいる。


この世界では壁がないので防音の心配はない。その代わり壁の厚い家を建てる事は出来ない。そして壁のない街の人々はみな壁のない家に暮らすことを良しとしているようだった。

壁のない家がもたらす恩恵には二種類あった。

ひとつめが隣人の囁き声、そして二つ目が耳が拾ったあの音の正体だ。

壁のない街に住む人々が耳栓を常用する理由はここにあった。


彼らは壁のない街の住人同士、顔も合わせずに内緒話を楽しんでいるのだ。「壁のない街」は秘密主義に満ちている。


しかし壁のある世界の人間にはそれがわからない。

「壁」を媒介しないと言葉を交わす事さえままならないというのに、壁のない人間は自分たちだけ意思の疎通が出来ているという妄想に浸っているのだ。


黒柳の耳には壁の中の会話の断片が飛び込んできた。

「今度の選挙、誰に入れるか決めた?」

「俺は山田さんだな」

「あ、そう。私は××さんね」

(壁がないのだから投票用紙に書かれた名前に耳を寄せる必要もないのに。馬鹿らしい……)」

黒柳はそう思ったが、同時にこう思う。

もし自分にとって都合の良い人間が当選したら、自分は耳で聞き分けようとするのではないか?

黒柳は首を横に振って雑念を振り払った。

くだらん想像をしている暇があるなら、耳で壁のない住人たちを観察する事にしよう。凡人の聴覚では知りえない秘密を聞いてしまったのだ。高く売れる。

彼は耳が拾った情報を元に黒柳は推理を組み立てることにした。

「さあ、今夜は忙しくなるぞ……」


黒柳は耳で聞いて得た情報を整理して、自分の推理とすり合わせることにした。

まず候補者の名前。それから性別、年代、経歴などをメモしておき後々分析する事にする。そして最後に壁越しに聞いた、壁のない部屋の中で響く、心地良いとは決していえない「音」を脳裏に浮かべながら手帳にペンを走らせる。

耳栓の用意だけはしておいた。耳栓なしではこの音がいつまでも頭に残って仕事に支障をきたしそうだと思った。

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