【耳かきジョニーの事件メモ】耳とブロンズベリーの夜

水原麻以

夕方までにやってくれ。金は幾らでも出す

けたたましく懐が鳴った。

「はい。お電話ありがとうございます」

「困ってるんだ。急いでやってくれ」

棚から牡丹餅という言葉は降ってわいた災難と紙一重だ。

「キャンペーン割引などございませんが?」

「そんなものいい。倍額払いたいぐらいだ」

「かしこまりました。ではお名前から……」

依頼を受けた黒柳は、客先の家に向かう道中、建物の外観や周辺の風景を観察していた。静かな住宅街にある家は、古びた外壁が印象的だった。黒柳はドアをノックすると、土浦が開けてくれた。土浦は、汗をかきながら、黒柳に頼み事を伝えた。「頼むよ。夜も寝られない」と懇願され客先に出向くと天井にびっしり耳朶みみたぶが生えていた。おまけにほんのり甘く、2秒後に強烈な刺激が鼻腔粘膜を突き破った。

「げっ!」

さすがに黒柳も驚いた。この仕事を始めて3年。業界では長老格だ。

「いくらなんでも弊社ではちょっと」

玄関めがけてダッシュする。すると袖をつかまれた。

「夕方までにやってくれ。金は幾らでも出す」

依頼人は涙目で頭を下げた。

下駄箱に色あせた女の子の写真立てがある。

黒柳は家族愛に弱い。

「わかったわかった……わかりましたよ!」

めをつむり両手で依頼人をおしとどめる。

「やってくれるんだな?」

もう止まらない。お願いベースの命令だ。

「わ・か・り・ま゛し!……た!!」

黒柳はやけくそ気味に引き受けた。


耳掃除職人のジョニー黒柳は聴診器の駆除を副業にしている。シュッとした細マッチョな身体をパリッとしたワイシャツとチノパンでつつみボサ髪と視点は常に明後日を向いている。薄ら笑みを絶やさず、誤った好感を与えている。

それが救いだ。キモ善人と遠巻きに評する者もいる。


客の男は土浦厳と言った。BMI高め。壁のある街から来た男と称しているが素性は誰も知らない。

仮名らしい事は向かいのピアノ屋から聞いた。

黒柳にとっては来歴より金払いが問題だった。

黒柳は暇なピアノ職人の噂話に生返事をしながら天井に昇った。

すると耳朶がピクピクと震えて何かアピールしていた。


黒柳はジョセフソン綿棒にジャム醤油を浸して掃除にとりかかったが耳朶はそれをはたき返した。

「お前、何か言いたいことがあるのか?」

子犬サイズの耳朶は「みょーん」、と産毛を逆立てた。

聞いてくれと言わんばかりに毛先を黒柳に向け振り返ったりソワソワしたり必死でアピールしている。しまいには毛先で黒柳を押し返す。

そのはずみで鞄から小瓶が転がり落ちた。

黒柳が拾おうとすると「みょみょみょみょ、みょーん!」と制止する。

「事情はわかった」


黒柳は綿棒を片付けた。そして梯子を下り「今日は仕事にならない」と職人に嘘をついた。

夕方に土浦が血相を変えて文句を言いに来た。

「耳朶を一掃してくれる約束じゃないか!」

黒柳は「この話はなかったことにしてくれ」と金を返した。

「どういうことだってばよ」

なおもつっかかる土浦。

黒柳は話を促す。

「…ピアノ屋に言ったじゃないか。耳朶をなくさないためを頼んだ」


土浦は耳を疑う。「何をわけがわからない言い訳をしているんだ。料金の倍を払う。お願いだ。俺の寝室から耳朶を一掃してくれ。俺は眠いんだ」


そりゃそうだ。耳朶に好かれた者は産毛の子守歌で非業の衰弱死を遂げる。

もともとは壁のない街で造られたとも黒の迷宮から飛来したともいわれる。同じ昔話を繰り返す老婆や未亡人の聞き役に徹する機能があるという。

いずれにせよ男だけの街には無用の長物だ。

だから土浦が気味悪がっている。なぜ自宅を耳朶の巣にされたのか。


「悪いが耳朶から事情を聞いちまったんだ。お前はピアノ屋と結託して

終わりのないピアニカ演奏をさせるつもりだろ? 俺は騙されないぞ」

「そんなことはない。俺はただ、自分の耳のピアスホールを塞ぎたいだけだ」

「そうか、じゃあ明日もう一度来る」

黒柳はそれだけ言うと帰って行った。

翌日、黒柳は再び土浦の家を訪れた。

「どうしたんだ?」

「いや、昨日の話だが、耳の穴を塞ぐだけなら何もピアノ屋の手を借りる必要はないんじゃないかと思ってね」

「なんだって!?」

「つまりさ、穴が空いている耳に、別のものを詰めればいいんだよ」

黒柳は鞄から大きな白い紙袋を取り出した。中には黒い物体が入っていた。それはボールのような台所虫ジワムの死骸だった。

「これなんかいいんじゃねえかな。ちょっと手触りが違うけど……」

黒柳が色つやのよい個体を取り出した。

「おいおいおいおいおい!」

土浦はズボンを濡らした。死後硬直が進んでザワつく毒針を見ればみんなこうなる。

「ひぃい。殺さないでくれぇ」

子どものような震え声を出す。

「あのさあ! そう簡単に死なれちゃ困るんだよ。つか、俺が死ぬんだよ」

黒柳は台所虫を握りつぶす勢いだ。

「何言ってるかわかんねぇよ! こんなもん入れるくらいなら自分でやるわ!!」

土浦は絶叫する。

黒柳はジワム入りの紙袋を仕舞った。

そして天井を振り返って舌打ちした。

「そうか。だが料金はいただくぜ」

土浦は「は?」と耳を疑う。耳朶の駆除をするまで払えないと耳を貸さない。

そこで耳に胼胝ができるほど黒柳は道理を説いた。

下駄箱の写真を土浦の前に立て、こう説教した。

「お前の為じゃない」

うーむ、と土浦は唸った。奨学金と書かれた茶封筒から現金を抜いた。

黒柳は厳しい目をしている。

「ちぇっ。耳に痛い話だ。2倍だったな」

父親はとうとう観念した。気が変わるまえに黒柳は告げた。

「耳をそろえて払ってもらおう。出張費は込みにしといてやる。まいどあり」

黒柳は領収証と明細票を渡した。

そしてお値段以上の仕事をした。「今度生える時は養分を選べよ」

黒柳は森のはずれで盛り土に花をたむけた。割り増し分はチャラだ。


それから一ヶ月後、黒柳はピアノ屋の主人と一緒に土浦の家に呼ばれた。

二人は部屋に入るなり仰天した。

ピアノは調律され、鍵盤蓋も閉じられていた。

土浦のピアス穴はすっかり塞がっていた。

しかし部屋の中はまるで地獄絵図だった。床には大量の耳垢が落ちていた。それらは乾燥し、小山のように積み重なっていた。

足の踏み場もない。

「これはひどい」

黒柳は呟いた。壁に人型のシミがついている。耳をそばだてている様だ。


「だろう? こいつらのせいで毎日掃除してもきりがない。もう疲れちまってなぁ」

ピアノ屋は頭を掻いて溜息をつく。

「それで、こいつは一体なんなんだ?」

黒柳は山のような耳垢を指差す。

「わからん。気がついたら増えてるんだ」

「なるほど、よくわかった」

黒柳はピアノの下に潜り込み、耳掻きで耳垢をかき出した。

そして床下収納庫を見つけると耳掻きの先端を差し込んだ。

「おい、まさか……!」


「そのまさかだよ」黒柳は床下の耳垢にジャム醤油を流し込む。

耳垢はみるみる溶けて液体になり、収納庫を満たした。

「よし、これで大丈夫だ。あとは水洗いすれば綺麗になるぜ」

黒柳は立ち上がり、二人に背を向けた。

「あんたらは運がいい。耳朶の虜にされたら死ぬところだった」

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